3、アオムシコマユバチ

 瀬戸菜には、可愛がっているものに「あゆちゃん」と名付けるくせがある。

 大抵は花か小動物だ。引き取られてきた時に抱いていた金魚のぬいぐるみもそうだったし、小火ぼやでぬいぐるみが燃えた後のお気に入りは庭隅のタンポポだった。そして、お気に入りのものが壊れたり枯れたりした時に、瀬戸菜が必ず行う儀式が、裏の小川で行う「おそうしき」だ。「あゆちゃん」と「おそうしき」は基本、対の関係になっている。

 初めてタンポポを水葬したときは、十六歳だった林史もずいぶん変なことをする子だな、と思ったものだが、十年経ったらもう慣れた。あの頃七つだった瀬戸菜が、七歳の妹の手を引いて卵をお裾分けに行くのだから時の流れは早いものだ。

 瀬戸菜の「おそうしき」は独特だ。

 「あゆちゃん」の一部(たとえば花弁や葉を一枚、もしくは髭を数本)を食んで、お祈りをしてから裏の小川に水葬する。花ならまだしも、対象が動物の時は、なんとも声をかけられない。当代の「あゆちゃん」は裏に飼っている雄鶏だが、次朗が『有精卵食ってるし羽は喰わなくてもいいんじゃないの』と今から姉を説得しているところだ(検討を祈りたい)。

 傷だらけでガリガリに痩せ細りすべてに怯えていたあの頃からずっと続けているその行為が、どうして始まったのか、林史は聞かない。聞けないといった方がいいのかもしれない。


 ――ただし、一度だけ。

 「一口食む」、という行為はやめた方がいいんじゃないかと、話してみたことがあった。

 毒のある植物だって少なくない。ましてや動物の毛や一部など、感染症の危険もある筈だから、と。

 その裏にある意図を察して、大人びた十六歳の妹はサンダル履きの足許を見た。蟻たちが行列をつくっていたことを、そこに木漏れ日が落ちていたことを、なぜか林史は今でも鮮烈に覚えている。


「……そうしないとね。なんか、だめなの」

「やめろとは言わんよ」


 それが瀬戸菜にとって大切なことなのは分かっていた。だから、結局のところ「言ってみただけ」になるのだろう。林史にとって互いの距離を測るにはその質問が適切だっただけかもしれない。瀬戸菜は初夏の日差しの下で隣り合うと眩しいくらいに膝小僧が白かった。


「わたしが鈍感だからかな。壊れちゃったんだと思う、そういうところ」


 縁側からすぐの家庭菜園に丸々と育った春キャベツを、指差しながら妹の声はあくまで明るかった。


「前に、次朗があそこでとってきた青虫のこと、憶えてる?」

「ああ。……きつかったな」


 ある日、『青虫が蝶になるのを見たい』と言って次朗がキャベツ畑の青虫をとってきた。さぁいつになれば蛹に、と、きょうだい皆(と、まだ生きていたじいさん)で楽しみに待っていたところ、――青虫の腹を割って、うぞうぞと黄色い小虫が這い出してきたのだ。トラウマである。次朗はクールに『だめか』と呟き公民館図書室に出掛けて行ったが、あまりにショッキングな光景だったのでその後の経過は見なかったし敢えて原因も聞いていない。

 林史の顔色を見て、瀬戸菜はころころと笑った。


「兄さん、真っ青だったもんね。弱いんだから」

「それがどうした」

「次朗に聞いたの。アオムシコマユバチっていう、蜂がね、蝶の幼虫に子どもを産むんだって。するとね、青虫は自分で思う通りには動けなくなるの。一杯ごはんを食べて、丸々育って、でも最後には蜂の幼虫たちが青虫の中身を食べて外に出てくるの、あんな風に。兄さんはあの後見てなかったけど、お腹を食い破られた青虫はね、それでも蜂の幼虫のために死ぬまで働かされてたんだよ。甲斐甲斐しく世話して繭をつくって……バカみたいだった」


 気の早い蝉が鳴いていた。蟻の列には大きな蟻が途中から混じり合い、どちらの獲物なのか良く分からなくなっていた。


「……それも特別なことじゃなくて。青虫じゃなくても、カタツムリやハエや猿なんかもね、寄生されると、気づかずに天敵の前に進み出てしまったり、雄と雌が分からなくなったり、ごはんを食べすぎたりもするみたい。おかしいよね。自分で自分が分からなくなっちゃうのかなぁ」


 首を傾げてにっこりと、少女は白い光に目を染めた。梢にそよぐ風で砂利が遊び、遮られた太陽が雲のまだらを雑草だらけの地に映す。


「でも、わたし思うんだ。きっと気づいてもどうしようもないんじゃないかな。蝶になれないって知ってて、どこから来たかも分からない知らない生きものがいつの間にか身体の中に入っているのに、彼らのために動いちゃう。食べるものも全部取られて、身体を喰われて、性格だって変えられて。でもどうしようもないんだね。一度寄生されたら、きっと死ぬまでそうなの。初めて見たときは、黄色い幼虫たちが許せないって悲しかったけれど、蜂だって一生懸命なんだって、次朗の話を聞いて思ったの。そうやって自然はみんな生きようとするんだね。だから、……わたしはもう自分のためには生きられないけれど、これからも好きなものを少しずつ身体に入れて、せめて好きなもののいいなりになりたいの」


 林史は義妹の俯く横顔を見た。裏木戸から流れる小川の行きつく先、南の稲荷神社の上でカラスたちが電線に群れて止まり陽気な声で鳴いていた。


「昼飯でも食べようか」


 瀬戸菜は兄のことばにめずらしく淡い目つきで微笑んで、食卓用に初夏の鮮やかな花を摘む。



 分校の職員室で握り飯を頬張って、はしゃぐ生徒たちを遠目に見た。寄生した蜂の幼虫たちもまた、青虫が鳥に捕食されれば無事に成虫になることはできないという。無事に蝶になれる青虫は一割にも満たない。花壇を、茂みを、蝶がひらひらと、花から花へ舞いうつる。

 あれ以来、キャベツ畑を通るたび、白い蝶を見かけるたびに、彼女の横顔を思い出す。

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