第2話 休日の朝、王子の隠れ家にて。

 爽やかな朝の光を感じて目を開く。王城や貴族の邸宅の窓には日光を通さない分厚い窓布カーテンが掛けられているのが常識。でも、私は早朝に起きる為に薄い布を使っている。


 目を開くといつもの自室ではないことに気が付いた。白糸で可愛らしい花の刺繍がされた掛け布に柔らかな体が沈み込むベッド。透けるような薄い布が天蓋から垂れさがっている。


 ベッドから出ると、白く塗られた壁に薄荷色の腰板。薄荷色の窓枠。床は白い石のタイル。薄荷色の可愛らしい家具が並んでいて、まるでお伽話の中の一場面。……私が幼い頃、夢見ていた部屋に似ている。


 鏡台に王女から頂いた白いリボンと愛用している短剣が置かれていて安堵の息を吐く。鏡を見ると、私は昨日と同じシャツとトラウザーズ姿。軽く施していた化粧は、まるで洗顔した後のように綺麗に落ちていた。


 リボンをシャツの隠しポケットに入れ、短剣をベルトに挟み込んで、自分が置かれた状況を確認する。ブーツが見当たらないので、目についた室内靴を履く。


 昨日、王子に膝枕をしたまま飲み続けていたことは覚えている。途中、手洗いに行って、さらに飲んで。誰かと笑いながら飲んだような記憶が薄っすらとあっても顔が思い出せないし、ずっと王子の頭を膝に乗せていたような気もする。……まさか自分が飲み過ぎて記憶を失うことになるとは思わなかった。体に異常がないことが唯一の救い。


 部屋を見回してみても、儀礼服の上着と剣はない。クローゼットを開くとピンク色のドレスとワンピースが並んでいた。様々な色合いと意匠デザインのドレスが五着、ワンピースが五着。いくつかのドレスには見覚えがあった。

「これは……ロザリーヌ様のドレスの色違い……」

 王女は水色か青色のドレスを好んで着用していた。ピンク色も似合うだろうと思っていても、いつも言い出せずにいた。


 ドレスを出して、姿見の前で体に当ててみると顔色が華やぐ。私に誂えたような寸法に戸惑いながらも、ふわふわとしたフリルとレースの波に心が躍る。


 幼い頃からフリルとレースが好きだった。母も私を着飾らせることが大好きで、お揃いのドレスを着ることも多かった。一方で、元騎士だった父は私に剣を持たせることが密かな趣味だった。


 兄二人には侯爵家の後継者として家庭教師が数人がかりで厳しい教育を行う中、父は母に隠れて私に剣術の稽古を付けた。父の影響を受けた私は剣の輝きに魅入られ、常に短剣を持つようになった。


 ドレスをまといながら無邪気に武器を愛でることが許される恵まれた子供の日々は過ぎ、公式行事に出ることになったのは十四歳。


 王女の誕生日会という初めて参加する公式行事の緊張の中、呪われた魔鳥が王女に向かって放たれた。たまたま王女の近くにいた私は、ドレスの下に隠し持っていた短剣で魔鳥を斬り裂いた。


 王女を救ったとはいえ、王族の前で短剣を隠し持っていたということは咎められても仕方のない行為。当時十歳だったルシアン王子が、私の剣の腕を見込んで王女の護衛騎士に任命しなければ、私は罪に問われていたかもしれない。


 ドレスをクローゼットに戻し、部屋を確認する。窓の外を伺うと、青空とどこまでも広がる海が目に入る。見覚えのある建物を見つけ、港の近くだということがわかった。昨夜、宿泊する予定だった宿ではない。


 別の部屋への扉に耳を当てても、扉が厚いのか音は聞こえない。警戒しながら静かに扉を開くと、隙間から見えるのは白い壁にクリーム色の腰板と家具。誰もいないのかと部屋へ入った所で、四人掛けのソファで私の儀礼服の上着を体に掛けて眠る王子の姿が見えた。


 柔らかそうな波打つ金髪が朝の光で輝き、力の抜けた表情はどこか可愛らしい。昨夜と同じ、白い優美なシャツに黒のトラウザーズ姿。声を掛けるべきなのか、起床を待つのが正解なのか迷う。これが騎士仲間であれば、間違いなく蹴って起こしている。


 窓を開くと爽やかな初夏の風で窓布がふわりと踊る。舞姫が持つベールのようで美しい。


 風が王子の頬を撫でたせいなのか、青い瞳が静かに開いた。無防備で子供のような笑顔に戸惑う。

「おはよう。ジュディット」

「おはようございます」

 こういった状況で、どう行動することが正解なのか全くわからない。窓際で直立し、右手を胸に当てて応対するしかない。万が一にも王女なら、隣の部屋から掛け布を持って駆け寄っていただろう。


 起き上がった王子が、私の上着を持って近づいてきた。

「ジュディット……もしかして、覚えてない?」

 何のことかと聞く前に、指輪のことを思い出した。左手に目をやると、指輪に嵌められた炎の色の宝石が煌めく。


「恐れ入りますが、この指輪を外して頂きたいのです。貴婦人の作法を忘れた私には、王子妃を務めることは出来ません」

「それは難しいな。君も聞いているかもしれないけど〝王子妃の指輪〟は、世界で一番適任と思われる女性を選ぶ」

「初めて聞くお話です。それでは呪いのような物としか思えません」


「そうだね。呪いなのかもしれない。我が国の王族は代々、妃の為の指輪を自らの魔力で作り上げてきた。時には互いに望まない相手の指に嵌まってしまったこともあると聞いている」

 まさにそれが今、なのではないだろうか。


「……その方は、どうなさったのですか?」

「結婚した後、それぞれ愛人を作ったらしい」

 衝撃で息が止まるかと思った。王女の護衛騎士として身を律し、恋だの愛だの浮かれた話に興味を持つことは避けてきた。それでも、その結婚はあまりにも悲しいと想像は出来る。


 貴族の娘である以上、義務で嫁ぐこともあるだろう。侯爵家の娘が王子妃になることは名誉であると頭ではわかっている。それでも王女は私に、女性としての幸せを掴んで欲しいと仰った。これでは幸せとは程遠い。


「安心して。僕はジュディット一人だけだから。愛人なんて作らないよ」

 明るく微笑まれても、気休めにもならない。王子の婚約者は納得しないだろう。


 十四歳の私の命を救ってくれた王子に敬意は持っていても、そこに恋愛感情はない。それどころか、今はどうやって亡き者にしようかと考えているのに。


 どれだけムカついても貴人の前で溜息をつくことは許されない。息を吸い、姿勢を正して口を開く。

「申し訳ありませんが、現在の状況をお教え頂けないでしょうか」

「状況?」


「この場所がどこであるのか、私は何故ここに連れてこられたのかお教え下さい」

「ここは僕の隠れ家の一つ。ジュディットの隠れ家でもあるから、自由に使っていいよ。昨日、宿から一緒に歩いてきたんだけど、覚えてない?」

 ざっと血の気が引いた。王族に街中を歩かせた? 王子の側近や騎士たちは何をしているのだろうか。馬車か馬を用意するのが普通だろう。

 

「申し訳ありませんが、覚えておりません」 

「あ、そうなんだ。楽しかったのに残念だなぁ」

 そう言われてみれば、誰かと笑いながら手をつないでいたような気がする。


「今日は休日だから、朝食にしようか」

 休日と朝食。それが繋がる理由がわからない。とにもかくにも、この貴人の相手を務めなければならないのかと思うと気が重い。


「おっと、その前に着替えかな。僕も着替えてくるよ」

 テーブルに置かれた小さなベルを鳴らし、王子が微笑んだ。


      ◆


 目覚めた部屋に戻り、鏡台にリボンと短剣を置いて浴室でシャワーを浴びる。王族を待たせることはできないから、時間は掛けられない。浴室に揃えられた石けんや香油は私が好んで使っている柑橘の香りと、使ったことのない花と果実の柔らかな香りの二種類が揃えられていた。


 どちらかと迷って、花と果実の香りの物を選ぶ。甘く柔らかな匂いに包まれると心地いい。


 化粧着ローブを羽織り、髪を身拭いタオルで拭きながら浴室を出ると、三人の侍女たちが待ち構えていた。王城内の騎士の生活ではありえなかった光景に思考が停止してしまう。


 クローゼットの中から服を選ぶようにと促され、落ち着いたピンク色のワンピースを着用すると、鏡台の椅子に誘導された。乾燥魔法の護符が使われて、あっという間に髪が乾く。


 三人の侍女たちの手技は、王女付きの侍女にも劣らない。金褐色の髪はゆるやかに巻かれ、ワンピースの色に合わせたリボンの髪留めが飾られる。


 一番驚いたのは化粧。いつも使っている化粧品と同じなのに、全く印象が異なる。まつ毛は長く、目は大きく。淡く自然で血色の良さそうな頬。昔々に憧れた、お伽話の姫君たちを思い出す。


 ワンピースの色は落ち着いていても、あちこちにフリルとリボンが飾られていて、綿の素材とくるぶし丈のスカートという点を除くとデイドレスに近い。


 鏡に映る私は、騎士ではなく貴族の娘。騎士であることに誇りを持っていても、心の奥底に隠していた姫君たちへの憧れが胸のときめきを刺激する。すべてを剣に捧げた私でも美しく着飾る事ができた喜びは、自然と頬を緩ませた。


「とてもお美しいです」

 侍女たちの褒め言葉は、職業的な物とはわかっていても嬉しい。

「ありがとう」

 お礼を告げて立ち上がる。もっと鏡を見ていたいと思っても、王子を待たせることは許されない。


 侍女に案内されながら部屋を出て、入り組んだ廊下を歩く。道順を覚えることに苦労はしないのに、侍女を追い抜いてしまわないように歩幅を小さくすることの方が難しい。


 公務に忙しい王女は早く歩くことを心がけていて、二人で先頭を歩くと侍女が付いてこれないことが頻繁にあった。昨日まで一緒にいた王女の思い出が、何故か懐かしくて遠い。


 十年間、目覚めから就寝直前までずっと王女のそばにいた。婚約者との初顔合わせの日も、どんな方なのかと想像して冗談を言っては笑い合った。美しく可愛らしい妹。不敬とは思っても心の底ではそう感じていた。


 いざ送り出してみると、心に穴があいたような寂しさがある。一緒についていくつもりで荷物も用意していた。荷物は宿の部屋に置いたまま。王女との思い出の品も多数含まれているから、どうしても取り戻さなければ。


 食事の部屋の扉が開かれた。明るい朝日が差し込む窓際に、淡いクリーム色のシャツに黒いトラウザーズ姿の王子が佇んでいる。煌めく金髪が天から降りてきた精霊のようで、どきりと胸が高鳴った。


「ジュディット、今日も可愛いね」

 王子の第一声を聞いて、耳が壊れたかと思った。可愛いという言葉はこの十年誰からも聞いたことがない。

「……ありがとうございます。お待たせして申し訳ありません」

 本当に何もかもが未体験で対処不能。たとえ女に戻っても、もっと賢く立ち回れるかと思っていたのに。どう返答することが正解なのか全くわからない。


「大丈夫、僕も今来た所だから」

 軽やかな足取りで近づいてきた王子に誘導されて、食卓の席へと座る。王子は私の為に椅子を引き、私が座りやすいようにと気遣う。いつも私が王女にしていたことを、そのまま王子が行ってくれた。


 白いテーブルクロスが敷かれた食卓は通常王族が使用するものではなくて、とても小さい。対面で座っても、互いに手を伸ばすと触れてしまう近さ。微笑む王子が着席すると、朝食前の花茶が侍女の手で出された。可愛らしい白のカップには、淡い青色の花茶が満たされている。


 何故か侍女が部屋から退出してしまった。部屋には使用人が誰もおらず、王子と私の二人だけ。窓の外には花が咲き乱れる庭園が見え、爽やかな風が透ける窓布をふわりとひるがえす。


「……不躾な質問をお許し頂けますか」

「そんなに硬くならなくていいよ。もっと自然に話してくれたら嬉しいな」

 王子に微笑まれると、さらに思考が硬直しそうになって困る。


「この服のことですが、私が着用しても良かったのでしょうか」

 婚約者のアリシア嬢に用意された物ではないかと思うと、恐ろしい。


「ああ、ロザリーヌにお願いしていたんだ。ジュディットが好きな服を注文して欲しいって。服も髪飾りもロザリーヌが選んだものだよ。好みに合わないかな?」

「い、いいえ。私の好みにとても合うものばかりです」

 王女が私に選んでくれたと聞くと、すっと肩の力が抜けて頬が緩む。とはいえ聞くべきことは聞いておきたい。


「王女の御厚意に感謝致しますが、何故、こちらに服が用意されているのでしょうか」

 これではまるで、私がここに来ることが最初から決まっていたかのよう。


「ジュディットは僕の婚約者だから」

 微笑む王子に、改めて殺意が湧いた。私は承諾してはいない。

「……酔われた際のお戯れだったのではないですか?」

 まさか最初から計画していたのかと、すっと心が冷えると同時にムカつく。許されるなら殴りたい。


「戯れじゃないよ。ジュディットに僕の婚約者になって欲しかったんだ。まさか、あんなに簡単に嵌めてくれるとは思ってなかったけど。いろいろ準備してたんだけどね」

 軽すぎる言葉で頭を殴られたような気がして、こめかみを押さえる。ますます殴りたくなってきた。今なら誰も見ていない。


「……恐れ入りますが、手順をお間違いではないでしょうか」

 通常、結婚の申し入れならば私の父へ最初に挨拶があるはず。父母が了承した上で私に伝えられる。貴族の娘である以上、正式な手順で申し込まれれば、どんなに不本意でも受けるしかない。


 ただ、今回は王子には正式な婚約者がいる。そちらの婚約が解消されてからの申し込みになるのではないだろうか。


「侯爵には婚姻の許可をもらってるから安心して」

「……アリシア様には、どう説明されるのですか?」

「アリシアも知ってるから大丈夫だよ。バルニエ公爵にはこれから説明するけど、指輪が選んだと言えば反対することもできないしね」

 理解不能。大丈夫とは思えない。婚約者の王子に他の女性と結婚したいと告げられたアリシア嬢の心情を想像しただけでも背筋が寒くなる。優しく聡明な王子と尊敬をしていたのに、他者の気持ちを考えられない方だったのか。


 私が沈黙してしまったのをどう受け取ったのか、王子は食卓に置かれた小さなベルを鳴らす。再び入室した侍女たちが朝食の皿を並べていく。


 正直に言えば、食事を楽しむ気分ではない。王女の一番の理解者と思っていた王子の傲慢さに失望していることは隠さなければならないし、何より殴りたい気持ちを抑えるのが精一杯。


 貴族の朝食といえば、お決まりの薬膳粥。雑穀粥のようで質素に見えても、実は希少な薬草が使用されていて栄養価は高い。騎士の食事は肉と卵が中心の料理ばかりで胃に重く、朝の食事はいつも義務的になりがちだった。


 スープカップに入った粥を一口すすると、爽やかな酸味と旨味が優しく口の中に広がる。久しぶりの懐かしい味を口にしても心は晴れない。


 白い皿に美しく盛られた果物のみずみずしさは、朝の光を受けて輝く。正面に視線を合わせれば、王子が優しく微笑む。この瞬間を切り取れば、きっとお伽話の世界。大好きなフリルとリボンで飾られた服を着ていても、お伽話のお姫様には到底なれないと心がちりりと痛む。


 粥を食べ終え、王子は果物を口にする。

「このオレンジは、甘くておいしいね」 

「はい。こちらは領民が二十年をかけて品種改良を重ねたものです。土や肥料が特殊ですので、他で真似することはできないでしょう」

 果肉が赤みを帯びたオレンジは、父の領地の特産品と一目でわかる。王女も好んで食べていた。 


 オレンジとイチゴ、黄ブドウとメロン。一口大に切られた果物の甘さと酸味が食欲を刺激する。皿に盛られた半分を食べて食事を終えた。


 食後のお茶を前にして、これからどうするのかと王子の言葉を待つ。何の予定もない一日は、どう過ごしていいのか全く分からない。読書をしようにも本はない。


 護衛騎士としての休みはあっても、訓練と武器の手入れで時間はあっという間に過ぎ去った。たった一人しかいない女騎士に替わりはおらず、長期の休暇を取る必要も感じなかった。


「ジュディットが気になるだろうから、アリシアの所に行こう。最初から知ってたって証言してくれる」

 無邪気な王子の笑顔が怖い。ムカつく心を抑えて、いつまで殴らずにいられるだろうか。


 何事にも控えめだった王女との違いに戸惑いながら、私は王子と共に馬車へと乗り込んだ。

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