第59話

 昼休み。

 トイレから出た後の廊下には、多くの生徒が行き交っていた。

 それをぼんやりと眺めながら、気付けば僕の口からは重いため息が漏れていた。


「はぁ…」


 憂鬱、というよりは、ただ単純に気分が重い。

 その理由は明白で、さっきの休み時間を出来事を、僕は未だ引きずっていたからである。


(気持ちの切り替えが下手なんだよな、僕って)


 おかげで授業にも、まるで集中することはできなかった。

 唯一幸いだったと言えるのは、あの後すぐにチャイムが鳴ってくれたおかげで、話自体は切り上げることができたことだろうか。

 去り際に戸塚がどことなく恨めしげな目を向けてきたが、裏切られたとでも思っているのかもしれない。

 あの様子だと、昼休みには問い詰められそうだと察した僕は、こうしてトイレに行く名目を持って、午前の授業の終わった教室から即座に退避してきたというわけだ。

 戸塚はついてこなかったし、目論見は成功下と言えるだろう。

 ただ……


「弁当持ってくるの忘れちゃったな…」


 思わずそうひとりごちる。

 昼ご飯をどう取るかは人それぞれだと思うけど、僕の場合は朝コンビニで買ったパンや弁当を、教室で食べるタイプだ。

 この学校には食堂があったけど、ひとりで行くには肩身が狭いし、なにより僕は騒がしい場所は苦手だった。

 よって利用したことはない。まぁ昼休みの教室がうるさくないかと言われたら、女子グループの盛り上がりを前にしたら首を横に振らざるを得ないが、それでも人は少なくなるのもまた事実。

 半数の生徒が教室からいなくなるのは、人の多さに圧迫感を感じる僕にとっては、心理的にもありがたいところだった。

 もっとも、机の上にコンビニ袋を置く頃には、戸塚がいつも僕の席にまでやってくるから、スマホを眺めながらひとりのんびりってわけにはいかなくなっているのだけれど。


(それも悪くないと思えてきてたけど…さすがに、今日ばっかりはな)


 聞かれるのは、もう仕方ないだろう。そこは諦める。

 だけど、時間は欲しかった。鉄は熱いうちに打てという言葉があるように、時間が経てば熱は必ず冷めていくものだ…例外は、いるものだけど。

 まぁとにかく、僕としては既に終わったことをしつこく聞かれるのは嫌だったし、今日のところは捕まるまでは逃げ回るのが賢明だろう。


(幸い財布はポケットに入ってるし、弁当を取りに戻るのは諦めるとして…)


 とりあえず購買でパンのひとつでも買って、廊下でこっそり食べながら、図書室にでも向かおうか…そう考え、踵を返そうとした時。


 ざわ…


「ん?」


 廊下の空気が、少し騒がしさを増していた。

 いや、騒ぐ声が通るようになっているというべきだろうか。壁に寄りかかったり隅で雑談をしていた生徒たちの声が、あまり聞こえなくなっていたことにふと気付く。


「――それでさ、美帆の彼氏が浮気してたのよ、ひどくない?」「うわっ、かわいそー。サイテーじゃんそのカレ。絶対別れたほういいってー」


 その代わり、近づいてくる声がある。

 4、5人の女子で固まっているらしいグループが、反対側の廊下から歩いてきていたのだ。

 まだ考え事の最中でもあったため、僕も例に倣って邪魔にならないよう、壁に寄りかかって彼女たちが過ぎ去るのを待つことにした。


「でしょ?アタシもそう言ったんだけどね。でもあの子、意地になっちゃってて、絶対別れないなんてないって言い張るのよ」「ありゃー…それはそれは…」「それまた浮気されるパターンだわ。間違いないって」


 別に聞きたいわけではなかったが、耳に飛び込んでくるのはどうしようもない。

 どうやら彼女達が話しているのは、友人の恋愛話のようだ。

 人の目のある廊下で話すには、少々下世話な話題を伴いながら、一歩、また一歩と、彼女達は近づいてくる。

 それを僕は、早く行ってくれないかなと俯きながらぼんやりと思っていたのだが―――


「ねぇ、貴女からもなにか言ってあげてよ、美織」


 次に耳に入ってきた名前を聞いて、僕は反射的に顔をあげてしまった。

 そしてそこに、彼女はいた。


「浮気かぁ。難しい問題だよね」


 ううんと、唸るように唇に指を当てながら、美織がこちらに向かって歩いていた。


「―――!」


 咄嗟に僕は、顔を隠すように頭を下げた。

 同時に心臓がバクバクと、早鐘を打つように鼓動を始める。


(なんでだ…)


 悪いことっていうのは、どうして立て続けに起きるんだ。

 避けたい話題から逃げた先で、本人に出くわすとはどういうことだ。


「やっぱり、一度ちゃんと話し合うべきじゃないかなぁ。話し合いって大切だと思うんだよね」


「まぁね。でも、お互い話すつもりないならどうしようもなくない?」


 よく耳をすませば、木嶋の声も聞こえてくる。

 高校でも同じグループで行動しているのか、なんて、どうでもいいことをふと思う。


「そこはまぁ、根気よくじゃないかなぁ。あ、なんなら私がその彼氏さんと、一度話をしてみよっか?第三者の話なら聞いてくれるかもだし」


「それはやめたほうがいいんじゃないかなぁ…」


「うん。なんていうか、彼氏の浮気相手がひとり増えそうな気がする」


 教室は、いや、学校って場所は、どうしてこうも狭いんだろう。

 まるで檻だ。ここにいる限り、僕はきっと逃げ出せない。


(………!)


 逃げられないならもう、願うしかなかった。

 僕に気付くな、気付くなと、目を閉じて強く願いながら、僕は美織が僕に気付かず話しかけず、去ってくれることをただ待つことしかできなかった。


「えぇ…――どうしてかな?」


「どうしてって、ほら美坂さん可愛いし」


「そうそう。男ならほっておかないって。現にもう何人かから告白されてるんでしょ?ウラヤマシー」


「羨ましがられても困るんだけど…」


「クラスの男子だって、美坂さんのことばっか見てさぁ。この前だって、士道くんが諌めなきゃ――」


 会話が遠ざかっていく。

 足音が離れていった。

 それはつまり、彼女達が去ったということで、美織に気付かれなかったということでもあった。


「は、ぁ…」


 深く息を吐きながら、僕は壁に預けた背から力を抜いた。

 いつの間にか握り締めていた手を開くと、じっとりと湿っている。

 どうやらこの短時間で、結構な汗をかいていたらしい。

 背中にもつぅっと冷たいなにかが下に落ちていく感触がある。文字通りの冷や汗だろう。

 緊張の代償だろうそれは、あまり気持ちのいいものではなかったけど、気付けになるには十分な冷たさだった。


「なにやってんだろうな、僕は…」


 女の子ひとりにこんなにビビって。本当にカッコ悪い。

 見られていなかったのが幸いだろうか。

 いや、僕に興味がある人なんて、この学校にはほぼいない。

 僕が見ようとしていないし関わろうともしていないんだから、それは当然のことだ。

 人は己が思うほど、自分に興味を持ってくれるわけじゃない。

 それこそ特別ななにか―学校のアイドルになれるくらい、秀でた容姿を持ってたりするわけでもないなら、尚更。


「…………行こう」


 一度大きく息を吐き、僕は歩き出した。

 向かう方向は、美織達の反対方向。つまりは彼女達の教室方面だ。

 そこから階段を下りて、購買へと向かう。

 あの人数なら行き先は食堂だろうけど、念には念をいれるべきだろう。

 遠回りではあるが、確実に美織との遭遇を回避できるのだ。


 カツン、カツンと上履きで床を叩きながら階段を下り終えると、そこには人影はなかった。

 遠回りになるルートなだけあって、こちらから行く生徒はあまりいないのだろう。

 まぁあまり気にすることもない。後はただ、真っ直ぐに向かえばそれで―――


「だあれだ」


 その声とともに、僕の視界は覆われた。

 一瞬、なにが起きたか分からずパニックになりかけた僕の耳元で、ふぅっと小さく息が漏れ、


「ヒントは、貴方のとってもたいせつな、幼馴染です」


 そう区切るように囁かれる。

 背筋がぞわりと総毛立つ。

 反射的に、僕は彼女の名前を口にしていた。


「みお、り…?」


「あは、せいかい♪」


 途端、聞こえてくるその声は、ぞっとするほどの甘さがあって、確かな喜びに満ちていた。


「声だけで気付いちゃうんだもん。どんなに目をそらしていても、やっぱり君は、私のことを忘れないでいてくれるんだね」


 それは違う。

 だって他に誰がこんなことをしてくるっていうんだ。


「そんな貴方のことが、私はやっぱり大好きなのです。ねぇ、紅夜くん」


 そんなことをこんな場所で、軽々しく言ってくるのは、やっぱり僕の知っている美坂美織じゃなかった。








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