第9話……エピソード11……旧オスマン帝国領の統治とその他への侵略

1372年8月上旬の日曜日朝5時……トプカピ仮宮殿

 コンスタンティノープル入城から丸一年が経過した。

その間にヘレネーが可愛い女の子を出産し、仮宮殿内は祝福ムードに包まれていた。アルビーナと名付けられた女の子はみなの愛情と祝福を受け、きわめて大事に育てられていた。昨年アドリアンと領地の取り決めをした時、人員の補充を申し入れ受け入れられた。シリア、イラク、エジプト、北アフリカが占領された後インド征服をさせたいのだろう。

何れにしても人員補充は嬉しいことだし有り難いことでもある。

 アドルフは無理と思える要求をしてみた。

アネックとムジョルおよび林冲、武松、宋江を要求したのである。

軍人ばかりなのでどうかなと思っていたら予想外に快諾してくれた。

 しまった。それならジェベも要求しておくんだった。

慌ててジェベは駄目ですか?と聞くとアドリアンは怒り出してにべもなく断ってきた。まあ良い。この5人がいれば鬼に金棒だ。

1372年8月下旬の日曜日朝5時……トプカピ仮宮殿

 アネックとムジョルおよび林冲が到着した。残りの2人はまだ一月かかるようだ。

中国にいるから当然だな。

3人には1週間休養してもらいイスタンブールを案内した。

 工事はまだまだ完了していないが街の賑わいは少しづつ取り戻しつつあった。

アナトリア半島およびイスタンブールに住みついているトルコマンたちは元々モンゴルと同系統のチュルク族だ。イスラムに改宗したアドルフたちが彼らに馴染むのも早かった。

 ディヤルバクルにとどまっているテムジンとムカリに連絡し、一緒に戦うことになった。テムジンとムカリは協力して周辺の重要な街のいくつかを占領した。エルズルム、エルジンジャン、スィヴァス、トカト、アーミト、ウルファ、ラッカーなどだ。トラブゾンなどは占領済みである。

 テムジンとムカリはそれぞれウルファとラッカーに駐屯し、シリア攻めに備えた。

1372年9月下旬の土曜日朝5時……トプカピ仮宮殿

 武松と宋江が来てから1周間が経ちいよいよ機が熟した。

ニカイア、ブルサ、アンカラを再占領して全軍の士気を高めた。

黒海沿いのカスタモヌおよびスィノプ周辺はジャンダル侯国「イスフェンディヤルとも」が支配していたが、これらはすでにアドリアンが占領していた。アドルフが再占領して領地に組み入れた。トレビゾンド帝国の旧領地もアドルフが受け継いでいる。

 エーゲ海沿いには北から順にカレスィ侯国、サルハン侯……注①国、アイドゥン侯国、メンテシェ侯国、テケ侯国があった。バルケスィルのカレスィ侯国はすでに併合されていた。軽装艦船を有するカレスィの海軍がそのまま手に入った。

 ムジョル、林冲、宋江の3軍団は分散してブルサからマニサを攻めた。

アドルフ、アネックの2軍団はアンカラから南下してコンヤを攻めた。

★コンヤ攻め

 アネックは自ら斥候隊の一人として戦の前にコンヤを偵察に来ていた。

10人の部隊で交易商人を装っている。

 アドルフは戦の前は必ず入念に調査する。情報が戦の勝敗を8割方決定するのだ。交易商人を先に行かせてあらかたの情報を得る。その後斥候隊を派遣するのだ。この斥候隊はそのまま降伏勧告の使者ともなる。アネック以外の9人が使者となり、勧告に出かけるのだ。処刑される恐れもあるのでアネックを行かせるわけにはいかない。

 コンヤはカラマン侯国……注②の首都である。歴史に関心がなかったら、アナトリア高原の中心に位置するコンヤは、単なる埃っぽい、内陸の地方都市のひとつにしか見えないかもしれない。

 だが、この町は11世紀から13世紀にかけて、ルーム・セルジューク王国の首都だったのである。また、13世紀のイスラム神秘主義の聖者メヴラーナ・ジェラレッディーン・ルーミの霊廟によっても知られている。

 イブン・バットゥータがコンヤを訪れたのは14世紀だが、コンヤは《立派な町で、水に恵まれ、川流せんりゅう園圃えんぽも多い。むかし、アレクサンダー大王がこの町を建設したといわれている》と記録している。

 コンヤの都市としての歴史はさらに、はるかに古い。ローマ時代、イコニウムと呼ばれた都市が、このコンヤである。

フリギヤの伝説では、ノアの洪水後、世界で最初にできた都市とされている。

 メヴラーナの霊廟にはいまもトルコ各地から信者が参詣にやってくる。由緒あるモスクやメドラサイスラム神学校もある。この町の人々は、とりわけ信仰心が厚いと言われる。なるほど、町を行く女たちは、真夏にもかかわらず、顔と手のほかは、しっかりと衣服の下に隠している人がめだつ。宗教書やテスピ数珠を売る店も多い。

 メヴラーナ霊廟は町の中心にあった。聖者のかっこは、金の装飾をほどこした緑色の布に覆われて安置されていた。霊廟の周辺は遠方から参詣に来たらしいトルコ人信者で溢れている。

 先行している交易商人の話では、敵の国王は降伏する気がないようだ。部下たちの意見は大きく割れていて、降伏派が圧倒的に多いそうだ。

ただ国王の意見は重く、アドルフ軍を迎え撃つ方針に決まったそうだ。

 アネックは使者を送らずその代わりに勧告文をコンヤ城の中に矢文で打ち込んだ。これで開戦決定だ。アネックは急いで戻り、アドルフに報告した。

 アドルフ、アネックの20万の部隊は分散せず一目散にコンヤ城を目指した。

到着すると直ぐに機関砲で城門を破壊して城内にカービン銃部隊2万名を送り込み、無敵振りを敵に見せつけた。敵は白旗を掲げて出てきたが、国王と男系子孫を皆殺しにして城外の柱にくくりつけさらし者にした。戦利品のうち金品は兵隊たち全員に配り、妻妾たちは捕らえてアドリアンのもとに送り込んだ。

その他の連中は厳しく吟味し、能力があり、しかも忠誠を誓ったものだけを部隊に編入し残りの者は処刑して晒し者にした。

★中央ユーラシアからアナトリアへ②

アナトリアのトルコ化

 トルコ人は西アジアへ本格的な移住を始めてから、実に短期間のうちにアナトリア内陸部へと進出している。その理由はいくつも考えられるが、そのもっとも重要なファクターは、アナトリアと中央ユーラシア、とくにマー・ワラー・アンナフル方面との気候や自然条件の類似性に求められる。そうでなければ、彼らが連れてきた家畜「特に羊」を生きながらえさせることはできなかったはずである。アナトリアに移住したトルコ人の多くはなお遊牧に従事していたと思われるからである。しかし、かれらの多くはしだいに定住民化していった。これも中央ユーラシアにおけるトルコ人の定住化とパラレルに考えることができる。そもそも中央ユーラシアの歴史は北方草原の遊牧民と南方オアシスとの交流を軸に展開したが、8世紀ごろからトルコ系遊牧民がしだいに南下して定住へと向かう歴史をたどったからである。

中央ユーラシアには半ば定着をして、冬の前後だけ簡単な農耕をおこなうことのできる自然環境は、とくに山岳地域の周辺にはいくらでもあった。

アナトリアもまた、そうした自然環境を共有しており、そこでの農耕も似たような性格をもっている。そうだとすれば、中央ユーラシアからアナトリアへ、そしてバルカンへのトルコ系遊牧民の移住はそれほど違和感のない自然な移動であったにちがいない。

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注① ……サルハン侯国

マニサを都とする、テュルク系のオグズ諸部族によりルーム・セルジューク朝の衰退後に建設された辺境の君侯国(ベイリク)。1300年頃に部族長サルハンにより立てられた。

注② ……カラマン侯国

アナトリア・セルジューク朝が滅びたとき,1256年カラマンオウル・メフメット・ベイによって建てられた一侯国。最初カラマンが中心地であったが,のち都をコンヤに移し,木材の輸出や良馬の飼育で知られた。オスマン朝のアナトリア併合に対して最も頑強に抵抗した。

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