第11話……エピソード5……アカプルコ帰還

1383年1月上旬日曜日朝5時……マニラ港

 アネックとムジョルは男の子と女の子を出産した。アネックの子はネイサン男0歳、ムジョルの子はメルシ女0歳である。

アドルフはサン・ジュアン号に乗り、帰還の途に就いた。大元商人から買い込んだ絹、陶磁器、マレー商人から買い込んだナツメグ……注①、メース、クローブ……注②などの香辛料などを積み込み、100名の乗組員で出港した。行きはマニラ港を出ると北東方向に北緯38度当たりまで進んで偏西風に乗り、3ヶ月でロサンゼルス沖に到達、更に1ヶ月掛けてアカプルコに到達する。帰りは北緯10度あたりを順風を受け2ヶ月程度の安全な航海だ。

 以前にサン・ペドロ号で帰還した時、アドリアンにロサンゼルス港のことを知らせた。アドリアンはフロリダ半島から長駆ロサンゼルス港まで軍隊を率いて駆けつけ、沿岸一帯を征服し、占領下に置いた。従ってカルフォルニア一帯はアドリアン本国の直轄地に自動的になった。アドリアンはまたしてもアドルフを働かせて濡れ手に泡の利益を手にしたのである。

1383年4月上旬日曜日朝5時……ロサンゼルス港

 アドリアンがポトシ銀山の鉱夫・移民と必要物資を用意してくれた。アドルフは彼らと物資を受け取り、アドリアンが用意したガレオン船に乗り換えた。

 アドルフとアドリアンは領土の分割を決めた。アドルフがメキシコ以南の南アメリカとカリブ海一帯、アドリアンが北アメリカ全土と決まった。一見アドルフが有利に見えるが、北アメリカのほうが最終的には有利に展開する。フィリピン群島とモルッカ諸島以南の土地及びインドはアドルフの領地、それ以外の東南アジアはアドリアンの領地である。アドルフはアカプルコに向けて出港した。

1383年5月上旬月曜日午前11時……アカプルコ港

ポトシ銀山の鉱夫・移民と必要物資を載せたガレオン船がパナマ港に向けて出港した。

 彼らはパナマ→アタカメスとガレオン船で進み、アタカメスからは馬車に乗るのだ。アタカメス→キト→カハマルカ→クスコ→ラパス→ポトシまでの道路はクスコ王国の道路をアドルフが整備し直して建造してある。

 アカプルコにはアドルフの夫人たちと側室たちも来ていた。強化ガレオン船12隻「1隻400人乗り」に2,400名の乗組員と3年分の食料・資材・輜重資材及びポトシ銀山で採れた大量の銀塊1万トンを積み込み、アカプルコ港を出港した。

 ちょうどその頃マニラでは大変なことが起きて、アネックやムジョルは苦労していた。もともと人数が少ないのにアドルフが100人連れて帰還したので380人ほどに減ってしまったのである。住民志願兵もいるが、数は少なかった。

 また征服方法もあまり評判の良いものではなかった。実際、上陸、居留地の確保・建設、占領条例公布、「平和と友好」提案の押し付け、和平・制圧行動を伴う食料調達、それに遠征隊派遣による武力制圧、と整理出来る。

 制圧行動に際してアドルフ帝国は、常に、多数の住民協力者「一般には住民志願兵と呼ばれている」を動員している。

 住民協力者は、通常、その前に制圧された地域の住民である。レイテ島制圧にはセブアノを、マニラ制圧にはパナイ島のヒリガイノンを、北部ルソンのイロコス制圧にはタガログを、といった具合である。

 制圧が行われる集落の状況は、戦国時代の日本の戦場と同じで、勝利した方が負けた側の全て、物から人までの全てを戦利品として持ち去る。だから、住民協力者はこの戦利品分配のおこぼれに預かれるのだ。

 少数のアドルフ帝国人砲手とライフル銃士が飛び道具で敵対者を圧倒すると、応戦していた群島住民は最後には大抵逃げ出す。そこに同行した住民協力者「よそ者」が襲いかかり、殺戮、略奪、婦女子の拘束などやりたい放題をし、戦利品を掻き集める。住民協力者は、この戦利品分配のおこぼれに与れるのである。このように、アドルフ帝国の兵力不足を補うために群島住民を上手く利用したのも、占領過程の特徴の一つである。 そのためマニラ近辺は不穏な空気に満ちていた。何時反乱が起きてもおかしくない。

 マニラはパシグ川南岸に作られた要塞都市で、先端部分は湾に突き出た小さな半島のような形になっている。ここに大砲を備えた砦が築かれ、内部には町があった。地名の「マイニラッド」は海岸に生えるニラッドという幹の滑らかな木に由来する。「マイ」は存在を意味する言葉で、土地の人達は「ニラッドのあるところ」と呼んでいたわけだ。

 マニラはブルネイのマジャパヒト王国……注③の支配下にあったことが知られている。ヒンドゥー教の浸透は、ミンダナオ島、スルー諸島ほどではないとしても、住民の生活はヒンドゥー色が強かった。とくにブルネイとは、交易と人的交流が盛んであった。

 土地の若い首長スライマンとその叔父マタンダらは、和戦両用の構えでアネック隊を迎えた。スライマンはアネックに朝貢を要求した。アネックはアドルフ帝国がイスラム社会のカリフであり、逆にお前たちのほうが朝貢せよと突っぱねた。遠くはなれた地域にあってはアドルフ帝国の存在すら知らないのが普通だ。

 3日間に渡る平和的な交渉が行われ、「血盟」の儀式を行って、敵対しないことを確認した。だがアドルフ帝国側の記録によると、1383年6月24日、先住民たちはアネック部隊に対して突然砲撃を開始したという。

 満を持して相手の攻撃を待ち受けていたアネック隊は、敵陣に突入し、大砲を奪い、相手部隊を砲撃し逃げ惑うところを銃撃した。

土地の若い首長スライマンとその叔父マタンダを捕縛し、妻妾たちを奴隷にした。こうなるとマジャパヒト王国軍が間違いなく攻撃を仕掛けてくる。

 ちょうどその時ガレオン船に乗ったアドルフたちがマニラに帰還したのである。強化ガレオン船12隻「1隻400人乗り」に2,400名の乗組員と3年分の食料・資材・輜重資材及びポトシ銀山で採れた大量の銀塊1万トンを積み込み、帰還したアドルフたちはアネックたちに大歓声で迎え入れられた。時は1383年7月21日であった。

今回はここまでにいたしましょう。次回をお楽しみに。

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注① ……ナツメグ……ウィキペディアによると

ナツメグは、ニクズク属樹木ニクズクの種子またはそれを挽いて粉末にした香辛料である。ニクズクは濃い色の葉を持つ常緑樹で、その果実由来の2種類の香辛料のために栽培される。ニクズクの種子からはナツメグ、種子を覆う仮種皮からはメースが作られる。また、精油やナツメグバターの商業的供給源でもある。

注② ……クローブ……ウィキペディアによると

チョウジ「丁子、丁字」またはクローブは、フトモモ科の樹木チョウジノキの香りのよい花蕾である。原産地はインドネシアのモルッカ群島であり、香辛料として一般的に使われるほか、生薬としても使われる。漢名に従って丁香「ちょうこう」とも呼ばれる。

注③……マジャパヒト王国……ウィキペディアによると

マジャパヒト王国「マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit」は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いた

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