第52話

「なんだよ、それ…」


 理解できない。

 いや、したくない。

 美織がなにを言っているのか分かってしまったら、後戻りできない気がした。


「そのままの意味だよ。紅夜くんが私から離れたいのはわかってる。だけど私はそれが嫌。見解の相違ってやつだね」


 だから、すり合わせをしようとしているの。

 耳元で美織はそう囁いた。

 まるでじっくりと、僕の心へすり込むように。


「すり合わせ…?これが…?」


「うん。本当なら、話し合いでするべきなんだろうけどね。でも紅夜くんは、私と話し合うつもりなんてないじゃない?今の君は私から逃げることしか、考えていないんだもの」


「……それは」


「だからこうするの。無理矢理にでも、私のことを見させるために」


 美織の声は真剣だった。

 さっきまでのように、どこか茶化している空気はない。

 これは『今』の美織の本音なんだろうということが、なんとなくわかった。


「私だって、本当はこんなことをしたいわけじゃないんだよ。好きな人を苦しめたいなんて思う人、そうはいないじゃない?」


 今の美織は、以前とは違う。

 それはあのクイズ番組に出て以降の、外見を変えたっていう意味じゃない。

 それよりももっと後。そう、僕と美織が別れるための最後の話し合いを行った、あの空き教室から―美織は変わった。


「私だってそうだよ。女の子だもん。ちゃんと付き合って、楽しいことも一杯して、笑い合って…そういうこと、君としたいよ」


 ツゥッと、彼女の手が僕の頬に触れる。

 4月とはいえ、まだ肌寒い空気にさらされていたからか、ひどく冷たい。

 誰かに肌を触れられているという暖かさを、その手から感じ取ることができなかった。


「でも、君はそうするつもりがない。そのことが、すごく苦しいの。好きな人がすぐ近くにいるのに、振り向いてもらえないどころか避けられる気持ち、君はわかる?…わからないだろうね。すぐ殻にとじ込もうとする君には、この気持ちはきっとわからない」


 それが皮肉なのか、あるいは自分に向けた自嘲なのか、僕にはわからなかった。

 ただ、苦しんでいるというのなら、ますます理解できないことがある。


「どうして…僕に執着なんてするんだ」


「…………」


「そんなに苦しいなら、諦めてくれよ。もう無理なんだって、思ってくれよ…今の僕には、美織を好きな気持ちなんて、もうどこにもないんだよ…」


 あの時に、醜い本音も何もかもを美織にさらけ出したのは、関係をぶち壊したかったからだ。

 愛想を尽かして欲しかった。見切りをつけて欲しかった。

 士道みたいな、頼りになるやつを選んで、僕のことを忘れて欲しかった。

 そうして僕から離れていって、互いに別々になって…それで全部、終わると思っていた。

 それが正しいんだと、あの時の僕は信じていたんだ。




「―――できない」


 だっていうのに、これはなんだ。


「それはできない。私には、君しかいない」


 なんでそんな、迷いなく言い切る。

 わかってるだろ、僕がクズだってことは。

 誰より僕のことを理解しているって、さっき言ったばかりじゃないか。


「なんでだよぉ…!士道なりなんなり、他のやつにいけばいいじゃないか!僕よりいい男なんて、腐るほどいるだろ!今の美織なら、選び放題じゃないか!!!」


「それは私が『美織』だから。他の男なんてどうでもいい。あの子を引き継いだ私には、美織の願いを叶える義務があるの」


 義務?引き継いだ?

 なんだ、それ。


「それになにより、私は君のことを好きって気持ちから生まれたんだ。君に綺麗になった私を見てもらいたい、そこが始まりだったの。だから、私には紅夜くん以外に人なんて最初から見えないし、眼中にないの」


「なに、言ってんだよ…意味わかんないこと言うなよ!そもそも、美織は士道と浮気していただろ!僕以外のことを見えないなんて、そんなの嘘だ!!!」


 訳がわからないまま、それでも僕は切り札を切る。

 士道と並んで歩く美織の姿は、この目にハッキリ焼き付いている。

 そうだ、あんなに楽しそうに笑っていたじゃないか。

 あれが決定的な証拠でなくて、なんだっていうんだ―――!




「嘘つき」


「ぎっ…!」


 途端、頬に添えられた手に、力がこめられた。


「とっくにわかってるんでしょ。本当に君は、目をそらすことは得意だよね」


「なに、を…」


「美織が浮気しただなんて、本気で思ってなかった。君は別れる口実が欲しくて、見かけたそれに飛びついただけ」


 ぎぃっっと、冷たい指先が、肌に食い込んでいく。


「っつぅ…」


「本音はただ自分が楽になりたかったんだ。そうでしょ?違うなんて、言わせないから」


「な、なら、なんで…!」


「相談してただけだよ。どうすれば、前みたいに君と話せるようになるのか。前みたいな生活に戻れるのか。士道くんはそれができるだけの能力があったし、地位もあったからね。まぁ仲良くなって、ちょっと距離が縮まっちゃったりはしたけど、それでも君だけを見てたのは本当。そういう子だって、わかってたよね?」


 淡々と告げる美織の表情に色はない。

 ただ目だけは揺らめいている。

 その奥で爛々と炎が燃えているのが、なんとなくわかった。


「美織だって苦しんでた。どうすればいいか考えてた。なのに、君は楽なほうに逃げようとするばかりで、美織を受け入れようとしない。向き合ってどうすれば解決できるか考えることもしなかった」


 怒ってる。

 美織は、怒っているんだ。


「そのことも、君を苦しめたいと思う理由。どれだけ君のことで傷ついた子がいるのか、私は知って欲しかった…離れてひとりでいたら、少しはわかってもらえるかと思ったんだけど、ね」


 今さらながら、僕は美織に怒られたことがなかったことに、ここでようやく気が付いた。




※※※※※


作者にとっても言い訳回です

許してヒヤシンス

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