王弟殿下のお気に入り 転生しても天敵から逃げられないようです!?／新山サホ

＜二＞厩舎にいるモノ③

（ひょっとしてウサギが好きなのかしら？）

　同志だ、と心が弾（はず）んだ。

「ジャンヌさん、ひょっとして──」

「たらいを持ってきましたよー！」

　ハンクの元気な声がした。

　クライドと二人がかりで運んできたのは、予想より大きなたらいだった。黒狼でも全身すっぽりと収まるほどの大きさである。ばっちりだ。満足するアシュリーにハンクが聞く。

「ここに井戸水を注げばいいんですね？」

「はい。たくさん入れましょう。肩（かた）までつかるのがお好きでしたから──好きだと思います」

「わかりました」

　たらいの縁（ふち）いっぱいまで水が注がれ、クライドがそこに手をかざした。手のひらから光があふれたかと思ったら、水面からたちどころに湯気がたちのぼった。

「すごいですね！」

　驚きだ。まさに一（いつ）瞬（しゆん）である。

　ハンクが誇（ほこ）らしげな顔をした。

「クライド様は俺たちより魔力が強いんです。なんと言っても直系王族ですから」

　そうだ。ここの結界はクライドが張っているのだ。眠（ねむ）っているといえど、魔獣の瘴（しよう）気（き）を抑（おさ）え込めるほどの結界を。

　勇者も魔王に匹（ひつ）敵（てき）する強大な魔力を持っていた。思い出して背筋が寒くなった。

「じゃあ風（ふ）呂（ろ）に入れるか。まさか魔獣を風呂につからせるだなんて考えてもいなかったよ」

「そうっすよね。でも、いいですね。楽しいです」

　その言葉どおりハンクは楽しそうだ。元々ノリがいい性格らしい。

（それより──）

　クライドが黒狼を湯に入れることを喜んでいるように見えるのはなぜだ。

　これで目覚めるかもしれない、という期待からだろうか。

（……）

　なんだろう。何か釈（しやく）然（ぜん）としない。

　前世を思い出した時から、アシュリーは自分と周りの魔族に対する考え方の乖（かい）離（り）に苦しんできた。トルファ国民にとって、魔族は自分たちの先祖を蹂（じゆう）躙（りん）し、住む土地すらも力ずくで奪（うば）おうとした憎（にく）き敵だ。

　もちろんアシュリーとて今世は人間だから、魔族を恨（うら）む気持ちも理解できる。けれど頭でわかることと、感じることは違う。いい魔族も大勢いたし、大好きな仲間たちだった。

　その考えを理解してくれる人はいない。そうわかっているからこそ──。

（ちょっと嬉しい……）

　理由はどうあれ、クライドたちが黒狼のためを思ってしてくれることを嬉しく思うのだ。

　クライドが黒狼の前で呪（じゆ）文（もん）を唱えた。黒狼の口元と四本の足の先が光る。

　黒狼の体の下に両手を差し入れたクライドが、力を込めて持ち上げた。光の魔法は黒狼の体を軽くするためかと思ったが違ったようだ。目覚めた時に、噛みつかれないようにするためのものらしい。

　そのままゆっくりと黒狼をたらいへ運ぶ。けれど、

「おっと」

　やはり重いようで、途（と）中（ちゆう）でバランスが崩（くず）れて黒狼の体がぐらりと揺れた。

（黒狼様！）

　一時も逃（のが）さず見つめていたアシュリーは、ジャンヌやハンクよりも早く黒狼の脇（わき）腹（ばら）を支えることができた。けれどそのせいで、クライドの腕（うで）と自分の腕が触（ふ）れ合った。

（ひい──っ！）

　戦（せん）慄（りつ）が走った。けれど今手を離したら、黒狼が落下してしまう。

（頑（がん）張（ば）れ、私！　黒狼様を無事にたらいへお連れするのよ）

　自分に言い聞かせ、必死に耐（た）えた。

　力を合わせて、たらいへ慎（しん）重（ちよう）に運ぶ。触れ合った腕からクライドの体温が伝わってくる。

（ううー……）

　体の奥がざわざわする。怖（おじ）気（け）づくも、

（黒（こく）狼（ろう）様のためよ。黒狼様の……！）

　と、頑張って歩を進めた。

　だがやはり怖（こわ）いのはどうしようもない。泣きたくなってきた。

　そこで、クライドの体勢が少し傾（かたむ）いているのに気がついた。よくよく見ると、触れ合っていた腕がほんの少しだけ離（はな）れているではないか。

　アシュリーが嫌（いや）がっているとわかったクライドが、黒狼を落とさないようにしつつ無理に腕を曲げているのだとわかった。

　胸が詰（つ）まった。怖がってばかりいるけれど、クライドは優（やさ）しい人なのだ。出会ってからずっとそうだった。ちゃんとわかっている。

（……よおし）

　アシュリーは奮起し、全身に気合いを入れた。

（腕が触れ合うくらい、なんでもないことよ）

　黒狼を起こすことが最優先なのだから。

　黒狼の脇腹に右腕を深く差し込んだ。再び腕が触れ合う。クライドがちらりと視線を寄（よ）越（こ）したけれど、見返す余（よ）裕（ゆう）はない。アシュリーは左手で黒狼の足を支えながら、そろそろと進んだ。

　たらいに張った湯の中に、二人でゆっくりと沈（しず）める。

（どうかしら？）

　クライドが黒狼の首を押さえて沈まないようにしているため、黒狼は水面から顔だけ出している状態である。

　たらいから湯気がたちのぼり、黒狼のフサフサした顔の毛が水蒸気でしっとりとしていく。

　期待して見つめるものの、やはり目覚めない。反応もない。

　それでもアシュリーは希望を捨てず、クライドの側（そば）に膝（ひざ）をついた。固く目を閉じる黒狼の後頭部に優しく湯をかける。

（黒狼様、どうか目覚めてください）

　なぜ眠り続けているのかわからない。それでも、このまま殺されるなんて絶対に駄（だ）目（め）だ。やっと会えたかつての仲間なのだ。

（黒狼様……！）

　一心に湯をすくってはかけるアシュリーを、クライドたちがじっと見つめる。

　やがてジャンヌとハンクも、一（いつ）緒（しよ）に湯をかけ始めた。

　クライドも片方の手で黒狼の首を支えたまま、もう片方の手を湯の中に入れた。その周りが光り出す。湯の温度が一定になるようにしているのだ。

　誰（だれ）も、何も話さない。静けさの中、湯がはねる音だけが馬（ば）房（ぼう）に響（ひび）いた。

　その時だ。黒狼の耳が小さく動いた。

　アシュリーも驚（おどろ）いたが、クライドたちは驚（きよう）愕（がく）したようだ。

「今、動いたぞ!?」

「本当ですね！　動きましたよ、すごい！」

「信じられない。本当に!?」

　紅潮した顔を見合わせる。

「さては風呂が気持ちいいんだな。もっと湯をかけろ！」

　興奮したハンクが、両手でザブザブと湯をかけた。クライドとジャンヌの顔も期待に輝（かがや）いている。

　けれど黒狼はそれ以降、動くことはなかった。元の眠れる魔（ま）獣（じゆう）に戻（もど）ってしまった。

　それでも──。

「すごいですわ、クライド様。ようやく黒狼が反応しましたよ！」

「やりましたね！」

　魔術師たちの弾んだ声に「ああ」とクライドが高（こう）揚（よう）した顔で頷（うなず）いた。

　そして驚くことに、クライドがそっと黒狼の頭をなでた。よかったなと語りかけるように、とても大切そうな手つきで。

　頭から背中へ、そして尻尾（しつぽ）へ、ゆっくりとなでていく。

（嘘（うそ）……）

　信じられない光景に、アシュリーは愕然とした。

（やっぱり黒狼様を利用しようとしているんじゃない……？）

　ジャンヌもハンクも、黒狼への態度が憎い敵に対するものではない。

　そしてクライドはむしろ、黒狼を大事にしているようにすら見える。

（どうして？）

　理由がわからない。呆（ぼう）然（ぜん）とするアシュリーに、

「ありがとう。アシュリーのおかげだ」

　クライドが嬉（うれ）しそうに笑いかけてきた。初めて見る、まるで子どものように無（む）邪（じや）気（き）な笑（え）顔（がお）。

（記（き）憶（おく）の中の勇者と違（ちが）う……）

　直接、勇者の顔を見たわけではない。けれど魔族に対する恨みと憎しみでいっぱいだったことはその口調からわかった。だからこそ怖いと思ったのだ。

　彼と同じ金の髪（かみ）と緑色の目のクライド。彼の子孫。それなのに──。

（魔族を相手に、こんな優しい顔をするんだわ……）

　凝（こ）り固まっていた心の内にひびが入り、そこから新（しん）鮮（せん）な風が吹（ふ）き込んだような気がした。

　そこで、クライドのすぐ横に座っていたことに気がついた。まさに膝が触れ合いそうなほど近い。

　反射的に飛び退（の）いてから、あれ、と不思議に思った。

　黒狼に気を取られていたからとは思うけれど、それでもその間は平気だった。これほど間近で接していたのに、ちっとも不安に感じなかった。

（腕が触れ合った時は、あんなにも怖（こわ）かったのに……）

　どうしてだろう。クライドを見上げると、黒狼を見つめる眼（まな）差（ざ）しがとても温かい。

　感情の整理がつかない。気づくと、頭の中を占（し）める疑問が口から出ていた。

「──クライド様は、目覚めた後の黒狼様をどうなさるおつもりなんですか？」

　クライドがこちらを向いた。アシュリーを見つめて、ゆっくりと答える。

「ずっと眠（ねむ）り続けていると言ったけれど、それは嘘だ。黒狼は一度目覚めた」

「えっ！　いつのことですか!?」

「俺がまだ子どもの頃（ころ）だ。少しだけだが、話もできたよ。その時に黒狼が言ったんだ。『魔王様の魂（たましい）の許（もと）へいきたい。だが今のままでは、ただ死ぬだけだ。その場所へは決してたどり着けない』と。それからすぐにまた、固く目を閉じてしまったから詳（しよう）細（さい）は聞けなかったけど、俺はその望みを叶（かな）えてやりたいんだ。そのために目覚めさせて、もっと詳（くわ）しく話を聞きたい」

　驚愕のあまり言葉がでない。

　黒狼の望みを叶えたい？　クライドは王族なのに？

　それでも魔族だったアシュリーは、その言葉が真に黒狼が言ったことだとわかった。

　当時の上級魔族たちの間で、そのように言い伝えられていたからだ。命を終えても魔王の魂と共にあることは、最大の名（めい）誉（よ）だと。

　側近で、魔王を崇（すう）拝（はい）していた黒狼なら、確かにそう言うはずだ。けれど──。

「どうして黒狼様は、クライド様にそんな話をしたんですか？　それに子どもの時って、この場所でですか？　一体どういう状（じよう）況（きよう）だったんです？」

　憎（にく）い勇者の子孫であるクライドを相手に、どうしてそんな話をしたのか。

　珍（めずら）しく積極的なアシュリーに、クライドが小さく笑った。

「質問が多いね」

「そりゃ……！」

「次はアシュリーの番だよ。どうして黒狼について知っている？」

　言葉に詰まった。クライドは話してくれたのに悪いとも思うけれど、前世が魔族だったなんて絶対に言えない。

　どう誤（ご）魔（ま）化（か）そうか焦（あせ）っていると、クライドが苦（く）笑（しよう）した。

「いいよ。前にも言ったけど、怯（おび）えて口を閉ざされるほうが困る。今のところ、アシュリーが黒狼を起こす唯（ゆい）一（いつ）の頼（たよ）りだからね」

　追（つい）及（きゆう）されないことにもホッとしたけれど、何より黒狼を目覚めさせたい理由に安（あん）堵（ど）した。

（魔族を滅（ほろ）ぼした勇者。クライド様はその子孫なのに……）

　前世の死に際（ぎわ）の記憶がよみがえる。『殺せ──』容（よう）赦（しや）のない冷たい言葉が、黒ウサギの心に突（つ）き刺（さ）さった。あの忌（い）まわしくて、身が竦（すく）む恐（きよう）怖（ふ）。

　勇者は怖い。恐（おそ）ろしい。それは今でも変わらない。けれど──。

　少し離（はな）れたところからクライドの背中を見つめる。黒狼の側にいるクライドの後頭部は、見事な金色だ。忌まわしくて恐ろしい、不安を煽（あお）る色。

　けれどそれが少しだけ違って見えた。

　記憶の中の、心に刻まれた恐ろしい色とは、ほんの少しだけ──。