第62話
数秒ほど、僕らの時は止まっていただろうか。
誰も口を開かない、ほんの僅かな沈黙の時間。
まるで僕ら三人以外はこの世界に存在せず、この時間が永遠に続くかのような錯覚を覚えたけど、それは僕の幻想にすぎなかった。
現実の時計の針は止まってなんかいない。自分に都合のいい世界なんて、有り得ない。
人は皆、自分を持って行動している。なら、動き出す人は必ずいるのだ。
思い通りになんて、なってくれるはずがない。世界はいつも理不尽そのものなのだから。
「あ、あの…」
最初に動いたのは、赤西さんだった。
階段の上から僕らを見下ろす彼女の瞳は、大きく見開かれていたが、それでもなにか言わなければと思ったのかもしれない。
なんのために、なぜここにいるのかはわからない。
それでも、人見知りである彼女なりに、誰かに話しかけるというのは勇気が必要だったろうに、おずおずと、だけどハッキリと、僕らに声をかけてこようとしたのだが、
「―――邪魔だよ」
すぐ近くから聞こえた鋭い声が、赤西さんを制していた。
まるで彼女の勇気を、一蹴するかのように。
「え…」
「見て分からないの?私達、今大事な話をしているの。男の子と女の子がこうして抱き合って話してることが、どういうことかくらい、さすがに分かるよね?」
その声には、明確な敵意が含まれていた。
こんな声の彼女を、僕は知らなくて、反応が遅れてしまった。
僕の位置からは見えないが、美織は真っ直ぐに赤西さんのことを見上げていたように思う。
その表情は想像することしかできないけれど、おそらくかなり険しいものだったんじゃないだろうか。
赤西さんはその小さな体をビクリと震わせると、どこか怯えたように身を縮込めた。
「あの、私、そんなつもりは…」
「言い訳なんかいいから、もう行ってよ。邪魔だから。話しかけてくること自体が空気読めてないって分からない?私達、まだ話し合いの途中なんだよ」
そう言って、美織は僕の腕に自分の腕を絡めようとしてきた。
おそらく赤西さんに見せつけるつもりだったんだろう。
そうして今度こそ、彼女をこの場から去らせることが美織の狙いだったんだろうけど、僕がそれに乗る道理はない。
僕は咄嗟に美織の腕を払いのけると、赤西さんにも聞こえるよう、大きな声で彼女を叱った。
「ちょっと待ってくれよ美織!話し合いはもう終わったじゃないか!僕から話すことはもうないし、いきなりなにをするんだよ!」
それはどこか言い訳地味た叫びだったけど、僕はそれを意識していたわけじゃなかった。
無意識の行動だったが、僕の見せた明確な拒絶に、美織の目は一瞬細まる。
「…紅夜くん。貴方」
「僕はもう行くから!赤西さん、行こう!」
そう言って、僕は美織に背を向け階段を上り、赤西さんのほうに向かう。
その際、美織の表情は伺うことは出来なかったが、赤西さんは一層大きく目を見開くと、なにか言いかけたようだが、その前に僕は彼女の小さな手を取っていた。
「あ…」
「ごめん、ほら行こう。あの子とは、もうなんでもないんだよ」
まるで付き合っている彼女相手に、浮気を誤魔化すような言い分だ。
自分がなんでこんなことを言っているのか、僕は最後までよく分からなかった。
それでも、僕は赤西さんの手を離すことなく、むしろ引っ張るようにその場から離れていく。
「…………そうなんだ。紅夜くん。あんなに言ったのに、そういうことするんだ」
私以外の――美織以外の、女の子に。
そんな小さな呟きは、急いで歩くふたり分のリノリウムの床を叩く音にかき消され、届かなかった。
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