キジルクム砂漠のシルクロード都市ブハラ、ナヴォイ、サマルカンド
★キジルクム沙漠のシルクロード都市ナヴォイ
キジルクム砂漠は砂地よりも瓦礫で覆われている部分が多い岩石砂漠だ。
何世紀にもわたって人々を怯えさせ、魅了してきた。
花に満たされた春のキジルクムの光景は、心に残る美しい風景である。
この季節、キジルクムは光と色に満ち溢れた桃源郷を思わせる。
キジルクムの豊富な鉱物資源は、無尽蔵ともいえる。
黄金にまつわる古い伝説の所以は、そこにある。
昔からキジルクム砂漠のナヴォイ地域では人々が様々な資源を利用してきた。
ペルシャの王やマケドニアのアレキサンダーが、この地域への侵攻を熱望した。
キジルクムのオアシスの街ナヴォイは驚きに満ちている。
これほど大きな鉱業と企業が存在するのは稀である。
他に類を見ない自然の歴史的・文化的モニュメントも多く存在する。
★キジルクム砂漠
キジルクムはユーラシアを代表する巨大な砂漠である。
北はアラル海、南はオアシスの点在するザラフシャン川にまで広がる。
中央アジアの2大河川、アムダリアとシルダリアに挟まれたこの地域は、
30万平方キロメートルに及ぶ。
この地域は古代文明が栄えた地域でもある。東及び南東報告には
険峻な天山山脈とパミール高原が存在し、人の往来を困難にしている。
西にはカスピ海が横たわり、対岸にはコーカサスの山々がそびえる。
百万年前も、この地域は現状のように巨大な開放空間であった。しかし、
大地は草原に覆われ、緑の大地や丘陵、茂みや様々な樹木が生い茂っていた。
巨大な湖や淡水湖も存在した。
この開放空間に川が流れ、またいくつもの支流が枝分かれしていた。
その後、石器時代には太古の人類が狩猟や漁業を営んでいた。その営みの痕跡
が今も残っている。当時の気候は、狩猟や漁業に適していたと考えられる。
野生の牛や馬、駱駝、鹿など狩猟に適した獲物が多く生息した。
またそれら豊かな動物資源の生命を支える豊かな植生が存在した。リャフリャカン
周辺では、太古の人々足跡が見つかっており、その狩猟生活や漁業生活の様子が
伺える。太古の人々の住居は、開放式であった。簡素な柱に、植物の茎や枝、
動物の皮などで作った屋根を渡した簡素なものであった。考古学者の報告では、
石器時代のこうした住居様式は、この地域限定の独特なものであった。
それは明らかに洞窟を住居としていた他の石器時代の住居様式と異なっている。
数十万年前、この地域は海に覆われていた。化石や石化した樹木を分析した結果、
温暖な干潟や湾内に植生するマングローブの林がこの地域に存在した事がわかっている。
こうした調査からナヴォイ付近についても興味深い事実が明らかにされている。
石器時代、ナヴォイ付近には鉱業が存在していた。
ウチクダック集落では、多くのシリコンが埋蔵されていた。約2万5千年前から人々は鉱石の採掘を始め、それを加工して道具にしたりしていた。
こうした事実は、坑道や漏斗のようなもの、そして柄のついた道具などの発掘により
明らかになった。ナヴォイ近郊の町・アクタシュ(Aktash)の郊外のコツルブルダック
(Koturbuldak)が石器時代の鉱業の中心であったと考えられている。
キジルクムの新石器時代を象徴するものはトルコ石である。ブカンタウ高地の
タムディやウチクダックといった地域では、新石器時代、宝石加工職人が
装飾品を作っていた作業場が発掘されている。ツーラン(Turan)低地と、アムダリア川とシルダリア川に挟まれた地域は、キャラバンが好んで往来する地域であった。
この往来によって南部の農耕法や珍しい野生動物、植物などが北部地域やヨーロッパに伝わっていった。灌漑農業設備や、それを使った小麦の栽培などがその代表例である。また乗馬技術などがインドやイラン高原に普及していった。
スキタイ(Scythia)、サク(Sak)、アリアス(Arias)などと呼ばれたキジルクムの遊牧民が馬を飼育し、その飼育技術を南部地域に伝えた。こうした騎馬経済、騎馬隊などを表現した岩絵がザラフシャン川流域に数多く残っており、当時の様子を伝える貴重な資料として保存されている。そしてこれらを研究する記載岩石学が発達した。
キジルクムの巨大な開放空間には、遊牧民の墓といわれる丘や墓標がたくさんある。
科学者が、そういった墓の位置をトレースすることで、遊牧民の時代別の動きがわかった。
古代、彼らはアジアの奥深く、アルタイ山脈、カザフ・ステップ、西シベリア、
アラル海沿岸、カマ(Kama)川流域からキジルクムにやってきた。
彼らは墓を残し、岩絵には当時の荷馬車や牛革で作った馬具なども描かれている。
地質学者と考古学者たちは合同で発掘調査を行い、鉄と青銅を溶かした炉の跡を発掘した。
これは紀元前2000年から1000年頃の物だと言われている。
彼らは治金技術に長け、坑道を掘り鉱石を採掘してそれらを加工した。
スキタイ人に関して、「歴史の父」と呼ばれているヘロドトス(Herodotus)
は多くの記述を残し、特に彼らが金によって潤っていたと記している。
金鉱石はそれ自体採掘しても何の値打ちもない。
長い時間をかけて、キジルクムの人々は錬金技術を発達させた。
古代ギリシャ人は、グ リ フ ィ ン (griffin) に よって 守 ら れ た 黄 金 の 国 が 存 在 す る と プ ロ コ ネ シ ア(Prokonnesa)から来たアリストティー(Aristotee)にまつわる伝説の中に記していた(紀元前4世紀)。その黄金の国とはキジルクムのことであったかもしれない。
そして紀元前2世紀頃には、ナヴォイはシルクロードの重要な中継地となった。
秦の始皇帝の時代になって、遊牧民のハンと呼ばれる首領によって統率された集団の攻撃も治まり、キャラバンの往来が活発になった。
当時のシルクロードは、地中海沿岸から古代のブハラを経由してザラフシャン沿いに進むルートで、サマルカンドを経由して更に遥か東方へと伸びていた。
★マー・ワラー・アンナフル内の「ザラフシャン流域」について
ザラフシャン流域について少し詳細に触れておく。アムダリア川とシルダリア川に
挟まれたこの地域は、南部の半乾燥地帯から飛来する有害な砂や熱の影響が少なく、神の恩恵を受ける回廊として栄え、豊かな植生と心優しき人々の営みがあった。
こういった条件が、全てキャラバンの往来に適していた。
この回廊には多くの集落や都市があり、安全な交通路として栄えた。
この地域の豊かさが、キャラバンの補給や通商、宿泊などを支えた。
また東西を往来する交易品が、更にこの地域を豊かにし、長期にわたって人口が増え過密地帯となり、独自の言語や服装、文化が栄えた。
他の地域の人々から尊敬のまなざしを受け、また異国文化に対する寛容さも養われた。代表的な大都市ブハラ、サマルカンドではペルシャ人、中国人、ユダヤ人またその混血人も生活していた。
彼らは交易をやめ、手芸などで生活を立てていた。
大都市はシルクロードを通じて交わる異なる価値観、アイディア、イノベーションの中継地となり大いに栄えた。
ひとつの交易品が取引されるたびに交易は栄え、また異国の異なる文化同士が融合し、あらたな文化が発展した。古代人の遺跡がサマルカンド周辺で見つかっている。それらは石器時代のキャラバンを示したものであった。シリコンの採掘、
アクタシュ付近のコツルブラク(Koturbulak)の作業場跡、ウチュクタット鉱山
といった複合産業の跡やサルミッシュ峡谷の岩絵など貴重な遺産が多い。
ザラフシャン流域のナヴォイ近郊は、古代以前から治金産業と鉱山で栄えていた。
地質学者によって発見され考古学者によって調査されたカルナブ(Karnab)は、
青銅を精錬するために必要なスズの採掘場であった。
銅はジラブラック(Zirabulak)山、ジアディン(Ziatdin)山、
ヌラタウ山などで採掘された。青銅生産の中心は、現在のアクタシュ付近、
当時はラビンジャン(Rabindzhan)と呼ばれていた地域であったと考えられている。
このラビンジャンは13世紀初頭、チンギスハーンの侵攻によって破壊された。
この地域にあるムルンタウ(Muruntau)山が世界有数の金の産出地域となっている。
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