第二章 夏風と夜に溶けゆく風鈴と

第一話

・・・


 懐かしい音と、夏の光を一心に浴びた草の匂いを微かに感じ鷹ヶ浦幻一郎は目を開けた


 辺りはとても静かで、身を起こした衣擦れの音は広々とした個室の病室に響き渡った。暗闇の中で誘導灯がその存在をアピールしている


 時計に目をやると時刻は0時半、一度寝たら耳元で目覚ましを鳴らされようとも自ら決めた時間になるまで起きる事はない弦一郎にとっては珍しい事だ

 

り・・・ り・・ん


「風鈴?」


 静まり返った病院の中で、まるで存在をアピールしているかのように涼し気な音が鳴る


 どうやら廊下から聞こえてくるようで、無意識にそちらに目を向けると、病室の扉が開いてる事に気付いた


「締め忘れか?いや、しかし・・・」


 寝る前に扉を確認した覚えはないが、最後に病室を出て行ったのは秘書の雪代ゆきしろ さきだ、万に一つもそんな軽率なミスをするような人間ではない


 とにかく扉を閉めねばとスリッパを履き立ち上がろうとした瞬間、開いた扉の前を一人の少女が横切った


 一瞬しか姿を捉える事は出来なかったが、その姿は暗闇の中で妙に明るく、まるでこの世から存在が切り離されているように見えた


「幸・・!」


 呟いてから幻一郎は慌てて扉へ向かう、少女の纏う雰囲気は溺愛している孫の幸にそっくりだったのだ


 リハビリをしているとはいえ長い病院生活で足腰が弱っている、軋むような痛みを堪えながら廊下へ飛び出した


 僅かな時間しか経っていないはずだったが、少女の姿はすでに遠く離れていた


「幸、幸!どこに行くんだ、おじいちゃんはここにいるぞ」


 病院の中である事など失念し、精一杯の大声を出し呼びかける


 しかし少女は振り向きもせず一定の調子で先へ先へと歩いていく


「行かないでくれ、幸」


 少女が通った廊下は光で出来た川のように輝きを放っている、その川上をひらひらと紫の蝶が舞う


 少女の姿が見えなくなると、幻一郎はがくんと膝をつき、そのまま意識を失っていくのだった 

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