第77話
「なんで……」
かすれた声がした。
誰の声か一瞬分からないけど、それが自分の喉から出たものであるらしいと気付くのにそう時間はかからなかった。
だってこの場にはふたりしかいないんだから。
美織じゃなければ、僕以外に誰がいるというんだ。
「美織、なのか……?」
口に出してすぐ、馬鹿なことを聞いているなと、自分でも思った。
さっき自分で言っていたじゃないか。
ここには僕と美織しかいないって。
そんなことは、ちゃんと分かっているはずなのに……。
「そうだよ」
ああ、ほら。やっぱりだ。
短いけど、ハッキリと肯定の言葉が返ってきた。
もう疑う余地はない。目の前の女の子はやっぱり美織なんだ。
「う、あ……」
だっていうのに、なんでだろう。
吐き気がこみ上げてきた。
まるで聞きたくない答え、見たくないものを目にしたかのような感覚が僕を襲う。
「大丈夫、紅夜くん。顔色悪いよ」
あぁ、美織が心配しているらしい。
昔から慣れ親しんだ声だ。昔から美織は心配性だった。
自分もそんなに身体が強くない癖に、僕のことばかり気にかけてくるんだ。
今さらこんなこと思い出しても、なんの意味もないってのに。どうして。
「大、丈夫……」
なにが大丈夫なんだろうか。
体調か。あるいは認識だろうか。
ごくりと唾を飲み込むけど、口の中がカラカラだ。
ついさっき朝食を食べたばかりだというのに、もう乾いているらしい。
(あれ……? そもそも僕、今朝はなにを食べたんだっけ?)
ほんの数分前のことだと言うのに、思い出せない。
なんだってんだろう。おかしい。目覚めだってそこまでひどいものじゃなかったのに、どうして――。
「どうしたの、紅夜くん。すごい顔してるよ?」
頭の中がぐちゃぐちゃになり始めている僕を見て、目の前の女の子はクスクスと笑った。
心配とは真逆の、イタズラが成功した子供みたいな、無邪気な笑みだった。
美織。美織は――あんな顔で、笑う子だっただろうか。
「ちが、う……」
「なにが違うの?」
吐き出した否定の言葉に、間髪入れず聞いてくる美織。
分かってる癖に、聞いてくる。
僕の答えを待っている。いや、違うか。僕は答えざるを得ないように仕向けられたのだ。
無視をすることが出来ない状況を作ってきた。
頭が回るのは、人格が変わっても同じなんだなと、思わず小さく笑ってしまう。
僕にはなんの得にもならない情報だ。
「なんで髪、染めてるんだよ」
それは単純で、当たり前の疑問だった。
本来なら、真っ先に出すべき言葉のはずなのに、余計な回り道をしてようやく出た。
まるで僕という人間の在り方そのものだ。
言うべきことを言うべきタイミングで言えない、聞けない。
無駄なことをして引き延ばそうとしても、なんの意味もないことなんて分かってるのに……。
「イメチェンかな。どう、見違えたでしょ?」
そう言って、またくるりと一回転。
絵になるのは確かだけど、違和感がすごい。
元からそうではあるが、今の美織は輪をかけて違和感の塊だ。
まるで別人を見ているかのよう――。
「別人だよ」
直後、冷や水をかけられたような気がした。
「え……」
「私は美織だけど美織じゃない。そのことを、紅夜くんは分かっていない」
冷たい声だった。
だけど同時に、どこか熱がこもっているかのようでもある。
「いや、分かってるけど、見ないようにしてるだけ、かな。まぁどっちでもいいんだけど、私を見させるようにするにはこうするのが手っ取り早いかなと思ってね。知ってる? 人間って、視覚からの情報が8割なんだって」
矛盾だ。冷たいけど熱いだなんて、そんなのおかしい。
おかしいけど成り立ってるとしたら、そいつ自体がおかしいんだ。
それはきっと、そう感じる人間も同じだろうけど。
「人間顔じゃないってよく聞くけどさ。結局それって、ただの誤魔化しだよね。ハッキリとデータが出てるのに、感情論のほうを信じたがる人が世の中には多いんだよ。おかしな話だよね。時代は進んでるのに、古臭い誰かの言葉を信じてる人がたくさんいるなんて。人間そうそう進化なんてしないってことなのかなぁ」
「……なにが言いたいんだよ」
長いうえに要領を得ないことばかり喋られても、判断に困る。
「目で見たままのことを、今は信じてもらいたいってこと」
「見たままって……」
「今の私、どう思う? 美織に見える? 違うんじゃないかな?」
矢継早に、そんなことを聞いてくる。
美織の声で、自分は違うと言ってくる。
「じゃあ、お前は誰なんだよ」
「だから美織だってば。違う美織だけど、私は美織だよ」
そして、訳が分からないことも言ってくる。
美織だけど美織。美織じゃないのに美織。
言っている意味が分からない。
前々からそうだけど、この美織にはズレを感じる。
それがこの違和感に繋がっているのは間違いない。
「意味が、分からない……」
「紅夜くんは今の私を美織と思えばいいってこと。簡単なことでしょ?」
簡単なはず、あるかよ。
今の僕に分かっているのは、この美織がどうしようもないほど、僕に執着しているってことくらいだった。
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