<一>婚約と黒ウサギ④
ウォルレット家は、国南部の海沿い、第二の都市トリタンにある。
そこから国の中心地である王都カタリアまでの鉄道が開通したばかりだ。
もくもくと黒い
婚約の手始めとして、クライドの
(ああ、帰りたい。今すぐ
前世の
「着きましたよ」
絶望を
サージェント家は広大な
裏に林が広がる三階建ての
長旅と不必要な
けれどまずは、侯爵本人に会わなければならない。
客用の応接室には、アイビーの
「お目にかかるのは二度目ですね、アシュリー
聞き覚えのある声に、
目の前でにっこりと
(この方は……!)
なんと
(この方がサージェント侯爵で、
なんたる
(あら? もしかして、意外と大丈夫かしら?)
想像もしなかった希望に、胸が
その
(いいえ、無理だわ!!)
クライドはまごうことなき勇者の子孫なのだ。
前世で勇者の顔はよく見えなかったけれど、一体どういう顔をしていたのか。似顔絵は今もたくさんあるが、何しろ六百年も前のことだ。言い伝えで
(もしかしてクライド様は勇者に似ているのかしら?)
自分を殺せと命じた、勇者の顔と。そんなことを考えたら恐怖が骨の
ああ、今すぐ家に帰りたい。慣れ親しんだ自室のベッドで、
「アシュリー嬢?」
固まったまま現実
「どうかした? ああ、もしかして長旅で疲れた? そうだよね。
アシュリーの
主人自らありがたいことだが、せめて案内は使用人に
(助けてくれた……助けてくれた……)
と、心の中で
アシュリー用にしつらえられた部屋は、母屋の中央階段を上ってすぐの二階、窓から庭が見下ろせる二部屋だった。一方が寝室、もう一方が居室になる。
クライドが
「疲れただろうから、ゆっくり休んで。それとうちの敷地内にある廏舎だけど──放牧場の中にある廏舎ではなく、奥の赤い屋根の廏舎ね。あそこには絶対に近寄らないで欲しい。もし近寄ったら──命の保証はできない」
(命!?)
勇者の子孫にそんなことを言われては、さらに震え上がるしかない。
「わかりました! 絶対に近寄りません!」
「──そう。よかったよ。ゆっくり休んでね」
クライドが出て行くと、アシュリーはふらふらとソファーに座りこんだ。
(限界だわ……)
一緒にやってきたウォルレット家のメイド二人と
このままここでやっていけるだろうか。精神的な
泣きたい気持ちで部屋を見回した。
小さなテーブルには、アシュリーの目の色に合わせてくれたのか、
(なんだか落ち着く気がする。
サージェント家のメイドたちが用意してくれたのだろうか。
ゆっくりと深呼吸したら、気分がやわらいだ。
少し元気が出てきて、手早く
横を向いて体を丸めた。
(不思議だわ)
ここへきたら眠れる日はないかもしれないと
目を閉じた
翌朝、実家から一緒にやってきたメイドたちに
ツイードの黒のスーツを着た
「おはようございます、アシュリー様。当家の執事を務めておりますフェルナンと申します。昨夜はよく眠れましたか?」
「はい。枕からラベンダーのいい香りがして、すぐに寝てしまいました」
フェルナンが
「それは、ようございました。ここだけの話、実はアシュリー様に少しでもリラックスしていただけるようにと、
(クライド様本人だったんだわ)
「こちらはハウスメイド長のロザリーです。アシュリー様のお世話をいたします」
白い
アシュリーも笑顔を返した。
「食堂はこちらでございます」
(緊張してきたわ)
クライドに会うことが、である。
先ほどのフェルナンの言葉と宮殿でのことから、優しい人だとわかっている。だがやはり、前世の
庭に面した明るい食堂は、アシュリーの私室のちょうど真下にあたる。白を基調とした室内、壁際に置かれた
「おはようございます……」
恐る恐る足を
よかった、とホッとして大きく息を
けれどロザリーも、
「申し訳ありません、アシュリー様! 旦那様は昨晩
「決して、アシュリー様に冷たい態度をとっているわけではないのです。ただ、あの廏舎は旦那様にとって特別と申しますか、その──」
「いえ、
ウサギなら体をひねりながら陽気にジャンプしているところだ。クライドに会わないで済むなら、むしろ気が楽になった。
「朝食、いただきますね」
鼻歌でも歌いたい気分で長テーブルに着いた。十人は座れそうな大きさだ。
テーブルの中央には、
そしてアシュリーの前には、
クライドがいない──外に出ているのではなく
その様子を、またも無理していると勘違いしたのか、メイドたちが痛々しそうに見つめた。
「旦那様は今朝だけでなく、最近ずっと奥の
おかわりのオレンジジュースを注ぎながら、メイドの一人が
クライドが、決して近づくな、と言っていた廏舎である。そこまでするからには──。
「その廏舎で飼っているのは馬ではないんですね。何を飼っているんですか?」
アシュリーの質問に、ロザリーとメイドたちが顔を見合わせた。
示し合わせたように小声で答える。
「私たちも近づいてはいけないと言われているので、何もわからないんです。
「前に言いつけを破って近づいたお調子者の庭師は、すぐに
「魔術師?」
「はい。国王陛下の
この世界で魔術師は貴重な存在である。六百年前はそうでもなかったが、ガス灯の発明や鉄道の開発など、文明が発達するにつれて魔力を持つ者が激減した。だから魔力があるとわかると宮殿に集められる。そして国王の
そんな貴重な魔術師たちが、あの廏舎に
(魔術師たちは廏舎で何かの世話をしている、ということ? ひょっとして、その何かも魔力を持っているのかしら?)
(そんな訳ないわよね)
思わず
(あら、瘴気といえば……)
ふと頭の
「アシュリー様、デザートのプディングです」
できたてのプディングが目の前に置かれた。ほわりと立ちのぼる温かい湯気に、アシュリーは
甘いものは好物である。嬉しくなっていそいそとスプーンで割ると、中からリンゴのソースがあふれ出た。ごろごろと入っている果肉も
「すごく
「ありがとうございます。そういえば、アシュリー様。新鮮なウサギの肉が手に入りましたので、昼食にお出ししようかと思いますが、いかがでしょう?」
(ひい──っ!!)
「いいえ、ウサギは結構です! 私、苦手で。絶対に出さないでください。お願いします」
「そうですか? ひき肉状にして、原形をとどめずお出しすることも──」
「いいえ、無理です! 目の前に出されたら、おそらく
実家のウォルレット家でも、アシュリーが前世を思い出してからウサギ肉は出ない。
今でも思い出す。アシュリーが十一歳の冬、父が
ぶらんぶらんと
あの時の
結果、アシュリーは白目をむいて気を失い、医者を呼ぶ
「……そうなのですね。承知いたしました」
アシュリーの
(ウサギさん、どうか安らかに)
アシュリーは肉にされたウサギに、心の中で
そして昼食の席にもクライドの姿はなかった。ウサギ料理も、だ。メイドたちのいたわしげな視線に気づかず、ますます気が楽になったアシュリーは満面の笑みで食事をした。
昼食後はカーテンを閉め切った
お詫びの意なのか、メイドたちがこまめに紅茶やら焼き
「そんなに気を
逆に申し訳ない。だって今、こんなにも楽しいのに。
だが彼女たちは
(天国だわ)
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