第9話……エピソード15……アドリアンの命令でエジプトへ

1373年4月中旬の日曜日午後1時……占領地アレッポ

 アドリアンから連絡と命令が下った。連絡はヘレネーが男の子を出産したことである。アドルフ二世と命名した。産後の肥立ちが悪くカザンで養生するとのことであった。アドルフは心配になったがどうにも出来なかった。

 命令は「カイロに赴き、しばらく駐屯して内政に努めよ」であった。まあ日本攻めの命令よりはマシだ。

 ついでに色々やってしまおう。アドルフはダービク平原の戦に間に合わなかった99個の部隊をすでにバスラに行かせて港を整備させつつあった。チグリス・ユーフラテス両川の水運を整備して、バスラ→バクダッド→ディヤルバクルへの交易路、バスラ→アレッポの交易路の充実を図ろうとしていた。

 ディヤルバクルからアレッポへの陸運の方はすでに整備されている。バスラはモンゴルの攻撃によって破壊されてからすっかり荒廃していた。それを1から整備し直そうというのである。バスラを整備すると海からの交易路も開かれてくる。ヨーロッパからカイロ、カイロからバスラ、バスラからホームズ、ホームズからインドへの海運である。そのためにはスエズ運河の開通が不可欠である。

 ディヤルバクルにはムカリ、アレッポにはテムジンを置いた。マムルーク朝から寝返ったアイナバク、タシュタムル、バルクークの率いる15万人の部隊を吸収し、ダマスカス、エルサレム、メッカに進軍して占領した。アイナバク、タシュタムル、バルクークをそれぞれの地域の軍政長官に任命した。信用ならないので見張りの副官を付けて逐一報告させた。

 アドルフ自身はカイロに赴任し、スエズ運河の建設に取り掛かった。費用と要員はアドリアンに任せた。

1373年6月中旬の日曜日午前10時……カイロ宮殿

 アレッポの砦でもスサンナと話し合いを持ち、部隊と一緒に中国に行くように説得したのだが、アドルフの戦争を見に行きたいと言い張って聞かない。やむを得ずアドリアンに連絡してジェベとの縁談を白紙に戻して貰った。ジェベを何時までも待たせておくわけにもいかないのだ。他の女たちはそれぞれの住処に帰っていったのにスサンナだけは何時までもアドルフのそばにいて帰ろうとしない。行くあてがないのならアドリアンかスネジャーナに頼ればいいのに。

 挙句の果てには

スサンナ「貴方、側室は居ないの?アドリアンが馬氏と権氏の2人が側室だと言っていたわよ。2人はどうしていないの?貴方、夜の生活はどうしているの?見ている限りでは女の影がまったくないよ」

アドルフ「ヘレネーが馬氏と権氏を追い出してしまったのだ。それ以上聞かないでくれ」

スサンナ「ヘレネーは身体の調子が悪いんでしょう。側室をおかなくては駄目よ。そうだ、私が貴方の側室になって上げるわ。ヘレネーが帰ってくるまででいいわ」

 結局強引に押し切られてしまった。押しかけ女房は聞いたことがあるけど。お仕掛け側室なんて聞いたことがない。

1373年6月中旬の日曜日昼の12時……カイロ宮殿

 押しかけてくるだけあって、世話好きなようだ。身の回りの世話も食事の世話も甲斐甲斐しくやってくれる。ヘレネーは天下のお妃様だったからわがままだったが、スサンナはそういうところが全くない。気が楽といえばスサンナの方が楽だ。気を使わせないところはありがたい。

 二人ともなんとなく催してきて身体を合わせてしまった。

久しぶりだったのでアドルフは十二分に満たされた。スサンナも同様だったようだ。

 二人で外に出て散歩したが今まで居たところとはまるで異なり温かい。雨がほとんど降らないので空気が乾燥しており過ごしやすい。ナイル川の恵みで水は十分にある。

 ムカリとテムジンからアレッポの市場圏の様子を報告してきた。イスファハーンの市場の様子はアドリアンに知らせた。詳しく報告したのでアドリアンは満足したようである。イスタンブールについても調べよと言ってきたが、身体はひとつなので断った。

★アレッポの市場圏①

 アレッポは古代以来、つねに東西貿易と深い関係をもっていたが、この時期は遠く東南アジアからもたらされる香辛料やインドからくる綿織物・染料などを地中海世界に運ぶ中継貿易の基地として未曾有の繁栄を謳歌していた。

 イランからもたらされる絹もこれに大きな役割をはたしていた。当時のアレッポには、イギリス、フランス、オランダ、ヴェネツィアなどの領事館が軒を連ね、またヨーロッパ商人と直接生産者との仲介役としてユダヤ教徒、アルメニア人、ギリシア人などの非ムスリム少数民が活躍していた。この町はアジア・アフリカ・ヨーロッパ三大陸にまたがる最大の国際貿易センターであった。

 アレッポ市場圏を機能させていたのは二つの交通体系である。

一つはラクダやラバによる陸上輸送であり、今一つはチグリス・ユーフラテス両川を利用した水運である。

 チグリス・ユーフラテス両川の上流域にあたり、長いあいだビザンツ帝国とイスラム世界の境域スグールであった東部アナトリアやシリア・イラクの北部がアレッポを中心とした地域的な経済圏に組み込まれ、かつイランとアナトリアに広がる広域な国際貿易の中継地となることによって、この地域の都市が活性化された。

 また、当時アナトリアの山岳地帯は、チグリス・ユーフラテス両川で用いられる川船建造のための木材の供給地としての機能をはたしていたと同時に、高地の涼しい夏営地でトルコ系、クルド系遊牧民によって生産される乳製品や皮革、毛織物などがアレッポへ運ばれた。彼らはまたこの地域の気候風土に適合するように改良したラクダを駆使して国際商業路の潤滑油の働きをしていた。

 アレッポ市場圏は、北部トルコの山岳地帯、西部シリア沿岸部の農業地帯、そして東部の砂漠地帯である。そしてなによりも北部山中に発するチグリス・ユーフラテス両川がシリア砂漠の東方を貫通してバグダッド、バスラを経てペルシャ湾に注いでいる。

 また、アレッポから小高い山地を抜けるとイスケンデルン、ラタキヤ、トリポリといった地中海の良港に容易にでることができる。

つまり、山地、農業地帯、そして砂漠という生態系はアレッポ市場圏の境域な経済圏を構成するとともに、港と河川が広域な市場圏を形成する役割をはたしているのである。

 アレッポを中心としたこの市場圏のメイン・ルートは、まず、南東に向かってチグリス・ユーフラテス両川を下って、あるいは陸路これに沿って下り、バスラを経由してペルシャ湾からインド洋に抜ける道がある。

これはインド・東南アジア・中国にいたる、香辛料や綿織物・染料・陶磁器などが伝わってくる道である。

 途中、バグダッドからイランへでる陸上のルートも重要であった。

 もう一つのメイン・ルートはアナトリア南東部の山裾を東に向かってたどってイランの北西部に出る道である。これはイランから運ばれてくる絹の道であった。

 一方、アレッポから西へ向かってゆくとすぐに海へでる。そこでアレッポの外港の役割をはたしていたのがイスケンデルンであった。アレッポからイスケンデルンまでは直線距離で約100キロ、キャラバン3日の行程である。ヨーロッパ商人にとってはこの道が最も重要であった。イスケンデルンではいった大事な情報は伝書鳩によって3時間でアレッポに伝えられたという。

 アレッポをまっすぐに北上してアナトリア深く通じる道は西へ向かってはエーゲ海沿岸のイズミルやイスタンブールにまでつながり、さらにはバルカン半島を越えてポーランドやロシアに通じた。

 東に向かえばエルズルムを経由してイラン北西部へと通じる。これらがアレッポ市場圏の国際的な広域ルートであった。

 一方、アレッポは地域経済の中心でもあった。アナトリア山地の夏営地で遊牧民によって生産された畜産品や砂漠地帯に産する塩や硝石がアレッポ市場にもたらされた。

 またダマスカスなど周辺都市やアナトリア諸都市の手工芸品もまた市場圏の経済を形成していた。

  アレッポ市場圏はアレッポを中心として地域的な市場圏と国際的な市場に連結する広域な市場圏との同心円的な二重構造をなしていた。

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