5、願い笹

 加味壁林史が事故に遭い、右腕を失くしたのは十代最後の年だった。

 こつこつ続けた努力が実を結び、市内の工業専門学校に進学できた矢先の事故だった。誰の責任でもない。ただの不幸な偶然の集積による事故であり、強いていえば事故防止の取り組みが万全ではなかった学校のせいかもしれないが、関係者の何れにも法的な過失はなかった。歳の離れた編入生の見舞いには誰も来なかったし、入院代もかさみ、持て余す右肘先の幻痛に耐えきれずに、高専は辞めざるを得なかった。

 何度目かの手術を終えて最後に医師の説明を聴きながら林史が悟ったのは、この先――大多数の地球人が目指す舞台へ敷かれた階段に、自分は永遠に踏み出すこともなく、地上したで空を見上げ続けるだけなのだ、という事実だった。しとしとと葉を打つ梅雨明け前の薄暗い窓辺に座り、上手く食事もひとりで出来ない入院生活の中、気が狂うほど繰り返した祈りは届かなかった。

 それ以来、林史の中で宇宙への憧れは消えたのだ。願い事が叶うなどとは期待しない。この世界は自分に手の届かないはるか上空で美しく回転する小惑星のちらばりだ。塵の集積もガスの渦も、彼にとっては田畑を渡るわらべ歌の如く農民の疲れた脚を慰める、遥かな過去の残響に過ぎなかった。

 事故に遭った日にも雨が降っていたせいなのか、どうなのか。眠りの底で、寄せる波のように年に一度は思い出したくない記憶が蘇る。

 浸る水田を、葉を打つ雨を、車窓から無感動に眺めていた出戻りの一両列車、効き目の薄い天井の扇風機がかき混ぜる生温かい風。赤ん坊を背負って仕事に出ている母の代わりに、駅で次朗の手を引き出迎えてくれた、その冬に死んだ優しいじいさん、裏木戸に寄りかかる痩せっぽちの妹。どこもかしこも湿気の濃い、ぬかるんだ靴跡だらけの田舎道。手伝おうとしても絞れない雑巾。梅漬けの瓶。布団から抜け出たと思えばまた夢の中、薄暗い病室、貰って来た子犬、父の残していった荷物の中身、錆ついた電源と重機。虫食いの映像が目の裏を熱して立ち消え、夢かうつつかと目覚めては忘れたかった日々が瞼を頭痛で貼りつかせて壊れたメモリはノイズを交えて夢を歌う。目の裏が熱い、目の裏が、……


 屋根を打つ雨音が、頬を冷やして目が覚めた。

 障子紙の闇は藍色に滲み、高い位置にある小窓から、夜明け前特有の薄ら明かりが部屋全体を淡く照らしていた。早朝からぴちちと小鳥の影が複数横切り光が陰る。石の色が染まるそれで外は雨かと知る如く、窓の位置から林史は自身の状態を意識した。


(いつもの、あれか)


 普段は次朗と一緒の部屋に寝ているが、熱を出したときには母の寝室に隔離される。母が出稼ぎに出てからも律儀に続く習慣だ。

 年に一度、林史はこうして熱を出す。まるで呪いだ。梅雨の終わりになると、林史の身体が忘れるなとばかりに悲鳴をあげて身体のスイッチをぱちんぱちんと音を立てて落としていく。靄のかかった天井と数日語らえば何事もなかったかのように回復はするのだが、毎年毎年、来ないでほしいといくら願っても意志に反して起きられない朝がやってくるのだった。うだる吐き気に揺られ、右肘から先が戻ってきたかのような錯覚にいっときの希望を抱いたのもつかの間、夢の中でも機械に押しつぶされる痛みが蘇り意識を苛む。

 三日三晩を苦しんで、ようやく正気が戻ったのだろう。霧の晴れない意識にたゆたい、夜明けの気配にあらためて薄目を開ける。人影程度しか分からないはずの明かりの元、寝息を立てる気配に林史は額を覆った左手の甲をずらした。

 長女が隣に長座布団をしき、柔らかな肩だけ見せて毛布をかぶり伏して寝ている。眼鏡のないぼやけた視界では定かではないが、気配だけでもそれと分かった。夜明け前に起こすのも申し訳ないと、自身に言い聞かせて目を閉じようとしたが、なにかが引っ掛かり首を巡らす。違和感の原因が視界に映る色だと気づき、その正体を察して林史は小さく笑った。

 移動させた視線の端に、さらさら俯く何かが揺れる。頬に当たるほど近くにあるそれは、七夕の願い笹だった。枕元の柱にガムテープでたどたどしく留めてあり、浅葱色の短冊には「おにいちゃんがはやく元きになりますように」とマジックペンで書かれている。くっきりした色に大きなひらがなで書かれた文字は、眼鏡なしでも判読可能だ。香奈の字で間違いない。


 胸に満ちたものは暖かさと同時に、おかしさだった。香奈は、ガスや鉱物の発光体が、人の願いを叶えてくれると信じているのだ。もっとも、信じているのは香奈だけではない。子どもたちは皆、大人たちでも、月面基地ができる今でも流れ星に願いをかけるのだから。


 腕を失くして、ようやく体力的にも精神的にも働けるようになり、大沢分校の小学校教諭として勤め始めて数年後。とある冬に、「しし座流星群を見る」授業を有志の生徒を集めて行ったことがあった。

 保護者同伴だったので、小さな分校校庭は運動会並の人であふれていた。

 東北は初雪の頃で、とても寒かったが香奈は顔を真っ赤にして喜んでいたから、幼くともきっと覚えているだろう。

 無数の隕石、燃え尽きる星々、邪気のない子どもらの身勝手でいとおしい願い事。月面基地の建設事業が始まったのは香奈が産まれてすぐの頃だったから、星の海に汗を流す父の無事を祈る声も少なくなかった。香奈も無邪気に連絡も仕送りも寄越さない父親の無事を願っていた。いつ、父が女と逃げたのだと弟妹たちに話すべきかと、林史は関係のないことを考えていた。

 見逃したと騒ぐ子どもらを励ますたびに、蟻地獄の砂のようにさらさらと暗い穴の底にはがれおちていくものがあった。あの時は、まだ傷が癒えていなかったのだろう。つまり、今の心持ちは、少しだけ違う。


 星に願いをかけるのは、かけられる身になると悪くないものだった。


 瀬戸菜に気づかれないようにそっと、身を起こして眼鏡を探す。雨音が薄れていたのを感じていたが、カーテンを引いてみれば黒雲は半ばが吹き散れ、切れ間のむこうは晴れていた。藍色が濃い。梅雨明けが近いのだろう。

 不意に光が陰る。雲かと思えば鳥影だった。

 こんな時間に、帰巣でもあるまいに珍しい。


――世界中の鳥でやったら、一個決めるだけでも一年くらいかかるよ。


 なぜとは知らず、次朗のことばが脳裏によみがえった。

 ある鳥たちは集団で行動を起こすにあたり、『群れの気分が充分に高まるまで』特有の鳴き声で鳴き交わし、鳴き交わし、集団行動に至る「票決」までに長い時間がかかるのだと話していた。

 彼らは一体、どんな気分を共有したくて鳴いているのだろうか。


 日が昇る。雲の合間に光の泉が湛えられ、小鳥の鳴き声とカラスたちの羽音ばかりが雨樋の水音に混じる、静かでつめたい朝だった。

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