第9話

 元の木阿弥。いや、この場合は後の祭りというんだろうか。


 なんにせよ、昼休みを迎えたときにはもう、全てが手遅れになっていた。




 朝以上にごった返す教室に、人がぎゅうぎゅうにひしめき合う。


 そこから男女問わず、美織を褒めちぎる声があちこちから聞こえるものだから、そこはある種の地獄絵図だった。


 あれを制御するのは、士道にだってもう不可能に違いない。


 そんな混沌とした状況の中、朝の再現のように人の輪に囲まれた美織の横に、満面の笑みを浮かべた木嶋の姿があった。




「ほらほら、皆ちょっと落ち着いてよ。美織への質問なら、私が聞いてあげるからねー」




 まるでアイドルのマネージャーのようにそばに立ち、美織に繰り出される矢継ぎ早の質問の間に入って対応する様は、いかにも承認欲求の強そうな木嶋の自尊心を、さぞや満たしているのだろう。


 心底嬉しそうな声が聞こえてくる。




「…………」




 そんな木嶋を、面白くなさそうな目で士道が見ていた。


 要するに、彼女にしてやられたというわけだ。


 僕も美織も、そして士道も。






 今回の件は、士道の影響力より、木嶋の狡猾さがその上をいったという、ただそれだけのこと。


 4時間目の体育の授業。多分、最初からこっちが木嶋の本命だったんだと思う。


 体操服に着替える時間も場所も、男女はそれぞれ別だ。


 女子だけしかいない更衣室で、男子の士道の介入は有り得ない。


 さらにいえば、木嶋はうちのクラスの女子のカーストトップだ。


 彼女に逆らえる生徒がいるはずもない。


 美織を昨日の姿に変えることなんて、木嶋にとってはさぞ容易かったことだろう。




 最初から詰んでいたんだ。


 士道の忠告はありがたかったが、その時にはもう美織の着せ替えは済んでいて、なにもかもが遅かった。




 士道があらかじめ、他の女子に頼んで木嶋を牽制してくれていれば…なんて、都合のいいことを一瞬考えたりもしたけど、すぐにその考えは否定した。


 元々、士道がそんなことをする義理なんてないんだ。僕が気付かないといけないことだった。






 ……だけど、気付いたところで、なにができたというんだろう。


 守れることなんて、できたんだろうか。








 多分、美織は気付いていたんだと思う。


 木嶋が強引に、自分のことをいじってくるって。


 自分勝手な魔法使いに、望まないシンデレラにされることを、察しのいい彼女は理解していた。




 だからあの時、SOSを僕に送ってきたんだ。


 彼氏の僕に、美織は助けを求めてた。




 だけど、それを僕は無視してしまった。




 目をそらして。気付いていないフリをして。


 時間が解決してくれるって、勝手に自分を納得させて。


 美織も同じことを考えているはずだって決めつけて…美織を助けてあげることが、できなかった。




「くそっ…!」




 そして、今も逃げようとしている。


 綺麗になった美織が、大勢に囲まれる姿を見たくなくて、僕は教室の外へと急ぎ足で向かっていた。




 自分ひとりで。彼女を置き去りにしたままで。


 あの輪の中に突撃して、美織の手を取って逃げる勇気を、僕は持ち合わせていなかったから。






 ……そうさ。とっくにわかっていたことだ。






 面倒事には関わりたくない。


 目立ちたくない。


 他人が怖い。






 それが僕という人間の本質。


 人と関わることが嫌いで、傷つくのが嫌で。


 つらいことからすぐに逃げ出す、最低野郎だってことを、僕はよく知っていたんだから。






 だから静かに過ごせればそれでよかったのに。


だから落ち着ける人のそばにいたかったのに。


 だから傷つけず、傷つかない相手を求めたのに。


 だから美織を選んだのに。




 美織も、こんな僕に応えてくれたのに―――




 美織となら。


 きっとこんな醜い自分を表に出さず、穏やかに過ごしていけると。


 そう信じていたはずなのに。






「コウ、くん…」






 教室から出る直前、美織の声が聞こえた気がした。


 だけど、僕はそれを気のせいだと振り払ってドアを開ける。


 後ろを振り返ろうなんて、思わなかった。






 逃げ出す僕と、逃げられない美織。






 この行動の差異こそ、これからの僕らが歩む未来の暗示そのものだったのだろう。






 この瞬間、僕らの噛み合っていたはずの歯車は、ずれ始めた。

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