第78話
「出来ないって顔してるね」
僕を見て、美織は楽しそうに笑った。
本当に心から楽しそうな、僕の見たことのない顔で。
「うわ、今度はもっとすごい顔になった。紅夜くんって、そんな顔もするんだね。私、初めて知ったかも」
美織が吐いた感想は、一字一句僕が今の美織の笑顔に抱いたものと同じものだった。
だけど、中身は真逆。感心する美織に対し、僕はただ嫌悪感だけが募っていく。一刻も早くこの場を立ち去りたくてたまらない。
今の僕は、きっと露骨にイラついていただろう。そのことを隠すつもりはないし、美織だって見抜いているはずだ。
「へへっ、嬉しいなぁ」
だが、美織はまた笑う。今度は破顔するように、ふにゃっとした笑みを僕に見せた。
まるで自分の家にいるかのようにリラックスしている。目の前の僕の怒りを、なんとも思ってないどころか、嬉しそうですらあった。意味が分からない。
「なんでそんな、笑えるんだよ」
「言ったじゃん。嬉しいからだよ」
「なんで嬉しいんだよ。僕が怒ってることくらい分かるだろ」
「それでも嬉しいものは嬉しいから笑うんだよ。動物の笑顔は威嚇行為なんて話もあるけど、私は人間だから、嬉しいと思ったら笑うの。なにもおかしなことじゃないでしょ?」
おかしなことじゃない? そんなはずあるか。おかしなことだらけだ。
さっきから僕はなんでと聞くのを繰り返してるし、美織は嬉しいと何度も言う。
こんなの、会話になってない。まるで幼稚園児と先生のやり取りみたいじゃないか。
「言葉の裏を読み取れとでも言いたいの? 僕には美織の言いたいことが分からないから聞いているんだ。それとも、僕の察しの悪くてごめんなさいと頭を下げればいいのかよ」
そのことを意識してしまったのもあってか、今度は態度だけでなく、露骨に不機嫌な物言いになってしまった。
感情的になってはいけないと頭の中では分かっているのに、口を開けばこうなってしまう。
僕はもっと理性があると思っていたけど、美織の前だとどうしても気持ちを抑えることが出来ない。
「あはは、それはいいよ……いや、でも、ありなのかな? そうすれば、私の知らない紅夜くんのことをもっと見ることが出来るかもだし」
今度は悩む素振りを見せ始めるが、こっちもそろそろ限界だ。
こうしている間にも、時間は確実に流れているのだ。学校に行くために家を出たというのに、このままでは遅刻してしまう。
「答えるつもりがないっていうなら、もういいよ。僕は学校に行くから、後は美織ひとりで……」
言いかけて、気付く。
そうだ、今日は月曜日。週が明けて、学校に登校する。休みに入る前の美織は、髪を染めてなんていなかった。
それは、つまり――――。
「気付いたようだね、紅夜くん」
美織はにんまりと笑った。いや、嗤った。
これも僕の見たことのない――いや、違う。この笑顔には、見覚えがある。
「そうだよ。今日は髪を染めて、初めての登校になるの。言っておくけど、校則違反ではないよ。軽く髪を染めるくらいやってる子は多いからね。だからなにも問題ない。そう、ないんだよ。なんにもね」
確か、そう。初めて今の美織と会ったあの時。
あの夕暮れの教室で、美織は確かにこんな笑みを浮かべていた。
「自分で言うのもなんだけど、やっぱり美織って素材はいいよね。どんな髪型でも基本美少女になれるんだもん。髪を染めたって十分似合ってると思わない? ね、元カレさん」
からかうように言ってくるが、まったくもって笑えない。
そもそも、この美織の前で笑える気がまるでしない。
「だからさぁ……今の私が学校に登校したら、ますます人気が出るって、そう思うんだよね」
髪をかき上げながら、美織は言った。
相変わらず、楽しそうな笑みだった。ふわりと風に乗せられるように舞う髪は、確かに綺麗だった。
明るい色が、朝の光を反射している。黒髪ではこうはいかないだろう。光の向こうがうっすらと透けて見える気すらした。
「お前……」
「今でも人気急上昇中なのに、そうなったら困っちゃうなぁ。また告白される回数が増えるかも。呼び出されて好きですって、これから何回聞くことになるんだろうね」
そんなことは知らない。知りたくもない。だけど、この美織はきっと僕に報告してくるだろう。
心底意地が悪く、そして悪魔的だ。全部自覚してやっているのだから、あまりにもタチが悪すぎる。
「私はさらに人気になる。黒髪に戻すつもりはない。今の私が御坂美織だって、皆そう思うようになるまではね」
それは、つまり。
「お前、美織を消すつもり、なのか」
おとなしかった美織。メガネをかけてた美織。いつも俯いていた美織。
次々と美織のことが頭に浮かぶ。今の美織とは似ても似つかない、暗くて本が好きで、だけど僕の前でだけは笑ってくれた幼馴染。
「消すも何も。美織はとっくに消えてるよ。紅夜くんはそのことをよく知ってるよね」
「違う、そうじゃない。そうじゃなくって!」
言いたいことがあった。だけど、上手く言えない。言わなきゃいけないことなのに、この気持ちを言い表す言葉が出てこない。
「うんうん、分かってるよ。紅夜くんの言いたいことは、ちゃあんとね」
焦る僕を見て満足そうに頷く美織。
その目は僕をとらえて離さない。なにもかも見透かされてる、そんな気持ちにどうしてもとらわれてしまう、嫌な目だった。
「美織のこと、まだちゃんと大切に想ってくれている。そのことが分かって嬉しいよ。じゃないと、お仕置きにならなかったからね」
「おし、おき……?」
「そう、お仕置き。私がちゃあんと釘を刺したのに、まるで言うことを聞いてくれない紅夜くんへのお仕置きだよ」
言いながら、美織は僕に近づいてくる。
愉しそうに、嬉しそうに。なにもかも分かってるとでも言いたげな笑みを浮かべて、近づいてくる。
「ねぇ。紅夜くん。君は美織を残したい? それとも消したい?」
「…………」
「たった一言でいい。君の答え次第では、私は今日は学校を休むよ。そして髪を染めなおして、明日から学校に通ってもいい。君の大好きだった、美織の髪の色で、ね」
本当に、悪魔だと思った。
どうしてもこの美織は、僕に刻みたいんだ。自分のことを。そして、美織を。
「ぼく、は……」
僕の、答えは…………。
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