<二>厩舎にいるモノ②
「それよりもっと優先すべきことがあるんだ。だからこれ以上アシュリーが
(……よかったわ!)
いずれ話してもらうと言外に匂わせているし、優先すべきことが何なのかわからない。けれど、とりあえず助かったのだ。
そんなアシュリーを見ながら、クライドが説明を始めた。
「およそ二百年前、当時の王子一行が北の山中で黒狼を見つけた。それ以来、王室から
(そうだったの……)
ずっと眠り続けているなんて。胸が
(でも、どうして?)
では精神的なものが原因なのか。味方が
そこで、ふと思いついた。
「黒狼様が生きているなら、
「いない。黒狼が見つかってから、王室は他に魔族が残っていないか、国の
「そうですか……」
けれど黒狼が生きていただけで
「
「えっ?」
「今までこのトルファ国だけでなく、他国に伝わる
クライドの表情も口調も
なぜそこまでして黒狼を目覚めさせたいのか、疑問に思った。
黒狼が起きてくれるならアシュリーは
六百年前、大勢のトルファ国民が
それにクライドは勇者の子孫だ。勇者は兵士たちの先に立ち、命を張って戦っていた。彼が魔族に持つ
そんな勇者とクライドの姿が重なる。だからこそ
(本当にどうしてなの?)
もしや黒狼が目覚めた後で、命を
では何かに利用するつもりなのか。黒狼の強大な魔力や
どう利用するつもりかはわからない。けれどそれはいいことに、ではない気がする。
(そんなの
強く思った時、クライドが言った。
「国王や王室関係者たちは
(とんでもないわ。それこそ絶対に駄目よ!)
足元からおぞましさが上ってきた。
黒狼が利用されるのも
やはり
アシュリーの視線の先で、黒狼は固く目を閉じている。
かつての
前世の黒ウサギは何の力もなくて、すぐに死んでしまった。今もただの人間で、特別な力はない。
けれど今度は、今度こそ自分が仲間を守るのだ。
そう決意し、体の
「わかりました。協力いたします」
「よかった。よろしく頼むよ。
クライドの後ろで、ジャンヌとハンクが疑わしそうな顔をしている。
「アシュリー様はどうして黒狼のことを──」
と言いかけた二人を、クライドが目線で制した。
ハンクが
アシュリーは黒狼のため、一心に方法を考えた。
正攻法では無理だったと言っていた。
それでは例えば、クライドたちが知るはずのない、黒狼の好きなことをしてみたり好物を
必死に
(黒狼様の好きなこと──)
「そうですね。全身をブラッシングしてみるとか?」
「はっ?」
クライドと魔術師たちの
「
「ブラッシング……?」
「はい。
手先が器用な黒ゴリラに、黒狼が全身の毛をとかしてもらっていた光景を思い出す。気持ちよさそうに目を細めていたっけ。
「アシュリー様、ふざけているんですか! 伝説の魔獣なんですよ? そこらを走っている犬じゃないんです!」
「私はとても真剣です」
心外である。そんなアシュリーに、クライドは
「よし、そうしてみよう」
「お待ちください! あまりにもふざけ過ぎています!」
「わかってるよ。でもこの四年間なんの進展もなかった。今はアシュリーの言うとおりにしてみよう」
ジャンヌが悔しそうに
「よし。じゃあ早速──」
「あっ、ちょっと待ってください!」
アシュリーはクライドの言葉を止めた。思い出したことがあるのだ。
一同が注目する中、ゆっくりと黒狼の前へ進み出た。目を閉じる黒狼は、六百年前と同じ顔つきだ。
(黒狼様。私です。黒ウサギです)
心の中で話しかけた。上級魔族はこうして人間が言葉で話す代わりに意思の
(どうか目覚めてください。このままだと命が危ないんです。お願いです、また二度と会えなくなるなんて嫌です)
(やっぱり無理よね)
前世も今世も、なんの力もないアシュリーには。
落ち込んで
「無理でした」
「──何がですか!?」
突然黒狼の前に進み出たかと思えば
その
アシュリーは構わず中庭へ向かった。洗い場の脇に、道具の入った
(黒狼様のお体をブラッシングできるのね!)
嬉しがっている場合ではない、早く黒狼を起こさないと殺されてしまう。そうわかっていても、前世では近づけもしなかった憧れの存在に
オークの
黒狼はおよそ体長百五十センチ、体重四十キロである。以前はもっと
丁寧にブラッシングしようとした
「……!?」
油断していた。ブラシを手にしたまま固まる。
「不用意に近づいたら危ないよ。
「……いっ、嫌です」
「えっ?」
「自分でしてみたいんです……」
「自分で? ──へえ。じゃあ、俺はここにいるよ。
明らかに
(黒狼様のためよ。
ブラシを握りしめたまま
(それに今から黒狼様にブラシをかけられるのよ。憧れだった黒狼様に!)
黒狼の毛におずおずと触れた瞬間、感激からクライドへの恐怖が
天にも
(まさか人間に生まれ変わってから、お体に触れられるだなんて。
恐ろしい魔獣に、
「
「はい。怖くありません」
心のままに満面の
勢いよく顔をそらしてから、しまったとハッとした。こんなことをしては、さらに怪しまれてしまう。
恐る恐る視線を元に
今すぐ
だが
(我慢よ、我慢……!)
(あれ──?)
それなのに、やけにブラシの通りがいい。目視でも、ノミなどの寄生虫もいない。そっと毛をかき分けてみたが
クライドたちがこまめに全身を洗っている、ということか?
(利用しようとしているはずなのに?)
疑問に思った。けれどそれを確かめるには、クライドと会話をしなければならない。それは無理だ。
疑問を心の奥にしまい込み、どうか起きてください、黒狼様、と心の中で
やがて黒狼の毛がツヤツヤしてきた。太くてコシのある獣毛、一本一本が
それでも目覚めるどころか、反応は
(お好きだと思ったんだけど……)
魔国で毛をとかしていた黒ゴリラには、黒狼は歯をむき出しにした、とてもいい笑顔を見せていたから。
「反応しないな」
「わかっていたことではありませんか。こんな
ジャンヌのきつい声が聞こえた。
(やっぱり
気落ちした時、かすかに手に反応を感じた。ほんの一瞬だったけれど、ブラシ
「今! 今、動きましたよ!」
興奮して声を上げると、クライドたちが疑わしげに顔を見合わせた。
「そうか?」
「私は気づきませんでしたが?」
「俺もです」
二百年も眠り続けていたのに、これくらいで反応するかと、
けれど動いた。確かに反応があった。興奮冷めやらず、アシュリーは次の提案をした。
「次にいきましょう! お
黒狼は湯につかるのも好きだった。当時の魔国には温泉が噴き出す地域があり、そこに
「魔獣を……?」
「風呂に入れるんですか……?」
「そうです!」
笑顔で
「
(ひいっ!)
目の前にある
(ああ、しまったわ……!)
黒狼を助けるためにも、これ以上怪しまれたくないのに。
「もう夜が明けたな。色々あったから、アシュリーは疲れたんだろう。一度
確かに疲れてはいるけれど、黒狼のことが最優先である。
先ほど確かに反応した。もっと
アシュリーは
「私は大丈夫です。続けましょう」
「無理しなくていいから。そうだ、俺が母屋まで送っていくよ」
「いっ、いいえ! このままで大丈夫です!!」
二人きりで母屋まで送ってもらったら、
ここでクライドと
「──そう。じゃあ、よろしく。疲れたら言ってね」
その
「黒狼を風呂に入れればいいんだな。たらいでいいか。確か、ここの二階の物置にあったはずだ。ハンク、取りにいくぞ」
「はいはいー」
中庭の
残されたアシュリーはホッと息を
その様子に
「ジャンヌさん、私もお手伝いします」
「いえ、結構です」
「
「遠慮なんてしていません!」
振り返ったジャンヌが
「クライド様のお側に行かれないんですか? 私の手伝いをなさっても、クライド様の
クライドの歓心だなんて、考えるだけで寒気がする。
「私はジャンヌさんのお手伝いがしたいんです」
ジャンヌが目を
「わざとらしく、興味がないふりをなさっても
ふりではない。本心である。けれど理解してもらえるとは思えない。
「魔獣をお風呂に入れるなんて本気ですか?」
「はい。本気ですが」
「常識的に考えておかしいと思いませんか? 恐ろしい魔族なんですよ? 別にいつ命を落としたって構わないし、死なないだけの最低限の世話だけして放っておけばいいんです」
これが
しゅんと肩を落として落ち込みかけて、黒狼の毛並みが
(中庭は雑草がたくさん生えていたし、手前の何もいない馬房はほこりだらけだったのに)
三人では手が行き届かないのに、ここだけは綺麗に保っているということだ。
なぜ? と思い、口を開いた。クライドには怖くて気軽に話しかけられないけれど、ジャンヌになら大丈夫だ。
「
「そうです」
「だから最低限のお世話しかしていないんですよね?」
「そうですったら!」
「でも、この馬房はぴかぴかですよ?」
「……昨日、たまたま掃除をしたばかりなので」
「でも、この馬房だけですよ? しかも壁や側溝の
「……」
「それに黒狼様の毛もツヤツヤしてましたよね。寄生虫もいないし、
ジャンヌがさらに低い声で、まるで
「──非難のおつもりですか?」
「えっ?」
「黒狼を起こせないのに余計なことばかりして、と責めておられるのですか──?」
ジャンヌの言葉の意味もよくわからない。
けれど何より、そんなふうに言われたことに
「そんな、まさか! びっくりするようなこと言わないでください!」
「……えっ?」
「すごいな、と感心したんです。ジャンヌさんたちは
ジャンヌたちにとっては黒狼は恐ろしい
「私はとても
黒狼は綺麗好きで、こまめに毛づくろいをしていたから。
彼らの目的は気になるけれど、黒狼の
ジャンヌは
(どうしたのかしら?)
変なことを言ったかな、と心配になった。
そこでジャンヌの長い
(あれ?)
ジャンヌの耳に金のイヤリングがついている。重要なのはその形だ。ただの丸かと思ったら、ちょっと違う。全体的には丸いけれど、上に二本長い耳のようなものが
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