<一>婚約と黒ウサギ②

 すそにレースのついたシルクのペチコート。その上から着る水色のドレスは、アシュリーのがらな体にフィットするデザインである。そでも同じレースでそうしよくされている。

 こしから垂れるサテン地のい青色のトレーンは、ゆかに引きずるほどの長さだ。

 ふんわりと波打つ黒髪は一つにまとめ、目の色と同じむらさきのアメジストをめ込んだ大きなはなかざりをしてある。

 これほどごうな正装は初めてだ。本来ならワクワクするところだけれど、とてもそんな気にはなれない。

 アシュリーは元来きらびやかな場所が苦手で、ウサギの巣穴のような薄暗くてせまくて静かな場所のほうが落ち着く。そういう性格もえいきようしているかもしれないけれど──。

 が落ち、馬車を飛ばして宮殿へ向かった。門の前は、デビュタントの子息子女を乗せた馬車で大混雑だ。

 父と別れたアシュリーは、死地に向かうかくで馬車を降りた。

 最初の難関は、門番の兵士である。

 前世の兵士とは違う人間だと重々承知している。だがその姿から少しでも前世を思い起こしてしまったら、とてもそこから先に進める自信がない。

 恐る恐る門番に視線を向けた。

(……つうの軍服だわ)

 灰色の軍服に、同じく灰色のぼうをかぶっている。帽子には黒の羽飾りがついていた。

 考えてみれば、この平和な時代にかつちゆう姿のわけがない。それに真面目まじめな顔で訪問者たちに敬礼する姿は、前世の殺気を放っていたそれとはまるで違った。

(……なんだ)

 ひようけして、もしかして自分はこわがり過ぎていたのかもしれないな、とまで思った。

 何しろ六百年もつのだ。

 それでもけいかいはおこたらずに、門をくぐる。何度も身分証明をして、大きなシャンデリアが垂れ下がるそうれいなホールを横切り階段を上った。

 順番待ちをする大広間に着くと、着飾った少女たちでいっぱいだった。みなほこらしげな顔をしている。

 たんに、うらやましいようながいかんのようなものが胸をいた。

 年も、きようぐうも、正装した姿も同じなのに、ぞくとしての前世のおくがあるアシュリーは皆と同じようにこの場を喜べない。

(……仕方ないじゃないの)

 うつむきがちに大広間を抜けて、王妃の謁見の間へつながる金の間へ入った。

 そこで、拝謁を待つ長い列に並ぶ。

(別にいいじゃない)

 思い直して顔を上げた。前世は変えられない。

 それにここまでは直系王族の姿を見ずに済んだ。このまま王妃への拝謁を無難にこなして、早く家に帰ろう。

 そして王族とも勇者とも関係なく、平和に、こころおだやかに暮らすのだ。

 そう決意した時、

「次! アシュリー・エル・ウォルレット。入れ!」

 と、名を呼ばれた。緊張しながら謁見の間へ足をみ入れる。

 真っ赤なじゆうたんかれた奥、大きなダイヤモンドが埋め込まれた金の玉座に王妃が座っていた。

 王妃の後ろには、上級貴族やえんせき関係の者たちが並んでいる。

 分厚い絨毯の上をゆっくりと進み、王妃の前で深々とおをした。差し出された手を取り、指先を自分の額に軽くつける。これが正式なあいさつだ。

 挨拶を終えると、退出のためそろそろと後ずさる。王妃に背中は向けられない。とびらを出るまでは、ひたすら後ずさりだ。床を引きずる長いトレーンをたくし上げるのも許されない。

 だから、その裾を踏まないように細心の注意をはらっていた──はずなのに。

「ひゃああ!?」

 見事にトレーンの裾を踏んづけてしまった。ようやく終わったという安心感から、気がゆるんだのかもしれない。淑女にあるまじきさけび声を上げて、後ろにひっくり返る格好になってしまった。

うそでしょう!?)

 心臓が冷たく縮む感じがする。はじも外聞もなく、けんめいに両手をってバランスを保とうとしたが、無理だ。

 カエルのごとくひっくり返りながら、視界のはしに、おどろきに目を見開く王妃と貴族たちの姿が映った。

 拝謁の場でそうをすれば、二度と社交界には出られない。そうなれば貴族れいじようにとっての将来はおしまいである。

(どうしてこんなことに……穏やかに、平和に生きていたいだけなのに……!)

 うすぐらくて静かな場所は好きだけれど、自分から好んでこもることと、こもらなければいけなくなることは違う。絶対に違う。

 ずかしさときようで、体のしんから冷たく固まっていく気がした。

 不意に、前世の死にぎわを思い出した。もうだという絶望。

 もちろん実際の死とは重みが違うけれど、希望がついえる恐怖は同じだ。

(嘘。こんなのいやだれか、誰か助けて……!)

 前世でも今世でも、どうして自分にはこんな悪いことばかり起きるのか──。

 次のしゆんかん、背後から強い力でかたを支えられた。

だいじよう?」

 づかうような男性の声が、耳元で聞こえた。縮み切った心にみ込む、やさしいこわだ。

 そのまま力強く肩を押し上げられた。

 真っ白になった頭で、無様に後ろにたおれ込む寸前、彼が支えてくれたのだとわかった。

 助かったのだ。

「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」

 振り返り、救いの主に全力で何度も頭を下げた。

 いくら感謝してもしきれない。本当に泣きたくなるくらいうれしかった。

「どういたしまして」

 アシュリーのおおぎような感謝がおかしかったのか、ふくみ笑いのような声が返ってきた。

 顔を上げると、まるで絵画から抜け出してきたような姿がそこにあった。

 二十歳過ぎほどの青年だ。均整の取れた長身を金ボタンのついた黒の礼服に包み、ちようぞうのように整った顔立ちをしている。

 けれど──。

(勇者といつしよだわ……)

 彼の見事な金のかみあざやかな緑色の目に、一瞬で心が冷えた。前世で見た姿がくっきりとよみがえるほど、髪の色も目の色も勇者とこくしている。

(嫌だ、私ったらなんて失礼なことを……!)

 きんぱつに緑色の目を持つ人なんて、直系王族以外にだっているじゃないか。

 助けてもらったのだ。彼がいなければ、アシュリーはいまごろこの絨毯の上で、失った将来に一人でふるえているしかなかった。

 反省し、もう一度深く頭を下げた。

「本当に、本当にありがとうございます!」

「もう気にしないでいいから」

 しよう混じりの声が返ってきた。その時、

(……何かしら?)

 ほのかに鼻をくすぐるにおいに気がついた。金のけんしようがついた彼のジャケット、そのむなもとのポケットに入ったハンカチからだ。こうすいかと思ったがちがう。

 おぎようが悪いと思ったけれどこうしんに勝てなかった。鼻を近づけて、思いきり息を吸い込んだ。

 彼がギョッとしたように体を引く。

(この匂い……何だったかしら?)

 くさった卵と、い草木のかおりが混じったような独特の匂い。

 いい香りだとは言いがたいし、体に合わないのか、少し気持ち悪くなってきた。けれど不思議となつかしく感じるのだ。きようしゆうというか、遠い昔にいだことがあるように心地ここちいい──。

「いい匂い……」

 心のままに微笑ほほえむと、彼が大きく目を見張った。そして、

「へえ」

 と先ほどの穏やかなものとは違う、興味深そうなみをかべた。

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