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竹村いすず

1、加味壁きょうだい

 鶏が告げるのは、人間さまの目覚めの時間ではない、と加味壁かみかべ林史りんしは常々思っていた。午前四時や五時にけたたましく鳴かれても、爺さん婆さんの目覚ましにしか、なりはしない。だからこそ、朝も暗いうちに弟妹たちを起こすのは気が進まない。下の妹はまだ七歳だ。可哀そうなことをしている自覚はある。

 水汲みがてら顔を洗い終えて庭に出れば、まだ薄暗かった。眼鏡についた水滴を振ってから右袖で拭い、足元の視界を確かめる。三月も末というのに、日陰には霜が降りていた。雪冠を抱いた吾妻連峰は、白いその縁に強い朱色を滲ませている。

 薄闇のまだ涼しい階段を昇りきってすぐ脇、左手で障子を開ける。

 十三歳の弟がいびきをたて、コーギー犬が脚に頭を載せているのが目に入った。寝乱れた布団がめくれかえっている。大声で、


「起きろ、起きろ。じいさんの墓参りだぞ」


 と叫んでみたが、全く反応がない。一度起こしたのにもう熟睡だ。これが若さか。

 飛び起きてまとわりついてきた犬をいなしつつ、林史は屈んで弟の肩をゆすった。こうして見ると昔の自分に憎らしいほど顔が似ている。


「んん………眠いぃ」

「だから昨日は早く寝ろっていっただろう」


 片手で転がすようにして、弟の布団をはいでまとめる。寝惚け眼で枕元の厚い本に手を伸ばした弟が、家族にしか分からない笑みを浮かべてまた眠った。この寒いのに本さえあれば幸せらしい。


「コラ起きろ」


 足で小突きながら溜息をついて、顔を巡らせると窓を開ける。ほのかな豆味噌のかおりがした。国営放送のニュースらしき音も階下から届いてくる。

 どうやら、林史が顔を洗いに行っている間に朝食を準備してくれているらしい。


「次朗、起きろ。あゆちゃんに笑われるぞ」


 その名を出すと、次朗が途端に目を開けて半身を起こした。中等一年の弟は、まだ背が小さい。切れ長の目をしょぼしょぼとさせて、パジャマのまま立ち上がると障子に激突して転んだ。


 ちなみに「あゆちゃん」とは朝告げの雄ニワトリの名であり、けして弟の好きな少女などではない。


 もう中等生なのにそれでいいのか動物おたく、と悩みながらも兄は弟が着替え始めるのを確認して、犬のコクマロを抱きあげた。尻尾をはち切れんばかりに振っていたのが控えめになり、代わりに赤い舌をべろんと出してせっせと喉元を舐めている。生温かい。

 軋む階段を下っていけば、妹ふたりがテレビを見ていた。香奈はまだ七歳、無理もないがこくりこくりと船をこいでは重力に負けている。瀬戸菜せとなは料理の途中なのか、おたま片手にエプロン姿だ。それほど熱中してはいなかったらしく、兄の気配にはすぐ気づいた。

 瀬戸菜は十七になったばかりだ。左目を覆うように肩まで伸びた褐色の髪は傷を隠して、足は引きずりながら、それでも彼女はカタバミのように小柄で笑うとあいくるしい。彼女が加味壁家に引き取られたのは林史が十四歳、瀬戸菜が五つの時だが、その頃からあまり喋らなくても、林史は彼女のことが良く分かった。


「また事故か」

「父さんのところじゃないけどね。人、死んだみたい」


 彼女は兄に妹を預けると、居間から続きの台所に立ち、朝食の仕上げに戻った。軽快に蕪の葉を刻み、仕上げの吸い口代わりにと小鍋に散らす。テレビ画面に顔を戻すと、事故の説明もそこそこに記者会見のようすに移った。

 数十年計画で雇用回復を一手に担う暗闇の空、月面の建設工場は事故が多い。

 事故でなくとも、宇宙うえに出稼ぎに行く労働者たちの労働災害は際立って発生率が高い。怪我や死亡、障害ならば補償されるからまだ良いのだが、病気については各国で対応の差があり議論が延々続いている。とある有名大学が何かしらの論文を発表したとかで、ニュースでは連日、宇宙放射線による疾病の有意性について特集が組まれていた。

 バカバカしい話だ。宇宙での労働は給金が高い代わりに癌や白血病の罹患率も非常に高い。そんなことは、テレビに出てくるお偉いさんでなくても重々承知だ。それでも大航海時代を経て独立戦争に勝利して、二百年前のアメリカ大陸が希望の新天地に見えていたように、庶民はリスクを恐れない。誰もが宇宙での新生活に夢を見る。今や二十代から五十代までの半数以上、富裕層と欠格者を除けば実に七割以上の男性が月面基地絡みの仕事に就いているのが、その証だ。

 林史が二十代後半になっても地球にいるのは、宇宙に興味がないわけでも金があるわけでもなく、事故で失った右肘先のせいだった。これでは宇宙に渡ったところで学歴もない林史には大した働きなどできない。欠格者は国策により農業に従事するか(補助は出る)、田舎の教師あたりが関の山だ。富裕層以外の人間で、地上したに残っている成人男性はそんなやつらばかりであり、概して顔つきは暗かった。

 宇宙空間における労働を禁じられている者たちは他にもいる。放射線の影響が大きいとされる未成年、抵抗力の弱い高齢者、障害等で働けない人間、出産可能性のある女性エトセトラ。稼ぎ頭を失った家庭を支えるため、女性も働きに出ることが多い。仕事のない田舎では残る子どもら(と、もし居るのなら祖父母)で家を守るのが一般的だ。加味壁家もまさにその典型だった。

 幼い弟妹を抱え、母の仕送りと自身の僅かな給金で生活を守りながら――林史は時折考える。まるで授業で習った戦時中の光景のようだ、と。世界史で習ったのと映画で見ただけなので想像することしかできないが、子どもらと老人だらけの片田舎で暮らしていると、想像力ばかり膨らんでいく。これじゃ宇宙人が攻めてきたら守りの手薄な地球は壊滅だな、しかしその時、敵の背後、月から決死の特攻隊が……等と今朝もくだらないことを考えつつ(男の性だ)、犬を下ろし香奈を手招き膝に乗せた。両手で抱きあげられれば良かったが、残念ながら腕が足りない。

 お決まりの放射線測定値の値を経て、地球上の中継局に切り替わるとニュースは後半だ。先日、母の勤めている工場が出た時は録画して皆で繰り返し盛り上がったものだが、そんなことはめったにない。今朝は「SNS会社の株急落」に、「通信会社の収賄」「女優の離婚」「世界一周、鳥の変わった鳴き声」というコラムのようなもので締められて天気概況に切り替わった。最後のニュースが気になったのか、次朗が図鑑を抱えて階段を駆け下りてきたものの最後の段を踏み外しかけて堪え、派手に尻餅をついた。

 外では無口な弟の醜態に笑いが抑えられずにいると、ぽこんと牛乳パックで上の妹に叩かれる。


「兄さん、手伝わないならあゆちゃんたちに餌あげてよね!次朗も階段は走らない」

「はいはい」

「はーい」

「あーい」


 半覚醒の香奈までが、つられて小さな手をあげた。残った腕で彼女を撫でてニュースの音を遠く聞く。

 手薄な家庭を守る欠格者でも構わない。林史が波穏やかな日々を送れるのは、ひとえに支えるきょうだいたちがいるからだ。

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