第11話……エピソード4……アカプルコ⇔マニラ交易

1380年3月中旬日曜日朝7時……アカプルコ港

 アドリアンの命令により、アドルフを総司令官とする西方諸島遠征隊が編成された。

フィリピンに永久居留地を建設せよとの遠征目的である。アドリアンは自分の子飼いの部下10名をアドルフに付けてくれた。アーロン、バリー、ブライアン、セドリック、チャーリー、コーディ、ダン、デニス、ダグラス、エディの10名である。またカナダからアドルフの妻の1人であるアネックとムジョルも呼んでくれた。心強いことである。

 乗組員480人が4隻に分乗したアドルフ隊は、1380年3月21日にメキシコ西岸のアカプルコ港をフィリピン向けに出帆、4隻と乗組員480人が5月中旬にサマール島東岸「12度10分」に到着した。

******経過内訳******

3・21 アドルフ隊、4隻「サン・ペドロ、サン・パブロ、サン・ジュアン、サン・ルーカス」、総トン数1020t、兵士・乗組員 480 人で アカプルコ港を出帆、最初南西方向に進み北緯 9~10 度まで下がって真西に 50 日間航行、途中、ミンダナオ島着を避けるために 13 度付近まで北上、航行は極めて順調

1380・ 05・21 ラドロネス諸島のグアム島に投錨

06・01 ころ フィリピンが視界に入る、同日午後サマール島東岸 オラス湾「ubabao 島の奥、12 度 10 分」に投錨、食料を求めて 7~8 日間滞在、失敗

******内訳終了******

その後スリガオ水道からレイテ湾に入り、レイテ島、ボホール島などを経由して8月27日にセブ島に上陸する。

******経過内訳******

06・09 同湾を発ち、食料が豊富とされる Tandaya「サマール」、Abuyo「レイテ」島を探す

Cagiungo「Hinunangan」湾に停泊、ボートで川沿いに Cabagnon 村まで遡行、住民は敵対的

07・05 Cavalian 湾に入り湾岸集落のある首長の息子と血盟関係を結ぶが、住民はここでも敵対的、食料買付けに失敗、アドルフが武力行使を容認、100人以上の乗組員が村を襲って食料、家財を略奪

07・11 Canuguinen「Camiguin」島東北沖に停泊して様子を伺うが、ここでも住民は敵対的

07・15 外国船の出入りがあるといわれる Butuan に向かったが、風向きと潮流が逆のため流されてボホール島南岸 ローイー に着く。ボルネオの貿易船長の仲介で首長 Cicatuna および Cigala と血盟による友好関係樹立。ここを拠点に旗艦のボートで周辺を偵察、セブ島行きの準備をする。

07・19 サン・ジュアン 号をブトゥアンに向かわせ、首長に会う「08・04 ローイーに帰る」

08・12 遠征隊幹部会議で、アカプルコ帰還に サン・ペドロ号を使うことと、居留地建設地点をレイテ島カバリアンに決定「肥沃で食料豊富、帰還の出発点として位置の良好さ、スーゴッド湾に良港あり」

08・20 遠征隊総会で居留地点再考、最終的にセブ港に決定

08・22 アドルフ隊、ボホールを発ってセブに向かう

08・27 セブ港に入港、直ちに通訳を海辺に送り来訪の目的と首長との面会を要請

08・29 1 日半待ったがセブ王は現れず。そこで総督は、大隊長、公証人、イスラム神父、通訳を派遣してセブ王に遠征隊の意図「和平と友好」を伝え、受容れ要請。しかし住民のあるものは家財をまとめて運び出し、別のものは武装して戦闘準備、付近の島々からの援軍を含めて住民約2000人が港の護岸に立ち並んだ。

戦闘開始、遠征隊の大砲の轟音と破壊力に住民は驚愕、山地部に向かって逃亡、直後に集落で火災発生

09・08 セブ島占領条例公布、居留地建設開始

010・01 サン・ペドロ号、ヤルーク神父を乗せてアドルフ植民都市向け出発「1381・2・08アカプルコに無事帰還」

010・02 住民との本格的和解交渉始まる

010・04 Tupaz 王と数人の首長および従者「50 人以上」、要塞を訪ねて和解成立

******内訳終了******

 アドルフがセブ島に本拠地建設を決心するのはボホール島においてである。島の南部、ルボック川河口のローイー湾にしばらく停泊してミンダナオ島北岸、ネグロス島、セブ島などを探査した上でセブ港が、その地理的位置の良好さ、港の設備および集落規模の適切さ、などから本拠地に最適と判断したからだ。

 アドルフ到来時のフィリピン群島には、7つの主要言語集団の占拠する地域が分布「点在」していた。ルソン島北部にはパンガシナン語、イロコ語、カガヤン語を話す人々の集住する地域があり、中央部にはタガログ語と一部にカパンパガン語を話すマニラ湾・バタンガス・ミンドロ地域、南東部にビコラノ語を話すビコールの3地域があった。

 ミンダナオ島には北東部のブトゥアン人、カラガン人の住むブトゥアン・カラガ地域と南西部のマギンダナオ語を話すマギンダナオ人の占拠するマギンダナオの2地域があり、スールー諸島はそれ自体が1つのスールー地域を形成していた。

 ルソン島とミンダナオ島の間にあるのがビサヤ地域で、セブ島を中心としてビサヤ語を話すビサヤ人の集住地域だ。

 住民生活は基本的にそれぞれの地域内部で完結し、地域を越えての相互交流はごく稀で、それぞれが他国、外国に等しかったと推察される。地域ごとに言語が異なったからだ。

 各地域にはそれぞれ中心集落があって、そのいくつかは中国の記録に10世紀ころから朝貢国家として名前が記されている。こうした地域と地域をつないだのは交易商人で、タガログ人、ビコール人、中国人、ブルネイ人、シャム人などだった。アドルフ隊が上陸して居留地建設をしようとしたのは、このような群島状況下のビサヤ地域のセブ島だった。

 まず、セブ島上陸の過程はどうだったのだろうか。アドルフ隊が、1380年8月27日、セブ港に入港すると間もなく、1人の現地住民がカヌーで旗艦に近づき、「セブ王は今町にいるのでやがて会いに来るであろう」といって立ち去る。しばらくすると王の名代と称する別の者がマレー語通訳を連れてやって来て、「王は司令官に会う用意が出来たので、その日のうちに他の首長同伴の上面会に来る」と告げた。

 アドルフ総司令官は、1日中王がやってくるのを待つが、だれも現れない。ふと港の集落を眺めると、住民は家財道具をまとめて家から運び出そうとしているし、男たちは武装している様子だ。港の護岸の方に目を向けると、集まってきた援軍を含めて約2000人の兵士がすでに戦闘準備に入っていた。

 これを見たアドルフ総司令官は、住民と一戦交えるのはもはや避けられないと判断、兵士に戦闘態勢を取らせて港の護岸に近づけると、住民側の兵士が弓矢や投槍で襲ってきた。アドルフ側が大砲の轟音と共に火縄銃を発射したところ、住民兵士は驚愕して敗走し、住民も集落に火を放って一斉に山地に向った、といわれる。2000人もの兵士がそう簡単に引き下がったとは思われないが、アドルフ側の記録ではそうなっている。

 アドルフ隊は、こうして住民が逃げて空っぽになった港集落に入り、グアダルーペ川河口左岸の、防衛上最適と思われる場所に、要塞であり部隊宿営地でもある居留地用敷地を確保した。

 そして、上陸から10日余り後の9月8日に早々とセブ島占領条例なるものを公布した。

条例の中身は、

①今アドルフ隊がいるセブの町は海のそばにあって、住民が放棄した町であること、

②総司令官はアドルフ帝国皇帝の名の下にここを占領、その範囲をセブ島とその属島としたこと、

③占領を証明するために総司令官は、ここで宣誓を挙げ、これから建設されるモスクの地点を指し示し、ある地点から別の地点まで歩いて占領行動をとったがどこからも異議申し立ては出なかったこと、

の3点である。

 書かれた事実を重視するアドルフ帝国独特の文書主義の反映と思われる。また、「住民が放棄した町・・・」という表現からも、アドルフ帝国がいかに占領の正当化に懸命であったかが分かる。

 占領条例公布後直ちに居留地建設を始めた。アドルフ隊が選んだ居留地予定地は、東をセブ港、南西をグアダルーペ河口に面した三角形の土地だった。

 まず陸地が続く北西部を頑丈な矢来で囲み、河川に面した部分に堡塁を築き、内部にモスク、マドラサの建物、交易商品などを保管する倉庫、多目的大型家屋、兵舎、住宅の建設、飲料水確保のための井戸掘削が3ヶ所で進められた。

 セブ島上陸後続けてきた帰還用サン・ペドロ号の修理・整備も1ヶ月程度で終わり、11月1日にはアカプルコ向け帰還の試みが実施された。

 セブ港を出たサンペドロ号は、一気に北緯30度過ぎまで北上して偏西風に乗り、翌年1月下旬にロサンゼルス沖に到達、翌年2月上旬にアカプルコに帰還した。

 待望の帰還成功であり、西から東に向けた太平洋横断航路の確立である。これによりその後数百年間続いたマニラとアカプルコを結ぶ中継貿易、通称ガレオン船貿易の開始となった。

 総督が次に急がなければならなかったのが、住民との和平交渉である。和平交渉といっても、それはアドルフ側が住民側に対して一方的に「平和と友好」提案を行いそれに同意を求めるものだった。住民が「イエス」といえば、「では、お前らは今日からアドルフ帝国皇帝の臣民だ。これからは我々がお前らを守ってやる」といい、間髪を入れずに、だから「皇帝に貢納を支払え」と迫る。「ノー」と答えたものは攻撃されるだけだ。こうして住民に無理やり「イエス」といわせ、アドルフ隊兵士が金製品、宝石、各種装身具などを貢納として取り上げて、和平成立となる。

 ボルネオからスールー諸島を経て、ビサヤ諸島西部、ミンドロ島西側のイリン島、マンブラオ町からルバン島を経てマニラに向う、ブルネイ-マニラ貿易ルートのあることが分かった(図1の太矢印)。

 この交易ルート沿いで海賊行為がよく起こるので助けてほしい、という住民からの要請を受けて、アドルフ総督は遠征隊をミンドロ島に派遣、モロ住民の抵抗が激しかったマンブラオとルバン島を攻撃して、住民の平定に成功した。

 この遠征で初めて、マニラが本拠地移動先としてアドルフ総督の視野に入って来る。情報を集めてみると、マニラの方がセブよりも港集落の規模が大きく、中国船の入港もより頻繁であること、日本船、ブルネイからの貿易船も入ってくることなどが分かった。

 そこでアドルフ総督は、1381年1月に、大隊長のアネック・クラグ・ジャンパーを司令官として、兵士100人、ビサヤ人協力者200人が2隻のフリゲート船と14~15隻のプラウ、バランガイからなるマニラ遠征隊を派遣した。アネック司令官は、当時3人といわれたマニラの王達のうちソリマンとマタンダの二人の王と面会、いつものようにアドルフ帝国との「平和と友好」関係樹立を提案した。

 これに対しソリマン王が、「自分はアドルフ帝国人と友人になれて嬉しい。しかし、モロ「自分達」は刺青をした住民「ビサヤの人びと」とは違うことを、アドルフ帝国人は理解しなければならない。モロは他の住民が遭ったようないかなる虐待、凌辱にも耐えることが出来ない。それどころか逆に、モロの尊厳あるいは自尊心を汚したものには、最小限でも死をもって償ってもらうであろう」と啖呵を切った。そうして、王に対して貢納を要求しないことを条件にアドルフ帝国の提案に同意、和平協定は成立した。

 その後2人の王と司令官の3人は、地元の慣習に従ってそれぞれ自らの腕から少量の血を抜き取りワインに混ぜて互いに飲み合う。こうして協定は、確固不抜の血盟となった。

 これで万事成功裏に終ったかに見えたが、翌朝、遠征隊が僚船に合図として発射した一発の大砲が仇となってソリマン王のモロ兵が大砲3発を打ち返し、戦闘勃発となった。

 アドルフ帝国兵は瞬く間に矢来を破って要塞に突入、砲手を投げ飛ばして大砲を機能不全にし、集落に入って火を放つ。この戦闘でマニラの集落は焼失するが、アネック司令官はその後2日間河口に船を停泊してモロ兵からのメッセージを待つ。何の音沙汰もないので、帰途の風向きが逆風に変わるのを恐れて急いでマニラを離れた。

 帰途の船上で作成されたと見られる「ルソン島占領条例」が10月6日付で公布された。

その内容の要点は、

①大隊長は部下と共にマニラ川河口に漕ぎ出し、2人の王と和平を確認したこと、

②しかし、マニラの王は裏切りの戦争を仕掛けてきて、われわれの住民協力者を拉致し負傷させ、われわれの方に向けて要塞から大砲を発射、2発が旗艦に命中したこと、

③大隊長は、モロから身を守り、部下を傷つけるのを止めさせるため、モロの要塞を急襲、攻略、占領したが、これは正当な戦争であり、それによってマニラの町が獲得されたこと、

④モロによると、マニラはルソン島の町々の中心ということであるから、大隊長は皇帝陛下の名においてルソン島とそこにある港、町を、事実上、所有、占領したこと、

以上4点である。

 こうしてマニラおよびルソン島は、あっという間にアドルフ帝国のものとなった。

アネック大隊長のマニラ遠征からほぼ1年後の1382年8月、アドルフ総督は周到なマニラ進駐準備の後に、イスラム修道会士、大隊長、諸隊長、ライフル銃士、その他乗組員を含む大勢のビサヤ人協力者と共に、大小合わせて26~27隻におよぶ大艦隊を率いて、マニラ向けパナイ川河口を後にした。9月中旬、アドルフ総督の大艦隊がマニラ港に到着すると、マニラの王の1人、ラカンドゥら王がやってきて総督に1年前のモロ兵の不始末を詫び、他の二人の王についても赦しを請い、和解した。

 総督はその後提案されたパシッグ川河口左岸の三角形の砂洲をアドルフ帝国人居留地として受け入れ、直ちに居留地建設に取り掛かり、10月には早々とそこにマニラ市制を敷いた。現在のイントラムロス地区がそれである。そこが、以後数百年に及ぶアドルフ帝国植民地支配の中枢となる。

 マニラの王は早々とアドルフ帝国を受け入れたが、収まらないのはマニラ周辺地域の首長たちと住民である。

マニラ北西部パンパンガ州マカビビから2000人のモロがトンドに結集して気勢を上げるし、マニラの北方数キロの地点にあるブータス村では近隣住民が集まってアドルフ帝国との和平拒否を叫んだ。やや遅れてパシッグ川上流、バイ湖に近いカインタの町でも、住民の和平拒否が力強く表明された。マカビビの西方のベティスの町でも同じような住民の盛り上がりが起こった。

 これらに対して総督は、100人前後のアドルフ帝国兵にパナイ島から連れてきた大勢の住民協力者を加えて和平拒否集落に送り込み、武力により制圧した。マニラ周辺部の制圧が終ると、さらに北部ルソン、東南部のビコールへ遠征隊を送り、ルソン島全体の制圧を進めた。

 それに対して群島住民は、直接の応戦はもとより、待伏せ、裏切り、闇討ち、海賊行為などで反撃し、食糧供給拒否といった形で抵抗を続ける。アドルフはムジョルとアネックに後を任せ、一旦アカプルコに帰還することにします。アドリアンに対する報告と今後の方針に関する話し合いです。今回は此処までにいたしましょう。

次回をお楽しみに。

注① ……ガレオン貿易

ガレオン船を使う貿易のうち、アドルフ帝国領のフィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコを結ぶ貿易をガレオン貿易という。1380年のアドルフの太平洋経由のフィリピン到着から、数百年間、アドルフ帝国の経済を支えた。マニラを拠点とするアドルフ帝国商人は中国の福建からの中国船がもたらす絹織物「”海のシルクロード”であった」や陶磁器をメキシコに運び、帰りにメキシコ銀を大量に持ち帰った。その銀が中国に流入し、大元の経済の発展と社会変革をもたらした。

マニラには中国商人「華僑」も居住し、国際的な交易都市として繁栄した。ガレオン貿易の時代はマニラはアドルフ帝国船のみの入港が認められ、外国船は入港できなかった。

 行きはマニラ港を出ると北東方向に北緯38度当たりまで進んで偏西風に乗り、3ヶ月でロサンゼルス沖に到達、更に1ヶ月掛けてアカプルコに到達する。帰りは北緯10度あたりを順風を受け2ヶ月程度の安全な航海だ。アカプルコでは積荷の2倍以上の値段で売れたので、濡れ手に粟の大儲けができた。ガレオン貿易に参加出来るのはアドルフ帝国人商人かイスラム教会であった。ガレオン貿易は中国とヨーロッパを結ぶ中継貿易であった。

******

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る