6、星のかけら
次朗が朝餉前からずっと、裏手の鶏舎前に座り込んでいる。
塩むすびとお茶を盆に乗せて、勝手口から消えた瀬戸菜が、空のお盆をうちわ代わりにサンダルを脱ぐ。一緒に戻ってくるかと半分期待していたが、瀬戸菜は後ろ手にノブを引いた。
「仕事あるのになぁ、もー」
「待つしかないだろ」
「兄さん次朗にあまーい」
悲しいのは次朗だけじゃないんだから、と抗議してくる妹は作業用のTシャツにジーンズだ。皿拭き中の香奈の脇で、残りご飯を鬱憤晴らしにと握りだす。香奈も思い出したのか、口を閉ざすと手の甲で瞼を擦った。
先週、鶏たちがキツネにやられた。
野生動物の襲撃はたまにあることなので、めげてばかりもいられないが、いきなり全滅はさすがにきつい。精神的にも家計的にもだ。五羽いたうちの一羽が食料として運び去られ、他の四羽も首を噛まれての全滅だった。雨続きのせいか鶏舎の壁板に穴が開いており、そこから侵入されたらしい。しかも、連れ去られた一羽がよりにもよって「あゆちゃん」だったので瀬戸菜も「おそうしき」のしようがなかった。
次代の「あゆちゃん」が何になるかは分からないが、次朗の説得は意外な形で功を奏したことになる。しかし瀬戸菜はああ言っているが、実のところ林史は瀬戸菜にも大概甘い。鶏舎に残っていた名札の紙を食み食みして顔をしかめ水を飲んでいるのを見たが、敢えて咎めず黙っている。
何にせよ、林史は次朗の心配などしていない。あの弟は、家畜の死にただ悲しむばかりのタマではない。経験上、こういうときの次朗は、何も考えていないように見えて、かなり大切なことを考えている。
ようやく東北でも梅雨が明け、入道雲の季節になった。
まだ朝なのにじーわじーわと蝉の雨はひっきりなしで、立っているだけでもたちまち汗が噴き出てくる。
「予想以上だな……」
「雑巾足りないかも」
「何の糞だろ、カラスっぽいけど」
「キラキラしてるねー!」
里村さんちの鳥糞まみれなトラクターを四人きょうだいで観察し、年齢順に発言したらこうなった(次朗は時間になったら準備を終えてついてきた)。
腰の曲がった里村の婆さんが、どうもねえどうもねえ、と麦茶の盆を縁側に置いて挨拶し踵をみせる。盛夏の農作業は朝の涼しい時間帯におおよそ済ませてしまうため、お茶目な婆ちゃんは少々早い昼寝の時間だ。
里村さんの息子は山向こうで養鶏場を営んでいる。新鮮夏野菜と、不要の鶏を優先的に譲ってもらえる権利をかけて、鳥の糞まみれになった農耕車の掃除を引き受けるのは当然だった。冬の雪かき、夏の草取り、春と秋の雪囲いと、力仕事は若者が担当する、それが現代日本の不文律。働かざる者食うべからずだ。
作業自体は単純だ。軽く全体に水を掛けたあと、濡れ雑巾で二度拭きし、もう一度乾いた布で仕上げをする。赤いトラクターにしみついた白い糞を拭きとると、ガラスの粉にも似た汚れがべっとりついた。
「ねえね、ウンチなのに白くてすっごいキラキラしてるよー。なんで、なんで?」
雑巾を絞る役目の香奈が、背伸びしながら瀬戸菜に声をかけている。敢えて口は挟まなかった。根っからの理系である次朗とは違い、香奈が求めているのは科学的な答えではない。仕事の退屈を紛らわす「物語」だ。
こういう時、瀬戸菜は子どもの夢に話を合わせるのがとてもうまい。「タンポポのあゆちゃん」といい「おそうしき」といい、想像力が豊かなのだろう。林史は話を聴くことしか出来ないが、瀬戸菜は話で楽しませることができる。香奈もそれを分かっているから、林史ではなく姉に訊くのだ。
「鳥さんはねー、雲に憧れて飛ぶから白いんだよー。でね、人間は土の上を歩くから、茶色いウンチなの」
「じゃ、じゃあね、じゃあね。キラキラしてるのはどうして?」
「星のかけらを食べたから。前に、分校の校庭で流れ星を見たの憶えてる? きれいだったよねえ」
顎を上向けて、遠い目をした瀬戸菜の前髪が、夏風に弱く揺れた。背中の毛先は首元で濡れタオルに張り付いている。
頬の汗を左腕で拭い、林史はそのまま仕事を続けた。蝉の雨に負けない長女の声は涼しげに耳にしみる。
「あのときね、このあたりにも小さな星の屑がたくさんたくさん落ちたんだよ。とってもきれいで、お日様みたいに光ってたんだけど、でもほら冬だったじゃない? すぐに雪が降って隠れちゃったのね。でも、春になって……」
いったん休憩と、車の赤い屋根から伝い降りて、手袋を外すと瀬戸菜は縁側の麦茶をこくこく飲んだ。屋根の庇、日陰と日なたの境目にいて頬にじっとりと汗が光る。
「春になってー?」
「春になって雪が溶けて、冬の間お腹をすかせていた鳥さんたちはもうびっくり。お天道さまと同じ場所から落ちてきた星のかけらは身体を温めてくれるから、まだ寒い時期だったし、最高の御馳走だったの。と、いうわけで、せっせ、せっせと星のかけらを食べた鳥さんたちのウンチは、こんなにキラキラしてるわけ。おしまーい。はい雑巾ちょうだーい♪」
「はーい、新しいぞうきんでございまーす」
仲睦まじい姉妹に背後の弟がしらけている。水汲みを終えてから、ぼそりと兄にだけ聞こえるように呟いた。
「病気じゃね、ふつーに」
理系と文系の相容れなさは無常だ。林史は苦笑して雑巾洗いを弟に任せた。足首に冷たい水が跳ねてしみる。
次朗の言うことにも一理はある。鳥の糞は確かに食べたものによって色が変わるが、普段と糞の状態が違ったのなら警戒に越したことはない。病気の可能性も充分あるし、伝染性の何かだった場合はここら一帯の鶏舎でも、予防と注意が必要になって、くるのだが。
「しかし、キラキラね。何か知ってるか」
動物博士に水を向けると一瞬言い淀み雑巾を渡してきた。
「糖尿かも。……俺も写真とか見たわけじゃないから違うかもしんない」
「そっか。町内会に報告してみるわ」
「うん」
次朗が水を汲みに行く。林史は空を仰ぎ、それから妹たちを視界の端に見た。瀬戸菜の優しい世界に、宇宙はどのように映っているのだろう。
ちらちらと光る水溜り、木漏れ日と蝉の合唱。稲は青々と盆地の色を夏色に染めて蛙を飼い、足元のくっきりした影、姉妹の笑い声、翻る右の袖口。耳を塞ぐいのちの盛りの真下にいて、錆びの赤いトラクターを前景に、鴨が水田を群れて泳いでいた。
「あのさ」
前触れなく、背中から声がかけられる。林史は眉一つ動かさずに振り向いた。水を汲みに行ったはずの次朗が、少し離れて静かに兄を見据えている。学校で集団から一人離れて本を読んでいる時と、同じ目だった。林史は眼鏡の奥の目を細め、口を緩めた。
「どうした?」
「うん……。えっと。俺がテスト勉強してた間、鶏舎の世話をしてたのは兄ちゃんだろ」
「ああ」
先週は中等部の期末テストが近かったのと、三日も寝込んで家事を任せきりにした償いに、鶏の世話とコクマロの散歩を林史が代わっていたのだ。この夏で背が伸びてきたかななどと関係ないことを考えつつ、言葉の先を促すと次朗は言葉を探し探し、俯きながら呟いた。
「兄ちゃんが、本当に、壁の穴には気づいてなかったのかなって思って」
林史は頬を掻いた。やはり次朗は、自分よりも頭もいいし、勘がいい。瀬戸菜たちをちらと見遣って、彼女たちに話が聞こえないよう木陰に誘うと、素直についてきた。木陰は涼しく、積乱雲の白が空とのコントラストで眩しい。
「気づいてたわけじゃない」
もちろん嘘だった。穴が開きそうなのを、知っていて放置した。
弟が俯く。
「いつもは絶対気づくのに、なんでさ」
「病み上がりでぼうっとしてた。自分から代わったのに、悪いと思ってる。……あいつらにも、おまえらにも」
これは、半分だけ嘘だった。
これでよかったと、どこかで思っていたからだ。
弟は唇を噛み、樹の下に立った兄に強い足取りで近づいた。
「でもあの穴、自然に腐って板が剥がれた感じじゃなかった。外の網はキツネが確かに食い破っていたけど、鶏舎の周りは穴を掘って潜った痕もなかった。でも俺が世話してた時は、そんなこと」
「だから、兄ちゃんがわざと穴を開けたと思ったか」
兄の苦笑いに、突然、無茶な理屈だと自覚をしたのだろう。決まり悪げに弟は頬を赤らめた。
「いい推理だが、残念ながら理由がないな」
「………ごめん」
「違うよ。俺は、そんなことはしない」
緑の木擦れを仰ぐと、弟の肩を叩いて仕事に戻らせる。
林史はひとつ嘆息し、言わなかった真相に思いを馳せた。
穴を開けたのは林史ではない。
これは本当だ。
死の待つ扉を開けたのは、喰い殺されたあゆちゃん自身だったからだ。
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