<一>婚約と黒ウサギ⑤

つかれたな……)

 クライドはローブのえりもとをいとわしげにゆるめ、大きく息を吐いた。

 アシュリーがやってきた日の夜中に、魔術師に呼ばれた。それからずっと奥の廏舎にこもりっきりだったのだ。

 廏舎には、だれにも見せられないものをかくまっている。

 だから絶対に部外者に知られるわけにはいかない。たとえこんやくしやのアシュリーであっても。

 それを匿うために、クライドはサージェント家をいだのだから。

(それなのに──)

 考えていたことが、ちっとも上手うまく進まない。そのきっかけすらつかめない。

 無力な自分にいらちさえ感じる。兄弟たちや王室関係者に反対されてまで行っていることなのに。

(どうすればいいんだ……)

 苦い気持ちをみしめながら足取り重く廏舎を出た。

 おもの裏口の前で、フェルナンが待っていた。空は夕焼けから夜空に変わろうとしている。丸一日廏舎にいたのかと思うと、さらに疲れが増した。

「クライド様、そろそろきゆうけいをなさってください。朝から何も食べておられないでしょう。ちょうど夕食の時間です」

「悪いが、それどころじゃないんだ」

「……実はアシュリー様がお気の毒だと、メイドたちがうつたえておりまして」

「どういうことだ?」

「朝も昼も一人きりでしよくたくについておられます。食堂に入ってくるたび、不安そうにクライド様を探しておられると。ですが文句も泣きごとも言わず、けなげにえ、さびしそうに微笑ほほえみながらお食事をされているそうです。せめて夕食はごいつしよにと、メイド全員が申しております」

「……わかった」

 仕方ない。廏舎の中のにおいがみ込んだ黒のローブ。それをぎ捨てて、クライドは食堂へ向かった。

 アシュリーを婚約者に選んだことに、特別な理由はない。以前から早く結婚を、と兄や王室関係者にせっつかれていたのだ。結婚すればクライドが廏舎にいるものについてあきらめる、とでも思っているのだろう。

 だから彼らの口をつぐませて廏舎にいるものに専念できるなら、相手は誰でもよかった。

 アシュリーに初めて会った日も、兄である国王に呼ばれて宮殿に出向いた。クライドを改心させようというこんたんなのはわかっていた。

 だから最低限のれいとして、義姉あねであるおうあいさつだけしてすぐに帰ろうと思っていたのだ。

 あの時クライドのハンカチについていたのは、廏舎にまんえんする匂いである。匿っているものが出す匂い。

 アシュリーは少し気持ち悪そうにしていたけれど、その匂いにていこうを示さなかった。いい匂い、とまで言った。だったらこの女性でいい。そう思っただけだ。

 だがフェルナンの言うとおり、遠いところからやってきたアシュリーを一人でほうっておいた。それはクライドの落ち度である。

(──考えなければいけないことが多過ぎるな)

 もう一度深いため息をいて、食堂へ足をみ入れた。

 アシュリーが一人で食卓についていた。

 代々使っているマホガニーのテーブルは、むやみにはばが広くて長い。確かに、そこに一人きりで座る光景はもの悲しさをさそう。アシュリーはがらだからなおさらだ。

 だが、そう思ったのは一瞬のことだった。

 アシュリーが、ロザリーやきゆうをするキッチンメイドたちと談笑していたからだ。

 少しはなれて立つ見覚えのないメイドたちは、ウォルレット家の者たちだろう。彼女たちも交えて、みなで楽しそうに話している。いつぱんてきな貴族れいじようはあまり使用人と親しげに話さないけれど、アシュリーは特に気にしないようだ。

「お待たせ」

 楽しそうな姿に少し安心して、クライドは向かい合った自分の席に着いた。

 たんに、アシュリーが固まった。

 先ほどまでの楽しそうなみはどこへやら、ギュッとまゆが寄り、険しい顔つきになる。

 やはりか。クライドは小さく息をいた。

 今まで一人にしていたことに、げんを悪くしている。そのいかりをクライドにわからせるために、こういう表情をしたのだろう。

 もちろんクライドが悪いのだから仕方ない。それでも、ますます疲れが増した。

 だが──。

(いや、ちがうか?)

 アシュリーのこの眉根を寄せた表情、本気でいやがっていないか。

 というよりは、おびえてさえ見える。なぜだ。

 考え込んでいたせいで、知らず知らずのうちに顔をしかめていたようだ。

 クライドがおこっているとかんちがいしたのか、アシュリーが青ざめた。「助けられた……助けられた……」と、じゆもんのようにぶつぶつつぶやいている。意味がわからない。

 メイドたちは、やっと二人がそろって食事をするのだからとうれしそうに給仕を始めた。

 なぜ気づかない。本気で嫌がっているだろう、これは。

「せっかく来てもらったのに、ずっと一人にして悪かったね」

 それでもこちらが悪いことは確かなので、なおに謝った。すると、

「いいえ、とんでもありません!」

 あわてて返す口調は明らかに本音である。ますますわからない。

「──ひょっとして、俺のことをきらっている?」

 なにげなく聞いてみると、アシュリーが目をいた。勢いよく首を横に振る。

「いいえ、まさか!」

「そう? どこか気に入らないところがあったら言ってね」

「いいえ、どこもありません。じゆうぶんです! かんぺきです!」

「……そう」

 わからない。多方面からさぐることにした。

「メイドからも言われたしね、反省したよ。これからは時間を作って、なるべく一緒に食事をしようと思う」

「えっ、はい……」

 嫌そうだ。心底、嫌そうだ。いつしようけんめいその態度をかくそうとしているが、クライドにはわかる。

 あまりの素直な態度に、思わず笑いが込み上げた。

 今まで女性からこんな態度を向けられたことはない。少し興味を持った。

 じっとアシュリーを見つめてみる。すると青ざめながら視線をそらされた。

 しばらくして、クライドの様子をかくにんするように、アシュリーがおそる恐る視線をした。だがクライドはもちろん、視線をそらしてなどいない。

 げようとする視線をつかまえてにっこりと笑ってみせると、アシュリーが怯えたように固まった。

(なぜだ?)

 見当もつかないので、次に困ったように両眉を下げてみた。

「でも、やっぱり込み入った用事があってね。一緒に食事は無理そうかな」

 パアッとアシュリーの顔がかがやいた。嬉しがっている。

 クライドは笑いをこらえて、今度はちょっと反省したような笑みをかべた。

「いや、でも婚約者だからね。がんって時間を作るよ」

 あっ、落ち込んだ。この世の終わりのような暗い顔で、アシュリーは遠くを見つめている。

(なんだこれ、楽しい)

 アシュリーは落ち着かないのか心地ごこち悪そうにしながらも、決心したように口を開いた。

「あの、申し訳ありません」

「……何について?」

「助けてもらったのに申し訳ないとは思ってるんです。本人ではなく、ただの子孫ですし。すべて私の、何と言うか自己都合なんです。だからその、なんとかして慣れることができればいいなと思っています」

 一体、何に慣れるのか。意味がわからない。だがアシュリーの顔はしんけんそのものだ。

 とりあえずクライドは微笑んだ。

「わかった。頑張って」

 アシュリーは安心したのか、かたの力をいた。皿に盛られたレタスやむらさきキャベツを口に運ぶ。クライドはその様子を見つめた。

 はくしやく家の令嬢だからマナーは申し分ない。上品だし、食べる時の姿勢もいい。

 それなのになぜか目が離せない。愛らしい、というよりは一心に葉っぱを食べているように見えるのはなぜだ。

「小動物みたいだね」

 思ったまま口にすると、アシュリーが目を見開いた。本当に目の玉が落ちるのではないか、と思うくらいのおどろきぶりだ。怒るならともかく、なぜこれほど驚くのか。

「ど、どんな動物ですか……?」

 なんの種類か聞いているのだろうか。そうはくな顔で、気になるところはそこなのか。

「うーん、タヌキ? いや、イタチかな?」

 理由を知りたくて、あえて可愛かわいいリスやウサギは挙げなかった。それなのにアシュリーは、

「そうですか」

 とホッとしたように息を吐き、嬉しそうに笑った。

 タヌキやイタチに似ていると言われてこれほど喜ぶ女性を、クライドは初めて見た。

 変わった令嬢だと笑いながら、ふと視線を感じてかべぎわを見ると、ロザリーとメイドたちがはんにやのような顔をしていた。やっと食事の席に現れたかと思えば、こんやくしやをタヌキ呼ばわりするとは何事だ、と怒っているのだろう。

 クライドはアシュリーに視線をもどした。

「ごめんね。可愛いなと思って言ったんだ」

 本音だ。それなのにアシュリーは、怯えた顔でフォークを落とした。

 得体の知れないものを見るようにぎようしてくる。

おもしろい)

 アシュリーは居心地悪そうに顔をそむけるものの、食事の手は止めない。なにげなく再びサラダに手をばし、ハッとしたように視線を寄越した。

 また「小動物のようだ」と言われるのを恐れたのか、慌ててとなりの丸いとうのカップに入っているスープを飲み始めた。

 いオレンジ色のポタージュスープは、口に合ったようだ。美味おいしそうに目を細めた。

 何味だと思い、クライドも一口飲んでみたら、すりおろしたにんじんとミルクを混ぜた人参スープだった。

 クライドの視線に気づいたアシュリーが、急いでカップを置く。

 牛肉のみに手をつけながらも、ものすごく飲みたそうにスープの入ったカップを見つめている。

 クライドはあえて下を向いた。アシュリーに目をやらず、食事に専念しているふりをする。

 しばらくしてちらりと顔を上げると、アシュリーが幸せそうに人参スープを飲んでいた。

 この胸をくすぐるような微笑ほほえましさは何だろう。

 楽しくなってきて、クライドは声を出さずに笑った。

 いつの間にか、あれほどつかれていた体の重みも、心の重苦しさも消えていた。


   〇 〇 〇


「クライド様」と声がした。

 アシュリーが顔を向けると、食堂の入口に黒のローブを着た女性が立っていた。首元に金ボタンがついたベルベット地のローブは、上級聖職者やじゆつが着るものである。

きゆう殿でんからけんされているという、魔術師の一人なんだわ)

 はっきりした顔立ちの美女である。

「ジャンヌ、どうした?」

 クライドのこわするどいものに変わった。

 ジャンヌは答えずに近づいてくる。すぐ横を通り過ぎざま、アシュリーの全身をいちべつした。そしてアシュリーの顔に視線を留めて、わざとらしくクスッと笑った。

(……!?)

 しゆんかん、まるでかみなりに打たれたようなしようげきを受けた。ぼうぜんしつとはまさにこのことだ。

 そんなアシュリーに、ジャンヌが勝ちほこったみを浮かべた。

(どういうこと?)

 心臓がはやがねを打つ。アシュリーがショックを受けたのは、ジャンヌに笑われたからではない。

 ジャンヌが通り過ぎた時、ローブにみこんだにおいがしたのだ。宮殿でクライドのむなもとに入っていたハンカチ、それからかおったものと同じ匂い。

 この匂いの正体をようやく思い出した。

しようだわ!)

 魔族が体から出す瘴気である。

 六百年ぶりにいだ。ほうもないなつかしさと混乱が混じり、かねの音のような耳鳴りがした。

(なぜ? なぜ瘴気の匂いがするの!?)

 導き出せる答えは一つだ。

(あのきゆうしや──)

 絶対に近づかないでくれと言われた、しきの奥にある赤い屋根の廏舎。

 もしや、あの中に魔族がいるのか──。

 テーブルの向こうで、ジャンヌがクライドに何かささやいている。不測の事態でもあったのか、クライドの顔つきが鋭くなった。

 アシュリーは青ざめたまま二人を見つめた。聞きたいことはたくさんあるのに、衝撃で言葉が出てこない。

 ジャンヌは自分たちのなかむつまじい様子にアシュリーがショックを受けている、とかんちがいしたようだ。見せつけるように、さらにクライドに一歩近づいた。

 けれどそんな光景は、アシュリーの視界には入らない。

(魔族はほろんだはずなのに……)

 信じられない。まさかという否定と、昔の仲間がいるかもしれないという期待が頭の中でせめぎ合う。

「アシュリー、悪いけどこれで失礼するよ」

 クライドが立ち上がり、ジャンヌと足早に食堂を出て行こうとした。

 アシュリーは我に返り、あわてて聞いた。

「待ってください! 奥にある廏舎には、何がいるんですか?」

 クライドが足を止めた。り返った顔つきは、先ほどとはまるで違う厳しいものだ。

「言えない」

「でも、この匂いは──!」

「匂い?」

 しまった。瘴気の匂いを知っているなんて絶対に言えない。

 あせるアシュリーを、クライドはまゆを寄せて見つめていたが、

「トルファ王家から預かっているものだよ。それしか言えない」

「クライド様!?」と、ジャンヌが目をく。

「どうして、そんなことを教えるんですか!」

(王家から預かっている?)

 さらに混乱した。魔族は王室の敵なのに、なぜ?

「前も言ったけど、あの廏舎は危険なんだ。決して近づかないでくれ」

 低い声で言い残し、クライドはジャンヌと食堂を出て行った。

だん様……やっといつしよに、お食事をしていただけると思いましたのに」

「申し訳ありません、アシュリー様」

 メイドたちが顔をくもらせる前で、アシュリーはどうようしつつも必死に考えた。

 もしかしたら昔の仲間が生きているかもしれない。そうであるなら──。

(会いたい!)

 強い気持ちが込み上げた。

 危険でもいい。死に絶えたと思っていた、かつてのどうほう。もし本当に生きてここにいるのなら、姿が見たい。なんとしても会いたい。

(行ってみよう)

 あの廏舎に──。

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