第7話…シベリアの反乱…エピソードⅢ

1370年4月上旬の月曜日朝5時…アストラハン宮殿


何時もの時間に目が覚めたアドリアンは突然の早馬による報告に肝をつぶした。


河賊により、ベルケサライが攻撃されていると云うのである。


慌てて軍勢30万人を引き連れベルケサライに駆けつけた。


河賊はベルケサライを略奪して逃げた後だった。


アネックの息子ライラトをアドリアンの側女の1人と結婚させ、


ベルケサライの軍政長官に任命した。


年俸金のインゴット100枚を支給し、軍政資金として金塊100トンを渡した。


現地の者から事情を聞いてある程度把握できた。


モスクワ占領の時、大公や貴族達から命か領地か何れか選べと迫った事がある。


あの時命を絶った者が居た。その一族は生き延びたのである。


今回はノヴゴロド貴族ミーシャ=オンツイフォル一族の仕業だった。


アドリアンが占領するまで、ノヴゴロドは共和制であり、


ノヴゴロドの社会と国家を実質的に支配していたのはボヤールと呼ばれる


貴族身分に属する人々だった。数10家族のボヤールが政治権力を独占する


ほぼ完全な貴族寡頭制の国家だった。


これは中央アジアのチャガタイ・アミール制に酷似している。


アドリアンはフセインとティムールを打倒した後、


チャガタイ・アミールの長であるジョチ・ウルスの大ハンに就任するが、


彼らの全てを殺害する事をしなかった。やろうと思えば出来たが、


後任者が居なかった。


息子達はまだ幼い。兄弟姉妹達の数は不足している。


反乱の可能性はあるが、今はまだやるまい。


アドリアンの圧倒的な兵力を恐れているからだ。


そういう意味ではノヴゴロドの生き残った貴族達は命知らずと言えよう。


ミーシャ=オンツイフォル一族は13世紀末から代々ノヴゴロド市長を輩出した


ネレスキー区の代表的名門貴族だった。


13世紀の末に「ミーシャの子」つまりミシニッチの父称を持つボヤールは2人いて、


両者は相次いで市長職に就任している。


ミハイル・ミシニッチとユーリイ・ミシニッチの兄弟である。


ミハイル・ミシニッチの時代は終身市長制で1273年から1280年の死


まで市長職にあった。


もう1人のユーリイ・ミシニッチが市長になった1291年からは1年任期制


が導入される。


しかしそれと同時に5区それぞれから選ばれる代表者は終身の市長候補とされ、


常時市長を補佐する「参議会」を形成することで集団的な貴族権力を


生み出していった。


事実ユーリイは1年で市長職を降りるが、彼は1316年にトヴェリとの戦闘


で死ぬまで、一貫してネレスキー区を代表する市長候補者だった。


オンツイフォルの家系を生み出す祖先はこのユーリイ・ミシニッチの方である。


ユーリイの息子ヴァルフォロメイ・ユーリエヴィッチも何回も市長に就任し、


主に外交方面で活躍している。1326年にはノルウェーとの条約締結を行い、


1333年にはリヴォニア騎士団との同盟条約及びスウェーデン


とのオレホヴェツ条約を締結した。


ヴァルフォロメイにはルカ、マトフェイ・コスカ、エシフなど数人の息子


があった。長子ルカは歴代の家長とは違った運命をたどる。


彼は父ヴァルフォロメイの死後…1342年に突然私兵を募り、


息子オンツイフォルを伴ってドヴィナ地方及びヴォルガ河流域へのいわゆる


河川賊ウシクイニク的な遠征の旅に出発する。


植民地や他国領を荒らし回る一種の商業的強盗団だった。


現市長らの反対を押し切ってドヴィナ地方に到着したルカは、


オルリッツの要塞を建設し、北ドヴィナ川沿いの土地と村々を制圧した。


当時ノヴゴロドはモンゴルの侵攻には遭っていなかった。


100km手前でモンゴル軍が引き返した。ジョチ・ウルスへの貢納は自主的


に続けていた。直接の被害がない点はロシアの他の地域よりは恵まれていた。


ただ1340年にはノヴゴロド全市をおおう大火があった。


一族の屋敷群は勿論、ネレスキー区全域の舗装道路や教会は全焼した。


莫大な費用と2年の歳月を費やして、地域の都市基盤がようやく


再建されつつあった1342年、今度はネレスキー区の大火で支配領域一帯


は再び完全に消失した。一族の経済的損失も大きかったが、


地域住民の居住・生活機能そのものが完全に破壊された。


人々は恐れをなして街の中に住もうとせず、ある者は野原や河原の草地に住み、


別の者は川岸や船の中に住みついた。


こうしてまる1週間以上多くの人が街を動き回り、


物乞いして歩くのが見られた。ルカは市長の反対を押し切って、


一族の郎党たちや大火で家を失ったネレスキー区の人々を率いて


ドヴィナへの略奪遠征に出発した背景はおよそこのようなものだった。


しかしルカは現地住民の反撃にあって殺され、遠征は失敗に終わる。


一族の当主になったのはルカの息子オンツイフォルである。


河川賊の後を継いだのはルカの孫マクシムとルキヤンである。


もう1人の孫ユーリイはアドリアンのノヴゴロド占領後自ら命を絶ち財産


と一族の命を守った。


ルカやオンツイフォルの時代からオンツイフォルの息子ユーリイの時代


にかけて、ノヴゴロド貴族の一部は支配下にある奴隷、家人、郎党、


自由労務者などを大量に動員し、ノヴゴロド領から遠く外れた


ヴォルガ・カマ川流域の沿岸都市や河川などを航行する商人などを


襲って商品や奴隷を奪う河川賊ウシクイニクとでもいうべき略奪活動


を活発に行っている。彼らはウシクイと云う大型の川船の船団で


行動したので、彼らに襲われたモスクワ・スズダリ系の人達は


一般にこれらの集団を河川賊ウシクイニクとかノヴゴロドの強盗団


と呼んでいる。中世のロシア人は網の目のように走る大小の河川を


利用した川船による航行を内陸交通の主要手段に使っていた。


したがって、船の種類も多いが、ヴォルガのような大河川で古くから


軍隊や輜重しちょうの輸送などに最も一般に使われたのは、


舷側が深く船首船尾が高く持ち上がったナサードと呼ばれる


大型の平底船であった。ノヴゴロドなどで建造されたあと、


連水陸路ヴォーロクを使ってヴォルガ上流に運ばれたらしい。


ヴォルガ中流域でナサードに乗り換えられる例がある。


ウシクイはナサードより軽量の運搬し易い構造のかい船だった。


最近ニジニ・ノヴゴロドなどを略奪した2,000人の河川賊ウシクイニク部隊は


70艘のウシクイに分乗していたから、1艘当たり25から30人程の人間と


輜重しちょうと略奪品を摘む能力があったようだ。


これらの河川賊はすべてヴォルガ・カマ川上流で船団を組み中下流域を襲撃する点


では共通している。


集団の規模は大小様々で、襲撃の対象も小船団で村や商船を襲うこともあれば、


大部隊で都市を略奪したり占領したりすることもある。


14世紀半ばから現在までの記録されている部隊の規模は200から300人程度から


4,000から5,000人までの幅がある。


もっと小規模な集団の活動も種々あったものと思われる。


河川賊集団の略奪や攻撃の対象はヴォルガ・カマ水系を利用しているあらゆる


民族・人種に向けられ、ヴォルガ沿岸のロシア人都市ではコストロマや


ニジニ・ノヴゴロド、ブルガール人都市ではブルガールやジュコチンが


幾度も略奪されたり占領されたりしている。


14世紀の初めからジョチ・ウルスのベルディ・ベク「第13代ハン」の死「1359年」


までは首都ベルケサライは東西、南北のヴォルガ水路交易の中継地点であった。


シリア、エジプト、中央アジアから中国までの東方商品や


北方ロシアの商品を集めて国際貿易都市として隆盛を極めた。


ロシアからは北方の深い森林地帯とりわけ北ドヴィナ川流域の別名サボローチェ地方


から得られる良質の毛皮が交易商品とされた。


ここは昔からのノヴゴロド植民地であり、


南からロシアが狙う抗争の地でもあった。


高額商品のこの毛皮に劣らず需要のあったのはクリミアやカスピ海北岸が求める


チュルク系、カフカス系、スラブ系などの様々な種類の奴隷であった。


この奴隷はイタリア商人やイスラム商人の重要商品の一つとして東方諸国や


地中海各地へと送り出された。


★ノヴゴロド人によるヴォルガの河川賊ウシクイニク活動は武力で略奪した


奴隷や商品を転売して一攫千金の富を獲得しようとするもので、


相当数の武装集団を組織し大型の船や何ヶ月もの食糧を準備するなど


相当の資金力や人的動員力を必要としていた。


資金力の点でも奴隷や都市の非自由民を武力として動員する社会的な力の点でも、


こうした私的略奪遠征の組織化はノヴゴロドにあっては貴族の家系の者達


にこそ可能であった。ベルディ・ベク第13代ハンの死後1359年


から現在に至るまでハンが1年毎に交代するなど混乱を極めたが、


アドリアンが遂に大統一を成し遂げた。


この約10年の政治的空白の間にノヴゴロド河川賊ウシクイニク


サライを襲うまでに成長した。


ママイ一族の残党、アドリアンに滅ぼされた旧ジョチ・ウルスの残党どもも


暗躍を始めることだろう。ちなみに巨富を得たカリーナの一族も


北方の領地を皮切りにペルミ地方に留まらずウラル山脈を越えて西シベリアまで


毛皮交易に進出していた。ベルディ商会でこの毛皮交易を独占せねばならぬ。


さもないとあっという間に一つの独立国を建設されてしまうだろう。


アドリアンはノヴゴロドのミーシャ=オンツイフォル一族を捕らえ、


男達全員を捕らえて牢に入れた。罪状を吟味して厳重に処分することにした。


財産の全てを没収し、国庫へ納入した。


方針を変えて女共はアドリアンの奴隷とした。


ユーリイの妻アイシャ28歳が幼い子供達の命乞いをした。


アドリアンは5歳未満の男の子の命を取らずアイシャに預け、


宮殿で養育させた。


シビル・ハン国のウスティーナから早馬が来た。


前ハンの残党が一斉蜂起して手を焼いている。


住民全て殺すわけにもいかないので困っている。


一旦手を引いて帰国せよ。と命令した。少しづつ攻略するしかない。


住民は20万人ほどしかいない。殺してしまうと毛皮が手に入らない。


ウスティーナが帰国した。


★参考…毛皮交易について


チュメニ・ハン国の副ハンに任命されたウスティーナは


今まで自然発生的に行われていたシベリア進出と移住を意図的・組織的・大々的


に行ない始めた。ジョチ・ウルスが支配する前は、


ドニエプル川からヴォルガ川東方に至る南ロシアの大ステップ地帯は、


11世紀以降デシト・イ・キプチャクキプチャク草原とよばれ、


キプチャク人の活躍した部隊であった。


キプチャク人はロシアからはボロウェツ人、ビザンティンからはコマン人と


呼ばれている。


西シベリア南部、ウラル山脈からほぼイルティシュ川までの地域は、


旧ジョチ・ウルス(今は中央アジアの全てがジョチ・ウルスの版図)


の版図に入り、原住民であるハント人、マンシー人の中に多くの


チュルク系タタール人が住みついた。移住民は遊牧の他、


狩猟・漁撈ぎょろうを営み、若干の農耕も行ったが、


中央アジアからウラルを越えてヴォルガ川中流域に至る隊商路からの


商利も移住民の経済で無視できない役割を果たした。


そうして領内にある中継貿易の要衝は、西シベリアのトゥーラ川


…トヴォル川の支流…岸にあるチュメニ…チンギ・チュラと


呼ばれていた…の町であった。


隊商は中央アジアのホラズム地方からヴォルガ・ブルガール国


更にはカザンへ通じ、ウラルの峠は「チュメニ連水路」と呼ばれていた。


カザンとチュメニとの密接な関係は、カザンの市内に「チュメニの門」


というものがあることでもわかる。


シベリア・タタール人の間では次第に階層分化が進み、


氏族の名門はやがて土地所有に基づく封建貴族に変わっていった。


こうした封建化過程の中で、やがてチュメニを中心とする独立のハン国


が形成されるに至る。


最近になってウスティーニャにより再占領・駐留され


ジョチ・ウルスに併合されたのである。


西シベリア以東のシベリア原住民の生業なりわいは、


主として南シベリアに住む牧畜民と、北部シベリアに住む


狩猟・漁撈ぎょろう民に大別される。


しかし牧畜民の間でもくわによる農耕は行われていた。


農耕の面でチュルク人…主にジョチ・ウルスの遊牧民…の進出以前に


もっとも発達していた地域はアムール川流域であった。


また北部シベリアにもヤクート人のように牧畜を


生業なりわいとする民族がおり、


サヤン山地やアルタイ地方でも牧畜を行わない種族もみられた。


ジョチ・ウルス人がシベリアに進出して原住民に課した


毛皮税ヤサクの台帳を見ると、当時のシベリアの人口は


約20万から22万人であった。


★アドリアン20歳

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