第191話:友を越えて

 

 ミリィが現れてから空気が変わった。彼女の存在は良くも悪くも両者に影響を与える。防人には勇気を、巨躯きょくの獣には眠れる力を呼び起こさせる。ある者はファルメールという分かりやすい英雄に沸き立ち、またある者は興奮したように剣を構え、そしてまたある者は……獣の異変に気が付いた。


「先輩、奴の様子が変わったと思いません?」

「……あぁ、何か知らんがやばい気がする」

「曖昧な答えをどうも。きますよ!」


 巨躯の獣は見た目にそぐわぬ俊敏さをみせる。全身が筋肉なのだから当然だ。バネのように弾かれた腕がピルエットたちを襲った。とっさに飛び避ける三人。先ほどまで立っていた地面が大きく抉られた。巨躯の獣は瞬時に体を捻り、もう片方の腕を力一杯に振り下ろす。


 人の体ほどもある爪が地面を粉砕した。


「くっ……速いな」

「俺とアディが奴の注意をひく。ピルエットは隙をみて奴の首を狙ってくれ!」

「了解です。先輩の格好いい背中を見せてくださいね!」


 ピルエットが獣から距離を取った。彼女はしなやかな槍だ。正面からぶつけるのではなく、側面から隙を突くことで本領を発揮する。自由に駆け回ってこそのピルエット。

 彼女が離れたと同時に二人の戦士が突撃した。まずは黒鋼くろがねが先行し、巨大な槍剣を獣に突き立てる。硬い手応えだ。魔素が染み込んだ赤い体毛は、まるで何重にも鎧を重ねたような硬さを誇る。数本の赤毛が抜けた程度という結果にアディは顔を顰めた。


「交代!」


 入れ替わるようにクォーツが前に出た。防人にしては珍しく、彼は盾を持っている。ピルエットのような才能も、アディのような特別な肉体も持っていない彼は、仲間を守るための盾となることを選んだ。

 アディに迫る爪を限界まで引きつけてから受け流す。味わったことのない衝撃に思わず手を離しそうになった。腕ごと持っていかれそうだ。クォーツは歯を食い縛って耐えた。盾には大きな傷が刻まれ、彼の腕には受け流しても痺れを残す。


 代わる代わる剣を振るう二人。数年振りの共闘とは思えないほど噛み合っていた。どこまでも速く、鋭く、獣を断ち切らんとする二人の覇気。巨躯の獣と互角に渡り合えてしまうほどに、彼らは互いを高め合った。


「ふんっ!」


 アディが鬼気迫る勢いで叩き込む。悪くない気分であった。古い馴染みと肩を並べて強大な敵に立ち向かう。幼い頃に二人が憧れた冒険譚にも似たような場面があった。勇者と仲間が恐ろしき魔物と戦う展開は胸が熱くなったのを覚えている。たしか物語では勇者が優勢だったはずだ。


 そして、劣勢を悟った魔物は大きく吠えるのだ。


「先輩避けて! 光が――」

「ガァァアア!!」


 獣を中心に光の波紋が広がった。獣が起こしたとは思えないほど神秘的な光だ。まるで鈴を鳴らしたように染み渡り、戦場が少しだけ静かになる。クォーツはとっさにピルエットの前で盾を構えた。脳内で戦士としての勘が警鐘を鳴らしたからだ。

 巨躯の獣が拳を振り下ろす。刹那、獣を中心に連鎖的な爆発が起きた。火薬による爆発ではなく、魔素そのものが膨張して起きる神秘の力だ。


 獣の異変に気がついた者は、この爆発にも違和感を覚えるだろう。これは、ファルス教の奇跡に酷似こくじしていた。きっとが獣にされてしまったに違いない。あぁ、なんと悲しきかな。今すぐ解放してあげなくては。



 獣の違和感に気付いた数名のうちの一人、アンバーは表情を曇らせた。


「ミリィは案外鈍いですし、ピルエットは……それどころじゃないでしょうね。世の中には知らない方がいいこともあるってわけで……」


 ふるふると頭を振る少女。周りの人間は少女が何を言っているのか分からないといった様子だ。アンバーも特に説明をするつもりはないらしく、近くにいたギャングの一人に声をかける。


「この様子なら私は必要ないでしょ。後は任せるって頭に伝えといて」

「えっ、どこへ行くんですか!?」

「私なりの後始末?」

「は?」


 最後まで意味の分からないことを言いながら、アンバーは戦場を去っていった。やはり何を考えているのか分からない少女だ、とギャングの男は思う。しかし今は戦いの最中。余計なことを考える余裕はなく、男は言われた通りに頭へ伝えるのであった。


 ○


「傭兵隊は防人の援護を! 弓を扱える者は弩弓を使いなさい! 獣の力は未だ不明よ、迂闊に近付かないで!!」


 ミリィの怒号が戦場に響く。獣の様子が一変してからは負傷者の数が激増した。何もない空間が急に爆ぜるのだから避けようがない。幸運なことにクォーツ達は無事であったが、全体的に見れば被害は甚大だ。

 しかし、彼らの目に絶望はない。ファルメールに敗北は有り得ないから。彼らの士気を支えているのは狂信とも呼ぶべき絶大な信頼だ。敵が強大であるほどミリィの存在も大きくなる。獣が暴れるたびに彼女の輝きが強くなる。


「裏の者達は大型弩弓の準備をお願い! 奴の動きを止めるわよ!」

「だってよお前ら! ぼーっと眺めてないで準備しろ!」


 裏街道のギャングが動いた。彼らが用意したのは通常よりも更に大きな弩弓だ。男三人がかりでようやく動かせるような代物であり、彼らが秘密裏に入手した“とっておき”である。タイミングを見て防人に売ろうと考えていたのだが、まさか自分たちで使うことになるとは思わなかった。


「よーく狙って……絶対に外さないように! 標的は巨躯の獣、無理に頭を狙わなくていいわ!」

「無茶な注文とは思わんか?」

「出来なければ死ぬだけよ! 潰される前に潰しなさい!」


 ギャングの頭が手を上げた。大型弩弓が鉄の擦れる音を上げながら旋回し、巨躯の獣を正面に捉える。人の叡知がいざ、射ぬかん。


「射て!」


 丸太のような矢が轟音と共に発射された。風圧によって周囲の瓦礫を巻き上げながら、殺意を込めた一矢が獣の左足へ吸い込まれる。いかに堅牢な体毛でも大型弩弓の矢は防げない。深々と刺さった矢が獣の足を止めた。突然の激痛に雄叫びを上げる獣。隙は、生まれた。


「ガァァアアー!!」

「助かった! いくぞアディ!」

「あぁ!」


 アディの一閃。黒鋼くろがねの刃が初めて獣の皮を断つ。さらに一閃、獣の傷口へ追い討ちをかけるように薙ぎ払った。槍剣が描く赤い軌跡。人間と同じ赤い血だ。獣は元々人間なのだから、血も赤くて当然である。そのことに違和感を覚えるのは可笑しなことだろうか。



 一瞬、クォーツと獣の視線が交わった。しゃりん、という鈴の音が聞こえた。まだ班長になる前の頃から、幾度も教会で聞いた音だ。道なき少女が修道女見習いになった時に貰う聖鈴の響き。汚れを払う清き聖具。


(鈴?)


 戦いの最中だというのに、クォーツの脳内には町外れの教会が浮かんだ。隣にはぶっきらぼうな顔をするアディがいて、プーロ司祭が存命で、リーベ修道女が柔らかな笑顔で迎えてくれて、そして、彼女の足元には赤毛の少女がいて――。


 ――


 とある可能性が思いついた瞬間、クォーツは折れそうな勢いで剣を振るった。叩き斬るという表現の方が正しい。救いのない理不尽を振り払うように、彼の剣が血飛沫を上げる。獣の返り血は温かかった。それが逆にクォーツの頭を冷静にさせた。


「ハァ、ハァ、そんなはずは、いや、あのクソ野郎なら……」


 滅茶苦茶に振り回される爪を盾で受け流しつつ、周りの仲間を確認する。隣に立つアディはいつでもいけると槍剣を構え、ピルエットはクォーツの様子を心配しつつも頷きを返した。迷うな、とクォーツは自分に言い聞かせる。選択の時間をくれるほど世界は優しくないのだ。


「おいアディ……俺か、お前が、あの獣を断つ」

「は?」

「無茶なことを言っているのは承知の上だ。間違っても、ピルエットにはやらせるな」

「おい、何を言って――」


 苛立ったように顔を向けるアディだが、彼は言葉を詰まらせた。隣の友人が見たことのないほど怒りに震えていたからだ。「……分かった」とアディは一言だけ返した。


 三人の戦士が同時に地面を蹴る。暴れ続ける獣の猛攻をかい潜り、彼らは再び相対した。三人を睨み付け、威嚇するように咆哮を上げる獣。その叫び声がクォーツにとっては別物に聞こえる。色々な感情がぐちゃぐちゃに混じった叫び声――まるで人間のようだ。


「ガァ!!」

「くぅっ、なんて力だよ!」


 振り下ろされた爪をクォーツの盾が弾いた。冗談のような衝撃がクォーツの葛藤を吹き飛ばす。しかし、いつまでも続くとは限らない。既にクォーツの盾は大きくひしゃげていた。あと数発も耐えられないだろう。


「アディ、右だ!!」

「分かっている!」


 黒鋼くろがねが大地を駆ける。天才から貰った肉体を限界まで酷使し、無口な男が一本の槍となった。触れる全てを貫かんとする破壊の槍だ。黒鋼くろがねの槍剣が獣の右足を貫く。だが、獣もただでは済まさない。


「ギィイ――」


 同時に地面から光の柱が立ち、ファルスの奇跡がアディを飲み込んだ。常人であれば一瞬で灰になる魔素の塊だ。柱が消えたとき、そこには煙を上げるアディの姿があった。苦悶の表情を浮かべる彼は、体のいたるところに酷い火傷を負っている。


「無事かアディ!?」

「構うな、今のうちだ!」


 アディの言う通り、巨躯の獣は見るからに疲弊しているようだ。クォーツは他の隊員にアディを任せ、獣に向かって突貫する。クォーツだけではない。裏のギャングが、傭兵隊が、防人が一丸となって総攻撃を仕掛けた。ミリィの指示にあわせて無数の矢が獣に降り注いだ。

 赤き獣が雄叫びを上げる。刃を向けて殺到する彼らの姿、獣の瞳にはどう映っているだろうか。やっと見えた勝機に人間達は沸いた。獣の体に剣や槍が突き立ち、弩弓から放たれた矢が宙を切る。


「ハァ!!」


 左足を大型弩弓によって射抜かれ、右足をアディに切り裂かれた獣は、それでもなお立ち上がろうとした。それをピルエットが許さない。脇腹に致命の一撃が走り、獣は一際大きな叫び声を上げる。


 長き戦いに終わりが見えようとしていた。一匹の獣が、命の灯火を消そうしていた。その事実を知った瞬間から、クォーツはゆったりと流れる時間の中で自問自答を繰り返す。本当にこれで良いのか。獣が人に戻る手段はないのだろうか。葛藤は捨てたはずなのに、今更になって再び迷いが生まれるのだ。


(やるしか、ねーだろ!!)


 クォーツの眼前にはガラ空きになった獣の胸元が広がった。これ以上ないほどの隙であり、今を逃せば二度と訪れぬだろうチャンスだ。


「ああァァァアア!!」


 ひたすらに鋭く、迷いすらも捨ててしまえるほどに速く。歯を食いしばり、痛いほど剣を握りしめ、クォーツの剣が獣を貫いた。赤い体毛を裂き、獣の心臓に刃が突き立つ。獣の咆哮が耳をつんざく。最後の抵抗をする獣だが、クォーツは剣を離さない。


 やがて咆哮が止んだ。クォーツの剣は刺さったままだ。しかし、彼は確かな手応えを感じた。爪は力無く垂れ下がり、獣から溢れ出ていた魔素もいつの間にか止まっている。人間の勝利だ。ついに巨躯の獣を倒したのだ。少しずつ実感が湧き上がり、誰もが歓喜の声を上げようとした。


 クォーツは獣を見上げる。巨躯の獣はどんな表情で死んだのか、と。


(これで良かったんだ。獣が元々人間だったとしても、俺達に救う手段はない。張本人のジルベールとフィズが乱心したのだから……)



 至近距離でクォーツと獣の目が合った。そして、クォーツは気付いた。

 獣はまだ死んでいない。


 クォーツが驚きの目を向ける中、獣はゆっくりと口を開ける。


「ガァァ!!」

「しまった――」


 突然の事態に皆が呆然とする中、獣は天高く跳んだ。逃げたのではない。獣が目指したのは戦場の後方。銀の煌めきを宿す少女だ。胸元に剣が刺さったまま、獣はただ一点を目指して猛進する。まるで目が覚めたように獣の動きは速かった。


「……え?」


 轟音、そして発現。文字通り、ミリィの眼前に獣が降って湧いた。

 状況に付いていけず、彼女は目をパチクリと瞬かせた。さっきまで遠くにいた獣が目の前に立っている。その、なんと大きな姿だろうか。血と体毛で真っ赤に染まった獣が、太陽を背負ってミリィを見下ろす。


「憧れ、の、人の妹――」

「え、え?」


 獣の爪が、ミリィの顔を優しく撫でた。殺した人間のものか、それとも獣自身のものか分からぬ血がミリィの頬に付着する。ミリィは恐る恐る顔を上げた。獣が落とした影の中、二人が見つめ合う。


「私の、友人――」


 近くにいたミリィだけが聞こえた言葉。その意味を悟った瞬間、ミリィの体に電撃が走る。ガタガタと両足が震え、心臓の鼓動が急速に高まった。大きく見開かれた目には、真っ赤な獣が映っている。


「待って、待ってよ……いやだ、違う、だってあなたは……」


 獣の体毛は赤い。見覚えのある鮮やかな赤だ。そういえば、最近彼女の姿を見ていなかった。きっと教会の手伝いをしているのだろう、と思っていた。彼女は……クリスは優しい友人だから。ミリィ自身も他人に気をかける余裕がないほど忙しくて、後回しにして、全てが終わったら一緒に遊ぼうと思っていて……。


 獣はもう片方の爪で自らの胸元を指した。剣を抜け、と言っているのだ。もはや声を発せないほど弱っており、その瞳も段々と虚ろになっていく。嫌だ、とミリィは首を振った。すると、獣はミリィの体を抱き寄せる。


 時間がないのだ。放っておいても消える命。最期を看取れと獣がいう。ミリィは震える手で剣を掴んだ。こんなに重くて冷たい剣を握ったことがない。血に濡れたつかが少女を拒むように滑るのだ。ミリィは無我夢中で剣を引き抜いた。


 溢れ出した鮮血が英雄を濡らす。胸元に大きな花を咲かせる獣。その大きな体は胸を貫かれてなお仁王立ち、そして、ゆっくりと後ろに倒れた。なんと鮮烈な死に様。


「なんで……なんでよぅ……」


 大粒の涙が溢れてくる。止めようとしたって次から次へとこぼれ落ちる。あぁ、このままでは、また泣き虫だと叱られてしまう。だから、ミリィは必死に涙を止めた。自分は王だ。ファルメールだ。どうしようもなく泣きたくて、叫びたいけれど、今はまだ我慢しなくてはならないのだ。


 ミリィは震える両手を隠すように握りしめ、民衆の前に胸を張った。そして、戦いの終着を宣言する。


「獣は死んだ! 我々の――勝利だ!」


 割れんばかり声が響き渡った。人々は歓喜に震え、口々に英雄の名を叫ぶ。防人万歳、ファルメール万歳。裏街道のギャングも傭兵隊と肩を叩き合って喜びを示す。剣を捨てて隣の者と抱き合う。歓喜の渦が戦場に広がっていく。


 皆が喜んだ。だから、自分が泣いてはいけないのだ。あと少しだけ我慢して、皆がいなくなって、そしたら思い切り泣いていい。だから、少しだけ、我慢。


 王の子は、喪失をもって王と成す。



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