第66話

「いいよ、その気持ち、僕も分かるから。続きを読みなよ。その間、僕は注文するからさ」


「いえ、それはさすがに…今日約束したのは、私の方ですから」


 対面の席に座ると、彼女は読んでいた本をパタリと閉じた。

 本当に気にしなくていいのだけど、どうやら赤西さんにも譲れないものがあるようだ。

 気を遣ったつもりが逆に気を遣われてしまったらしい。なんだか悪いことをしたような気持ちになりながら、僕はコーヒーを注文することを決め、呼び出しブザーへと手をかける。


「赤西さんは、追加でなにか頼むものある?遅れてきたし、奢るつもりだけど」


「いえ、お気遣いなく。自分の分は自分で支払いしますので大丈夫ですよ。注文していたコーヒーもまだ残ってますし、この通り本を読んでいましたので、時間が経っていたことも気になりませんでしたから」


 言われて赤西さんのカップを見たが、確かにまだ半分ほど中身が残っているようだ。

 必要ないと言われたら、それ以上食い下がるのもおかしな話だろう。

 とりあえず自分の分を頼むべくブザーを押し、やってきた店員さんに注文する。

 愛想のいい対応にほんの少し気分が良くなった後、僕は改めて彼女に向き直った。


「えっと、それじゃ改めてだけど、今日はよろしくね、赤西さん」


「はい、こちらこそ」


 軽く頭を下げる僕に、微笑みを返してくれる赤西さん。

 私服姿の彼女を見るのは中学の時の邂逅以来二度目だったが、なんというか、あまり語れることはなかった。

 今の赤西さんは、装飾の付いた黒のシャツに、紺のストールを膝に敷いた白のスカート姿という、女子高生としてはシンプルな出で立ちで、派手さとは真逆の服装だった。


 それは、なんとなく赤西さんに抱いていた、この子ならこういう服装をするんだろうなというイメージとあまり相違がなく、むしろ納得感が強かった。

 赤のカチューシャを付けているのがアクセントになってはいたけれど、それでも落ち着いたファッションの粋を出ない。

 メイクもしていないように見えるけど、元々赤西さんは人よりも肌の白さが目立つ人だ。少なくとも変に着飾るより、よほど好感が持てる装いだと思う。


 それこそ、変わる前の美織も…同じような服装を好んでいた。

 だから、休日の女の子と二人きりで会うという、まるでデートのようなイベントであっても、あまりドキドキすることはなかった。

 むしろ懐かしさすら感じるくらいだ。それでも緊張自体はしているから、落ち着ける状況になってからようやく、こうして冷静に観察することが出来ているわけなのだけど。

 ただ、美織と一瞬重ね合わせてしまったことが、彼女には申し訳ない。

 赤西さんは美織とは違う。頭では分かっているのに、時たまこんな行動を取ってしまう自分が、僕は解せなかった。


「えっと、それじゃあ早速聞かせて貰いたいところなんだけど…その前に、体調は大丈夫?昨日は結局、早退したわけだし…」


 そんな思いをかき消すように、僕は彼女へと質問を投げかけていた。

 あの後保健室に連れて行き、ベッドに向かう姿を見届けはしたのだけど、結局赤西さんは午後の授業を受けることなく、昨日は学校を早退したのだ。

 体調不良というのもあるけど、彼女はあまり体が強いわけではないのかもしれない。

 不安も相まり、昨日の今日だから、あまり無理はさせたくなかったのだが、朝に届いたメッセージでは大丈夫とのことだったのでここまで来たが、それでも心配はせざるを得ないだろう。

 つい不安げに赤西さんの顔色を覗いてしまうが、彼女は小さく苦笑すると、


「見ての通り、と言って信じて貰えるかはわかりませんが、とりあえず大丈夫ですよ。ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません」


 そう言って、ゆっくりカップを手に取り、中のコーヒーを口に含んだ。


「それならいいんだけど…本当に大丈夫?無理はしなくていいからね」


「ふぅ…ええ。辻村さんは心配性なんですね。でも、本当に問題ないんです。昨日早退したのは、頭の中で整理をしたかったのもありますから。おかげで、色々まとめることができました」


 カップをコースターに置く赤西さん。

 カチャリと、僅かな音が耳に響く。

 彼女の落ち着いた声色は、僕の心に安堵の波紋を広げていた。


「それなら良かった…のかな」


「はい。ただ、早退自体は久しぶりだったので、家に帰ったらおばあちゃんに心配をかけてしまいましたけど。そこだけは少し反省ですね」


 何とも言えぬ表情を浮かべる赤西さんだったが、僕としては彼女の口から出た、新たな情報のほうが気にかかった。


「赤西さんって、おばあさんと一緒に住んでるの?」


「ええ。正確には、祖父母の家にお世話になっているんです。両親は今も東京で働いていますから、あまり会わなくなってますね。一応ゴールデンウィークの時には顔を見せに、向こうに一度戻る予定ではありますけど」


 それは知らなかった。

 てっきり両親の仕事の都合かなにかでこっちに引っ越してきたとばかり思っていたので、意外な情報である。

 ただ、同時にまずいことを聞いたかなとも思った。

 娘を祖父母の家に預けて自分たちは向こうで仕事というのは、家庭に何らかの事情を抱えていることが明らかだからだ。

 いくら僕でも、そこまで察せないほど馬鹿じゃない。これ以上踏む込むのは良くないだろう。この話はここで切り上げるべきだ。


「理由は…聞かないほうがいいよね」


「いえ。大丈夫です。両親との仲は、別に悪いわけではないんですよ。問題は、別のところにあっただけですから」


 赤西さんは頭を振った。

 どうやら僕の考えは、彼女にはお見通しだったらしい。

 先回りで答えを言われたわけだが、そうなるとまた別の疑問が湧いてくる。


「それがなにかは、聞いてもいいことなの?」


「ええ。むしろそれが本題と言いますか…あの人、美坂さんについても関わってくることですから」


 美織の名前を彼女の口から告げられ、心臓が跳ねる。

 この感覚は昨日も味わったばかりだというのに、どうにも慣れそうにない。


「赤西さんは、美織と会ったことがあるって言ってたよね?もしかして、美織が赤西さんになにかしたの?」


「それは違います。あの人はなにもしていません。というより、話したこともないんです。ただ、声と容姿、雰囲気は記憶に残っていました…何故でしょうね、私よりずっと綺麗で華やかで、まるで違う世界の人だという印象だったのに…なんとなく、私に似ている気がしたんです。あの人は、そんなこと全く思ってなかったでしょうけど」


 現に私に気付かなかったようですしね、と、彼女は自嘲するように小さく笑った。


「まぁ、私の思い上がりはともかく、あの人のことを私は知っています。あれは私にとっても、大きな転機になった出来事だったので、覚えているんです」


「転機…?」


「はい。私は中学時代、あるテレビ番組に出たことがあるんです。全国の中学生を集めて開催された、クイズ大会の番組でした」


 それを聞いて、僕の心臓はバクンと大きな音を立てた。


「クイズ、大会…?」


「はい。私はその番組で、決勝まで勝ち上がり、そして優勝しました。その時の決勝戦の対戦相手が、彼女…美坂美織さんだったんです」


 バクン、バクン。

 鼓動が大きくなっていく。

 さっき美織の名前を彼女の口から聞いた時より、ずっと大きく跳ね上がっていく。


「会場にいた人は皆、美坂さんに注目していました。当然でしょうね。私はカメラをまともに見れず、ずっと俯いてましたし、彼女は綺麗で真っ直ぐに前を向いていましたから。明確に、私は美坂さんの引き立て役だったと思います」


 赤西。そうだ、赤西憂歌。

 どうして僕は忘れていたんだろう。あの時、電話で美織に彼女の名前を言ったじゃないか。

 そうだ、あの時画面の向こうに、彼女は美織と一緒に映っていた。

 彼女もあの番組に出ていたことを、僕は見ていたはずなのに。


「ただ、私は空気を読めませんでした。緊張していたのもあって、問題に集中してしまい、反射的に答えてしまっていたんです。早く終わって欲しくて必死でした…それなら早く負けるべきだったと気付いたのは、学校に登校してからのことです」


「学校…?」


 押し寄せる記憶の奔流。

 情報量に押し潰され、まるで頭が働かないまま、僕はオウム返しのように彼女の聞き返す。


「ええ。その番組には、私が応募したわけではなかったんです。クラスメイトが私の名前で応募していて、出ることを強要されたといえば、伝わるでしょうか」


「え…?」


 どこかで聞いたような話だった。

 いや、それはまるっきり、美織と同じじゃ―――


「その人は、クラスの中心人物でした。逆らえなかった私は言われるがまま番組に出て、優勝して―」


 そう思っていた僕の耳に、次に飛び込んできた言葉は、あまりにも衝撃的なものだった。


「そして、いじめられるようになりました。私に恥をかかせるつもりが、結果を出したことが気に食わない。優等生なら、さっさと負ければ良かったのに。そんなことを、言われたんです」


 僕は彼女の言葉に、息を飲んだ。

 それはクイズ番組に出たことで人気者になり、学園のアイドルにまでなった美織とは、完全に真逆の結末だった。

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