第37話 始まり
その言葉を聞いた瞬間、背筋にぞわりと悪寒が走った。
「なに、を…」
「コウくんは本当に、私のこと捨てちゃうの?こんなに一途にキミのことを想ってる幼馴染の女の子を、コウくんはあっさり捨てちゃってもいいの?絶対後悔すると思うんだけどなぁ」
クスクスという笑い声。
咄嗟に振り返ると、美織が悪戯っ子のような表情を浮かべ、楽しそうに笑っていた。
「美織…?」
途端、強烈な違和感が僕を襲う。
こんな顔をする美織を、僕は知らない。
いや、そもそもさっきまであんなに悲壮感を顕にして泣いていたんじゃなかったか?
「ん?なぁに?」
だというのに、今の彼女はどういうことだろう。
なんでこんな平然と、僕に向き合うことができるんだ。
「本当に、美織なのか?」
思わず僕は問いかけていた。
目の前にいるのが、僕の知る幼馴染とはとても思えなかった。
「他の誰に見えるっていうの?どう見てもコウくんの彼女である美織じゃない…あ、コウくんから見れば元彼女なのかな?じゃあ紅夜くんって呼んだほうがいいのかなぁ」
僕の質問を受けて、美織はクスリと笑う。
それも知らない表情だ。
心の内側で、警鐘が鳴らされる。
「美織は…そんな顔、しない」
「ふぅん。変なこと言うね。なんでそんなこと決め付けるの?紅夜くんは私が変わったことが嫌だったんでしょ?こんなふうに笑えるようになったことも、貴方は認めてくれないんだ」
美織が口角を釣り上げる。
それは歪というよりはいやらしく、人を小馬鹿にするような顔だった。
「小さい人」
「……っつ!」
「あ、顔色変わったね。なんだ、気にしてたの?あんななっさけないこと叫んでたものだから、今更だと思ってたのに。自分で言うのはいいけど、他人に指摘されるのは嫌なんだ。ますます器がちっちゃいなぁ」
クスクスと。
美織は僕を嘲笑う。
心底楽しげに、僕の欠点を抉っていく。
「紅夜くんっていっつもそうだよね。自己主張するのが嫌なくせに、他人の勝手が許せない。騒がれるのが嫌なのに、それを咎めることもしないでただだんまり。事なかれ主義ってやつ?それとも小心者かな。しまいには自分と同じ立ち位置にいると思っていた彼女が注目を浴び出したら、ついていけないって逃げ出す始末」
「…………」
「本当に救えないよね。私が苦しんでいるときにも、君は一度だって私の手を取ってくれなかった。あんなにSOSを出していたのに、君は気付かないふりをした。もしかして、私が気付かないとでも思ってたの?迷惑をかけてるのは自分だからって、ただ気持ちを押し殺していただけだよ?」
「…………」
「だっていうのに紅夜くんは、苦しんでいたのは自分だけみたいな顔してさ。私から言わせれば、君も十分勝手だよ。ひとりで思いつめていただけじゃない。相談にだって乗ってくれようとしなかった。そうでなければ美織だって、士道くんを頼ったりなんかしていない。ふたりがほんの少しだけ勇気を出し合えば、それで終わっていた話なんだよ」
「っつ…………」
「……これだけ言っても、まだだんまりなんだ。とことん話し合いを拒否するんだね。黙っていれば終わると思ってるの?それとも君の話し合いっていうのは、自分の言いたいことだけ言って気持ちよく終わることがそうだったの?それでよく恋人作ろうと思ったよね。ほんと自分勝手。こんな人を心底好きになっちゃったとか、あの子も趣味が悪いなぁ。まぁあの子も流されやすくて大概メンタル弱いし、そういう意味ではお似合いだったんだろうけどね」
喋り疲れたのか、ふぅっとため息をつく美織。
彼女の言うとおり僕は何も言えずにいる。
大人しい美織とはかけ離れた饒舌さに面食らったというのもあるが、一番の理由は間違いを的確に突かれ、心が張り裂けそうになっていたからだ。
相手が美織じゃなければ、僕は頭を抱えてもうやめてくれと叫んでいたことだろう。
「ねぇ、いい加減なにか言ってよ。そうじゃないと紅夜くんの望み通り終われないよ?ま、終わらせる気はこっちにはサラサラ…」
「誰だ…」
だけど、違う。
「ん?」
「お前は、誰だ」
この子は、美織じゃない。
「なに言ってるの?さっきも言ったじゃない。私は美織で…」
「違う」
そんなはずないだろ。
「美織はこんなこと言わない。あの子は、言いたいことがあっても我慢する子だった。物静かで、おしゃべりだって好きじゃない。こんな、人が傷つくようなこと言わないのが美織だ。そういうところが、僕は好きだったんだ」
「…………へぇ」
「そんな顔だって、一度も向けられたことがなかった。いつも顔色を伺うようにしてて、もっと自信がない顔をしていた。だけど二人きりの時はいつも優しく笑ってくれて、もっと穏やかな顔をしていた…そんな顔ができるなんて、僕は知らなかった」
そこまで言うと、美織はどこか感心したように頷いていた。
「ふぅん、一応ちゃんと見てたんだ。そこは嬉しいな。好感度上がったよ。まぁもうカンストしてるんだけどね。この場合、惚れ直したっていったほうがいいのかなぁ」
「うるさい。答えろよ。美織はどこなんだ。お前は美織じゃないだろ!!!」
この美織が言っていることは、まるで要領を得ない。
思わず叫ぶと、目の前の彼女は小さく笑った。
「美織だよ」
「は?だから…」
そうじゃないって言ってるだろ。
そう言おうとした途中で、美織はひらひらと手を振った。
「美織だってば。君の前にいるのは弱いあの子が作った、周りの理想通りに振る舞える、アイドルとしての『私』なの。だから私も、間違いなく美織なんだよ」
「……なんだ、それ」
意味がわからない。
「あ、何言ってるかわからないって顔してるね。私が生まれた直接の原因は紅夜くんなんだけどなぁ。ま、いっか。私のことは、これから知っていってもらえばいいしね」
「なに、言ってんだよ」
口の中が乾いていた。
長年見知った幼馴染が、突然まるで見知らぬ赤の他人にすり替わった。
そんなことをいきなり言われて、そうなんだと受け入れられるはずがない。
「あはは。困ってる。じゃあもう一度聞くね―――紅夜くんは、さ」
困惑する僕に、美織は質問を投げかけてくる。
「私を捨てるんだ?」
違う。
変わっていく美織に、僕はもう一緒にいることができないと思ったんだ。
だから全部壊そうと思った。壊して、別々の道を行くのが互いにとって正しいはずだと、そう思った。
こんなことになるなんて思ってなかったんだよ。
だから、僕は―――
「許さない」
ゾクリと。
全身が総毛立った。
「あの子は貴方のことが本当に好きだった。ずっと一緒にいたいと、そう思っていた。それは間違いなく本当なんだよ」
それは綺麗な声だった。
「私は美織。あの子とは違う美織。だけど、私はあの子から生まれた。紅夜くんに綺麗になった姿を見て欲しいって、そんな純粋な想いから生まれたの。君のために、私はここにいる」
それは綺麗な願いだった。
「だけど、貴方は私を捨てるっていうんだ。こんなにも、私は君のことが好きなのに」
そこに、淀みができた。
「ううん、違うな。足りない…愛しているっていえばいいのかな。それでもまだ足りないかも…欲しいんだよ。君のことが」
それはどこか歪な願い。一方通行な彼女の願望。
「私は紅夜くんの全部が欲しい。逃がさない。私だけのモノにしたい」
そして本当の意味での始まり。
「だから、許さない」
濁った瞳で、彼女は言った。
―――私を捨てて、幸せになろうだなんて、そんなの絶対許さない
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