第192話:夜と生きる者

 

 燃え盛る森の中を白の少女が歩く。久方ぶりの故郷は様変わりしていた。鬱陶うっとうしいほどに充満していた霧は炎と共に消え去り、何百、何千と樹齢を重ねた大樹も無惨な灰と化した。生き物は皆逃げ出してしまったらしく、故郷の森は懐かしさと寂しさに溢れている。


「私たちしかいないみたい。あなたは逃げなくていいの?」


 ティアは頭上に浮かぶ月光虫に声をかけた。彼女の問いには答えず、灯光虫と戯れている。最下層から付いてきた月光虫と、森に住まう灯光虫、二つの光が森の奥へ誘った。


 龍が眠りし秘境の森。ある意味では閉鎖的な美しさもあったのだが、燃えてしまえば何てことはない。長く続いた平穏を壊すときが来たのだろう。人の街が移り変わるように、この森も変わらねばならないのだ。


 奥へ向かう途中、大樹の根本に寄りかかる古びた鎧と出会った。ティアの記憶よりもずっと傷だらけだ。激闘が起きたのだろう、周囲の地面には至るところに抉られたような跡がある。天才の気配は感じられず、役目を終えた鎧が静かに朽ちるのみ。


「久しぶりだね。今からあなたが守っていた先へ行くんだけど、止めなくてもいいの?」


 鎧は答えない。沈黙する番人の姿に、ティアは少し悲しそうな顔をした。悪戯半分で神域に踏み入り、そのたびに追いかけ回された過去が甦る。遊ぶ時間が終わったのは鎧も同じなようだ。傷だらけの鎧を軽く撫でてあげた後、ティアはその場を立ち去った。


 古き世代が旅立っていく。そして少女は古き側。何人かの仲間や同族は先に往った。名も無き戦士が消え、愛に全てを捧げた死神も眠りにつき、霧の番人は役目を終えた。賑やかだった周りがいつの間にか静かになった。


(たくさん苦労した。たくさん、辛いことがあった。そのたびに頑張って、乗り越えて、気がついたら皆いなくなってた。でも、楽しかった)


 苦労ばかりの人生は悪いものじゃない、とティアは思う。別に苦労をした方がいいとか、苦労をするべきだと言っているわけではない。そんなものは綺麗事だ。ただし、苦労した記憶は深く残る。後になって思い返した時に、真っ先に浮かぶのは大抵が苦労した記憶、本気で努力をした瞬間ではないだろうか。どうすれば良いか考えて、考えて考えて考えて、結果的には失敗したりもして、そして後になって思い返すのだ。当人が必死に足掻いた記憶は何年経っても色褪せない。


 意味があった。多くを残すことは出来なかったが、少しでも次の世代に繋げられるように変革を促した。今にして思えば自己満足だったのかもしれない。しかし、自己満足を語れる人生はそれだけで素敵だ。自分だから成せたことがあった。他の誰にも歩めぬ細き道を貫いた。


「後で語れる生き様を。後悔を受け入れられる選択を。大義を成せずとも、当人にしか分からぬ価値があれば十分だ」


 いつの間にか森を抜けていた。視界いっぱいに広がるのは真っ白な花が咲き乱れる花畑だ。最下層の花畑とは異なる、幽玄草と祈祷きとう草だけで形成される白の世界。花畑に着くと同時に、月光虫と灯光虫は森に帰っていった。浮世離れした世界にティアが一人だけ残される――否、一人ではない。


「そう思わない? ジルベール」


 花畑には天才が佇んでいた。魔素を取り込んで灰黒く変色したジルベールの肉体は、真っ白な世界で黒点の如く目立つ。霧の番人との激闘によるものだろう、彼の体は傷だらけだ。花畑の奥を見つめるジルベール。隔絶かくぜつした世界を彼はどんな思いで見つめているのか、後ろ姿からは想像することしかできない。


 ジルベールが振り返った。一体何が面白いのか、彼は普段と変わらない笑みを浮かべ、少女を歓迎する。優雅な立ち姿は彼がレーベン卿である何よりの証拠。ユースティアを迎えるために磨いた貴族の礼儀作法が、皮肉なことに人を捨てた今も、体に染み付いている。


「君を待ち焦がれたよ。想定以上に、時間がかかってしまった」


 花畑に二つの綺羅星きらぼしが輝く。片方は人をやめた天才。もう片方は人に憧れた化け物。ファルメール邸の戦いで分かたれてから早数年、長い時間を経て二人は再会した。お互いに記憶の姿からは大きく変わっている。しかし、在るべき場所へ帰ったような安心感がある。


 ティアはちらりと足元に目を向けた。地面に咲いた祈祷草は死者へ送る花だ。半透明の花びらに反射してティアのひび割れた体が映った。やはり自分は化け物だ。目の前に立つ天才と変わらない、化け物だ。


「始めようか。語るために来たのではないだろう」

「そうだね、終わらせよう」


 これほど大勢の人を巻き込んだにも関わらず、最後の戦いに観客はいない。必要ですら、ない。「ファルメールの娘が大暴走スタンピードの元凶を討つために森へ向かった」という事実さえ残れば、ティアの目的は果たされる。故に観客は不要。これは二人のための、天才と化け物のための戦いだ。


 二人は剣を引き抜いた。時には花屋の客として、時には剣の師弟として、時には地下の最果てまで鬼ごっこをした関係だが、本気で殺し合うのは初めてだ。ねじれて絡まった二人の因果。戦いは静かに始まった。


 ○


 花園に似合わぬ金属の音が鳴り響く。魂のぶつかり合う音が聞こえる。彼女たちが打ち合うたびに、巻き起こった旋風が花びらを巻き上げる。二人の関係はねじれていた。相手に恨みがあるわけでもなければ、もはや敵とすら呼べない関係であるかもしれない。そこにあるのは化け物の責務。もしくは、探求者の意地。私欲なんて矮小な理由ではなく、ましてや誰かに動かされて戦っているのではない。


「初めて会った時、君は只者ただものじゃないと思ったよ。本当だ。僕は君から目を離せなくなった」

「こんな時に口説いてるの? 場所は悪くないけど、状況は微妙かな」

「ははっ、手厳しいな。君はどうなんだ? 僕をどう思っていた?」


 常人には捉えられぬであろう神速の剣戟けんげきが繰り広げれる。火花が散った時には次の刃が振われた。刹那の芸術。誇りを賭けた戦い。ずっと被っていた仮面はもう、いらない。取り繕う必要もないし本心を隠す必要もない。


「良き客で、良き友人……友人? 放っておけない人? よく、分からないや」

「珍しいね。君でも分からないことがあるんだ」

「分からないことだらけだよ。こんなに長く生きても、成長した実感はあまりない。いつも変わるのは周りだった」


 弱さを隠して生きてきた。森では弱さを見せた者から死んでいく。そしてそれは、人間の街も変わらないらしい。


「私は何も変わっていないのに、離れていく人がいた。救えたかもしれない人もいた。夜になるとね、本当にこれで良かったのかと思う時があるんだ」

「過去を引きずるのは非合理的だ。所詮は事実の積み重ねに過ぎない。その経験をどう活かすかだろう?」

「あなたらしい答えだ。そして、あなたは言葉通りに実行してきたんだろうね」

「その通り。僕はレーベン卿。世間的には偉業と呼ばれるような結果を残した。なのに、最後には友だと思っていた男に裏切られたんだから笑ってしまうよ。そんなものさ、世の中ってものは!」


 天才の一閃がティアを後退させる。天才はやはり怒っていた。自分を裏切ったカルブラットへの怒り。利用してきた故郷への怒り。そして、何よりも自らへの怒り。彼は誰よりも自分に厳しい男であり、その点に関してはティアと似ている。


「他人のために生きたって意味がない! 絶対的な味方は存在しない! カルブラットが僕を利用したように、友情の裏には打算が存在し、誰もが自分のものさしで他人を測ろうとする。人間ほど複雑で非合理な生き物はいないのに、たかが数十年生きただけで分かった風に決めつけるんだ。君なら分かるんじゃないか? 友に裏切られた、君になら!」


 つまるところ似たもの同士なのだ。互いに異なる方向を向き、抱いた志も違えども、遥か高みという一点を目指した者達。何か一つに心を燃やした者は次元を超えたいつかで繋がっている。


「理解できるけど、共感はできない。それが私とあなたの違い」


 ティアが天才の言葉を断つ。流れるように刃を滑らせ、一撃、二撃、見た目からは想像もつかぬ重たい剣を振るう。そう、彼女の剣は重いのだ。天才の剣をかわし、そらし、相手の威力すらも回転に加えられた剣は誰よりも重い。


 堪らずに天才が距離を取りつつ、上段から刃を振り下ろす。ティアはそれを「点」で返した。あまりの絶技。ジルベールが驚愕に目を見開いた。それを誇るでもなく、少女は猛然と攻め立てる。


「裏切られることも受け入れてみせなよ、天才を名乗るのならさ!」

「周りが勝手につけた名だ!」

「それを責任と呼ぶんでしょ。選択には責任がつきまとう。あなたが選び、私が選んだ結果が今なんだよ!」


 駆け抜ける一閃。天才の体から血が流れる。浅い傷だが確かな一撃だ。


「私は確かに裏切られたさ。でも、友人を恨んだことは一度もない。それだけ酷いことを私は重ねてきたし、そんな日が来ることも覚悟の上だ。あなたはどうなの、ジルベール。天才も未来は予想出来なかった? それとも、未来を受け入れられなかった?」

「知ったようなことを、言ってくれるねぇ!」


 ジルベールの魔素が渦巻く。瞬間。彼の剣が爆発的な加速をした。二人の体感時間が極限にまで引き伸ばされる。瞬時に迎え撃つティア。それを上回るジルベールの刃。更にティアが態勢を無理やり変え、天才の刃をすり抜けようとする。刹那に行われる命の駆け引きだ。一手でも見誤れば死が待つのみ。


 先んじたのはジルベール。しかし、塗り替えたのはティア。返す刃が天才を袈裟懸けに断ち切った。生身の肉体とは思えぬ硬さだが、ティアの前では意味をなさない。


「これでも届かないか。全く、本当に君は恐ろしいな」

「積み重ねた年月が違うのさ。剣の扱いこそあなたに学んだけれど、戦いの勘、戦士の経験は私の方が積んでいる」

「あぁ、確かにそうだ。君は強い。それに引き換えて僕は塔に引き篭もってばかりだった。戦いに関しても、政治や人間社会に関しても、もっと外に出るべきだったと常々思うよ。でも――」


 ジルベールの血が止まった。それどころか、彼の傷から魔素が溢れ出る。どす黒い魔素はジルベールの周りに纏わりつき、彼の体は暗闇に溶けた。天才の想いが止まらない。誰にも止められない。


「まだ、死ねない。僕は探求者だ。これが僕の意地だ。君こそ、いつまで人の皮を被っているつもりだい!? 人の体に固執する君は本当に全てを捨てられるのか!? 僕は捨てられる! 僕は全てを捨てた!!」


 夜を生きる者・レーベン。魔素に溺れた探求者が顕在けんざいする。彼は世界を知りたかった。人の欲望に振り回された哀れな探求者だ。愛した人に裏切られ、友に裏切られ、最後に残ったのは人外の肉体のみ。されど彼は倒れない。眠ることのできない彼を、終わらせてあげる誰かが必要なのだ。



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