第9話……エピソード10……アナトリア半島とアレッポ攻略の前準備
1371年8月上旬の日曜日朝5時……コンスタンティノープル宮殿
アドルフは10万人の部隊を城内に入れ、コンスタンティノープル旧市街にある半島の先端部分、三方をボスボラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する新宮殿を建設した。新宮殿のすぐ近くに宿泊施設と大食堂および男女別の大浴場を建設した。
引き続き、金角湾を挟んでコンスタンティノープルから北10kmのところに砦を築いた。またその砦の対岸のアジア側にも砦を築いた。ヨーロッパ側をルメリ・ヒサル、アジア側をアナドル・ヒサルと名付けた。ここには各1万人の守備部隊を常駐させた。コンスタンティノープルの名称をイスタンブールと変更し、ビザンティン帝国をアドルフ・オルダと呼び方を変えた。これはヘレネーと相談して決めた。
1371年8月中旬の日曜日朝5時……カザン宮殿
アドリアンから呼び出され領地の分割について話し合った。トラキア、セルビア、ブルガリア、アナトリア半島、シリア、イラク、アラビア半島、アフリカ北部全域がアドルフの領地と決定した。
1371年8月下旬の日曜日朝5時……コンスタンティノープル宮殿
昨晩、ベッドの中でヘレネーから「三大陸周遊記」のイスタンブールに関するくだりを聞いた。
1330年、イブン・バットゥータは、イスラム教徒としては異例のこととしてコンスタンティノープルへ入ることを許され、一ヶ月余りもこの都に滞在したという。コンスタンティヌス帝がこの地に遷都してからちょうど千年後、そして、ビザンティン帝国が半世紀にわたるラテン帝国の支配から脱して70年ほど後のことである。地中海世界に君臨していた大帝国もすでに疲弊し果てていた頃だが、それでも国際商業都市としての賑わいはとどめていたようである。
《この都はまことに広大で、大河「金角湾」によって二つにわかたれている。昔はこの河に石の橋がかかっていたが、今では渡船によっている。河の名をアブスミーといい、その西岸にあるのがイスタンブールで、皇帝や諸大官、ギリシャ系市民の住む区域である。街路は広く、石で舗装してある。各職業のものが、同じ地域に住み、他の職業のものと雑居することはない。各市場には門があって、夜間は閉鎖する。工匠や商人の中には女性もはなはだ多い。海に突き出たところは山になっていて、その上に小さい城砦と皇帝の宮殿がある。この山を強固な城壁がとりかこみ、海の方からは何人もよじ登ることが出来ない》……「三大陸周遊記」
当時、イスタンブールと呼ばれていたのは、現在の旧市街だけで、橋もなく、ガラタ地区への往来はもっぱら船に頼っていたのだ。
《河の東岸はガラタと呼び、主に
ガラタという地名はビザンティン時代からのものだったのだ。ガラタ塔の辺りには、ビザンティン時代から西欧の商人たちが大勢住みついていたのだ。シェークスピアより二百年も前のヴェニスの商人たちは、ここで、西欧人たちの垂涎の的だった絹織物を買い付けていたのだ。西欧人にとって、コンスタンティノープルは憧れの都だったのである。
アドルフはヘレネーとの協議の中で「ガラタ橋建設」および新旧の市街地の整備を決めた。新旧の地区では宗教、公共施設や商業施設の建設が推進された。
歴史的にこれらの地域はイスラムの支配する土地である。
ヘレネーは嫌がったが、アドルフはイスラム教徒になることを決めた。元々無宗教であり抵抗はなかった。アヤソフィアなどのキリスト教の教会はモスクに改築された。モスクの周辺にはメドレセ「学院」、病院、救貧院などの付随する施設も建てられた。メドレセには各地から学生が集まり、イスラムの諸学を修めた。
東ローマ時代の水道設備は修復された上、新たな上水道が引かれたことで、市民は生活用水を得ることができた。
ビザンティン帝国時代に減少した人口を回復するためにアドルフはありとあらゆる政策を行った。
ヴェネティア、ジェノヴァなどの商人たちはビザンティン帝国時代の特権をそのまま保証され、東ローマ帝国からのギリシャ人などの市民やキリスト教徒もこれまで通りに保護された。他の国からの移民も全て受け入れ保護した。イスラム教徒だけでなく、独自の技術と人脈を持つギリシャ・アルメニアのキリスト教徒やユダヤ人も集められ、イスタンブールは他文化が共存する町となった。
アドルフは旧オスマン帝国に属する地域の支配者を集め「アドルフ・オルダに降伏せよ。従うものはその地の代官に任じ、命は助ける。従わないものは皆殺しにする」と告げた。全員その場では取り敢えず従った。アドルフは内政を行いながら彼らの様子を観察することにした。
★中央ユーラシアからアナトリアへ①
トルコ人の西アジア制覇
のちにオスマン帝国を建国することになるオグズ族は、草原地帯でなお遊牧を続けながら、10世紀にはマー・ワラー・アンナフルに進出し、ここでムスリム「イスラム教徒」商人との日常的な接触や
中世イスラム文献は、こうしてイスラム化した遊牧オグズを、定住化したオグズ族や、遊牧だがイスラム化していないオグズ族と区別するためにトルコマンと呼んでいる。それはともかく、本来はシャーマニズムを信仰していた遊牧オグズがイスラムを受容した結果、民衆の間におけるイスラム信仰や儀礼の中にシャーマニズム的要素が加わった。
そしてかれらの間から、のちにスーフィーとなる者が現れ、ベクタシー、カーディリー、ナクシュバンディー、イェセヴィーなどの神秘主義教団活動を発達させたことが、トルコ人のイスラム化がイスラム文化の内容を豊かにするうえで大きな役割を果たしたと評価されている。
11世紀になると、彼らはふたたび南下し、イランに入ってセルジューク朝を建国した。
セルジューク朝の建国とその西アジアにおける政治的イニシアティヴの掌握は、中央アジアやマー・ワラー・アンナフル方面からイラン内部へのトルコマンの移住をいっそう促進した。
こうした状況の中で、いまやイラン化し、定住民化したセルジューク朝君主にとっては、彼らを王朝の内部に侵入させないためにビザンティン帝国との国境へと誘導することが必要であった。
1071年にビザンティン帝国とセルジューク朝の軍隊がアナトリア東部のマラーズギルド「マンジケルト」で激突した。戦いはセルジューク朝側の圧倒的な勝利に終わった。
この戦いの勝利によってアナトリアはトルコ人の前に開放された。
やがて、北西部アナトリアのニカエア「現イズニク」を首都に
ルーム・セルジューク朝「1077年から1308年」が成立する。
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