2、昆虫記と動物記

 次朗はいつでも突然、思い出したように林史のところにきて、脈絡なく話を始める。


「コクマロのあくび、俺のに伝染するんだって」

「いきなりなんだ」


 林史はバケツに雑草の束を放り込んで、頬の土を拭った。気がつけば春も盛り、家庭菜園だけの加味壁家でもやるべき仕事はいくらでもある。里村さんちの畑仕事を手伝っていたはずの次朗が、ここにいる理由は問わない。里村の婆さんは夜早いので、大抵この時間には仕事も終わる。


「犬はさ、飼い主につられてあくびするんだ。仲がいいとさ、眠いって気持ちも伝染するんだよ」

「続きも聴いてやるからホースを持ってこい」

「うん」


 素直に頷いて次朗は水場まで戻り、緑の筒紐を引いて帰ってきた。日の傾いた空、山の端に淡く滲む赤が、薄藍色に溶けていく。堀の土手はなだらかに長く、ちろちろと流れる細い流れはこの季節、水量が豊富だ。

 手と靴の泥を流しながら、ついでに首のタオルも絞る。あらためて巻き直すと冷たかった。


「まぁ、人と人でも眠いという気持ちは伝わるしな。一緒に暮らしてるから、犬も人に似てくるのかな」


 そう言うと弟が兄を馬鹿にしたような目で見た。次朗はことさら、大声をあげて囃したてたりはしないからこの年頃にしてはまともな方だと思っているが、この勝ち誇ったような目はどうだろう。自分もこの年頃の経験者だから覚えがあるが、若干神経を逆なでしてくる。気にしても仕方が無いが。


「気分が伝染するのは人間だけじゃないよ。鳥だってそうだよ」

「へえ」


 茜の雲にアァ、アァー、とカラスが鳴きながら連れだって西出山にしでやまへと帰っていく。沈む陽の逆光になればまるで絵本の挿絵だ。もっともあれはカラスじゃなくて雁だったかと思い直しつつホースを巻き巻き片づけて、鳥影に夢中な弟の元に戻った。

 食い入るようにカラスの帰山を見つめていた次朗は、電線に、林と神社に、と視線を移動させつつ、ようやく隣に並ぶ兄を思い出したようだった。


「あれさ、山に帰っていく前も、全員が『帰ろう』って気分になるまで待つらしいよ。決めるまでぐるぐる飛んだり鳴いたりしてさ、皆が同じ気分になったらようやく帰るんだって。それに、飛ぶ鳥の声につられて、飼っている鳥たちが一生懸命飛ぼうとすることもあるんだよ」


 物静かな瞳が、この時ばかりは少年らしく炭火のように、だけれど赤々と確かに輝く。

 昆虫記や動物記、動物行動学の入門書。次朗にとって生き物たちの世界は子どもの頃の遊びだけでは終わらずに、次々知識の水を飲んでいく。黙々と本を読み、捕獲した昆虫を四苦八苦して飼おうとしては失敗し、次朗の世界はいつまでも鮮やかであり続ける。街の高等学校にも入れてやりたいところだが、このご時世、食べていくので精いっぱいだ。母もいつ、厳しい立ち仕事ができなくなるか分からない。貧乏家庭の男が学歴もなしに宇宙に行かず地上に残って仕事をするのに、研究職など夢のまた夢だ。次朗にはまだ現実のなんたるかを話すことは出来ないけれど。


「ちなみにペンギンはあくびで求愛してるんだ。だから俺が眠い時は兄ちゃんや姉ちゃんに対する愛情表現なわけ」

「お前はペンギンじゃないだろ」


 額を小突くと、小生意気な弟が肩を竦めて、まあね、と冷静に呟いた。

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