第36話
「そん、な…」
美織は呆然とした表情をしていた。
涙が未だ止まっておらず、頬を流れる雫が夕日を反射してキラキラと輝いている。
肌も青を通り越して白くなり、まるで人形のようだ。
いっそ壊れてしまいそうなほど、今の美織は脆く儚い存在だった。
(―――綺麗だ)
その姿を見て、僕は綺麗だと思った。
こんな時に思うことじゃないとは思う。
不謹慎だとも、可哀想であることも、ちゃんと頭ではわかってる。
だけど、本当にそう思ってしまったんだ。
これがきっと僕と美織が正面から向き合う最後の機会になるだろうから。
そう思うと、目に焼き付けておきたかった。
僕と美織の道は、もう交わることはないだろうから。
「……それだけだから。僕は帰るよ」
もう一度真っ直ぐに美織の顔を見つめた後、それだけを告げた。
「あ、ま、待ってよコウくん。私、まだ…」
「僕はもう、話すことはないよ」
そう言って、僕は美織に背を向ける。
これ以上なにを言っても意味はない。
僕の決意は揺らぐことはないし、変わることもないだろう。
冷たくあしらうことに対する後ろめたさはあるけど、こうしないと僕自身がきっと吹っ切ることができない。
「ねぇお願い。私の話を聞いてよ。こんなのってないよぉ…」
声が近くで聞こえた気がした。
同時に耳に響く、不安定な足音。
あの泣きはらした顔で、フラフラと近づいてきているのかもしれない。
背中へと、伸ばされる腕の気配を感じた。
「駄目だよ」
僕は一歩前へ踏み出す。
それだけで、美織の腕はなにもない空間を空振った。
「あ…」
届かない。
届かせなかった。
僕たちの間に、見えない線が引かれていた。
「もう僕たちは終わったんだ。もうどうしようもないんだよ」
そうだ。
本当にもうどうしようもない。
僕らの関係は、ここで壊れた。
「僕も悪かった。美織にちゃんと、変わってほしくないって言っておけばよかった。だけど、美織も僕に嘘をついた。やり直すなんて、できない」
「嫌だっ!嫌だよぉっ!!!」
だというのに、美織は分かってくれない。
こんなに冷静に、なんとか理屈で折り合いをつけようとしてるのに、なんでわかってくれないんだろう。
こっちだってもう、限界だというのに。
「悪かったところは直すから!ねぇ、だからもう一度…」
「だから!!!もう信用できないんだよ!!!」
気付けば僕は怒鳴っていた。
声が震え、肩をいからせ。
隠そうとしていた気持ちが津波のように、あっという間に理性を押し流していく。
「あの姿の美織が、他の男と歩いていたのを見たとき、僕がどんな気持ちだったかわかるの!?辛かったよ!ああ、辛かったさ!だけど、こんなこと言いたくなかったから、穏便に別れようと頑張ったのにさぁ!なんで分かってくれないんだよ!!!」
最後くらい、せめて醜態を晒すことなく別れたかったっていうのに、感情の赴くまま、全てをぶちまけていく。
「そもそも、勝手に綺麗になってさぁ!僕は美織と静かに過ごしていければそれでよかったのに、なんで頼んでもないことやったんだよ!」
「あ、あ…コ、コウ、くん…?」
「僕がいつ美織に綺麗になって欲しいなんていったんだよ!そんなこと一言も言ったことなんかなかったじゃないか!そもそも文句だってこれまで一度だって言ったことなかったのに、なに勝手なことしてるんだよ!美織だって勝手じゃないか!?」
こんなこと言いたくなかった。
言ってどうにかなるわけでもないのに、この土壇場で、なんで言ってしまってるんだろう。
「ドンドン美織が遠い存在になっていく姿を見て、僕がどんな気持ちだったかわかる!?情けないし惨めだったんだよ!だからもう無理なんだ!限界なんだよ!これ以上美織に付き合っていたら、おかしくなりそうなんだ!だから別れるしかないんだよ!分かってくれよ、頼むから!!僕なんか忘れて、士道と仲良くやってればいいんだ!!!!」
「コウく…」
「もう美織は、僕にはいらないんだよ!!!!頼むから、僕の前から消えてくれ!!!!」
吐き出された本音。
それはどこまでも暗く、そして醜かった。
「はぁ、はぁ…」
全て言い終え、僕は荒い息を吐いていた。
美織はもう、なにも言ってこない。
僕の呼吸音以外はなにも聞こえず、まるで時間が止まったかのようだ。
(くそ…)
言ってしまった。
今度こそ取り返しのつかないほど、なにもかもをぶっ壊した。
ひどい気分だ。
美織の顔を見ることなんて、きっと当分できないだろう。
だけど、吐き出したことで、心のどこかで安堵している自分がいた。
(もう、全部終わったんだ)
これで間違いなく、僕に愛想を尽かしたことだろう。
こんなクズを見捨てて、士道のところへいくに違いなかった。
ようやく言えた。もうこれで、僕は美織から―――
「―――――わかった。消すね」
瞬間。
空気が、変わった気がした。
「え…………」
「ちょっと強引だけど、変わるよ。だから私はもう休んでいいんだよ。ゆっくりね」
後ろから聞こえるのは、美織の声。
そう。確かに彼女の声だ。間違いない。
「ここからは、『私』が引き継ぐから」
だというのに、なぜだろう。
さっきまであんなに動揺し、泣き叫んでいたはずなのに、その声はとても冷静で。
「貴方の分まで、ちゃんとやってあげるから」
まるで、別人のようだった。
「―――ねぇ、コウくん」
「え、あ…」
「改めて聞かせてもらっていいかなぁ」
「―――私のこと、本当に捨てるの?」
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