第50話

「随分時間がかかったね。慣れない道に迷っちゃってたのかな?」


 聞き慣れた声だった。

 誰の声かなんて、頭で考えるまでもない。

 小さい頃から、ずっと近くで聞いてきた声だから。


「まぁ初日だもん。そういうこともあるよね。それとも寄り道でもしてた?」


 聞きたくない声だった。

 語りかけてくる声のトーンは、僕が知っているそれとはほんの少しずれている。

 その違和感がどうしても受け付けなくて、肌が泡立ち総毛立つ。

 やめろと咄嗟に叫びたくなる自分を、抑えるだけで精一杯だ。


「私は真っ直ぐ帰ってきたから、高校の近くにどういうお店があるのかまだわからないんだ。ねぇ、明日の放課後にでも一緒に―」


「なんで、いるんだよ」


 それでもなんとかそれだけは絞り出すことができたけど、自分でもわかるくらい力がこもっていなかった。

 俯いて、目を合わすことすらできないんだから、当然だろう。

 きっと、震えてもいたと思う。

 冷静でいようと努めても、彼女の声を聞いていると、無性に心がかき乱された。


「なんでって?決まってるじゃない。言ってないことがあったからだよ。それを言うために待ってたの」


「そんなの、僕には…」


「私があるの。いいじゃない、『幼馴染』なんだし。ちょっと話さない期間があったからって、話しかけるのは別におかしなことじゃないでしょう?」


 幼馴染という単語を、彼女は強調してくる。

 それにどんな意味が含まれているのか、考えたくない。


「それにね、君のために皆からの誘いを断って、待ってたんだよ。だから邪険にされると悲しいなぁ。うっかりおばさんに口を滑らせちゃったりするかもよ、彼に意地悪されちゃいましたって。そしたらおばさん、今の私以上に悲しんで、怒るだろうなぁ」


 未だ顔を上げることのできない僕の耳に届くのは、クスクスという笑う声。

 それはどこかあざ笑うような、底意地の悪さを感じさせた。

 同時に、逃がさないという強い意思も。


「……初日からもう遊びに誘われたんだ。流石、だね」


「あはは。まぁね。自己紹介のときとか、凄かったよ。皆質問してくるの。何が好きかとか、彼氏はいるかってね」


 仕方なく話を合わせようと一応試みてはみるけど、違和感が強まるだけだった。


「もう注目の的って感じ!男子とか、私にどれだけ興味あるんだろうね。私って人の顔色伺うのは得意だから、そういうのってバレバレなのにね」


 だって彼女は、こんな笑い方なんてしない。

 人を馬鹿にしたり、もの笑いの種にするようなこともしていない。


「そう、なんだ。すごいな」


「お決まりなのかなぁ。でも、中学とあまり変わらない生活が送れそうでそこは安心したかな。あとは嫌われないよう、上手く立ち回ればいいし。ま、そこは木嶋さんのほうが得意だろうから、任せとけば大丈夫そうだけどね。知ってる?あの人って案外単純なところあるから、意外と操縦簡単だったりするんだよ」


 聞きたくない。どうでもいい。

 今すぐぺちゃくちゃお喋りしている彼女の声をした目の前のダレカを押しのけて、家の中に駆け込みたい。

 そして部屋に飛び込んで、耳を塞いでいたかった。


 そんな弱い心が、瞬く間に全身を支配していく。

 だけど―――


「あの子もそれに気付いていれば、もっと上手く立ち回れたのになぁ。そうすれば、今頃はまだ君と――」


「やめろよっ!!!」


 自分でも驚く程の大声を張り上げ、僕は咄嗟に彼女の言葉を遮った。

 それは許せなかった。それだけは。

 それ以上訳知り顔で語るのは、絶対に許せない。


「そんなことを言いたかったなら、どいてくれ。僕は話すことはなにもないんだ」


 勢い任せに足を踏み出す。

 これ以上話したくないという、僕なりの意思表示だ。

 なけなしの勇気を振り絞り、ここで僕はようやく顔をあげて前を見る。


「……ふぅん。やっぱりまだ大切なんだ。あの子…ううん、『私』のこと」


 そうしてはたしてそこには―――僕の知っている、だけど知らない女の子がいた。


「なら、今はいいかな。ごめんね、紅夜くん。そんなつもりはなかったの。ちょっと面白くないことがあったから、少しからかいたくなっちゃったんだ。言いたいことは別にあるの」


 すまなそうに謝って、その後すぐに破顔する。

 コロコロと変わる表情は、人好きのする笑顔を浮かべており、なるほどこれは男子の注目を浴びても仕方ないと、納得せざるを得ない整った顔立ちだ。


「コホン…高校入学おめでとう紅夜くん!頑張ったんだね、本当に良かったよ、改めておめでとう!」


 艶やかな黒髪を綺麗に背中まで伸びた長髪。

 前髪も綺麗に切りそろえられた姫カット。


「そして、ありがとう紅夜くん。私との約束、守ってくれたんだね」


 知っているはずなのに、そのはずなのに…その声が、その顔が。

 別人のものにしか、どうしても思えない。


「本当に嬉しいよ。君がまだ私を大事に想ってくれている。それがわかるから、私にはとっても嬉しいんだ」


 その心がまるで見えない。なにを考えているのかわからない。


「だから、高校でもよろしくね。いつも私は君のこと、見てるから」


 一番近くにいたはずなのに。幼馴染なのに。


「これからもずっと。ずっと、ね」


 今はまるで、美織のことが、わからなかった。


「絶対に、逃さないから」


嬉しそうにそう言う意味も、僕にはまるでわからない。

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