第189話:愚かな管理者
樹海の霧鹿は動きを止めた。体の周りに魔素を集めながら、突如現れた乱入者に警戒を強める。ララという白猿の仲間であることは明白だ。見た目は人間の少女に見えるが、恐らくは魔物であろう。霧鹿から見ても異常な量の魔素が感じられる。管理者にも匹敵するほど濃密で、生を感じさせぬ冷たい魔素だ。
霧鹿が臨戦態勢を取る一方で、少女は白猿の元へ駆け寄った。腰に携えた治療薬をララに使う。大事に取っておいた最後の一本だ。
「ララ、その目……」
「気にするナ。無傷で済むような相手じゃない。むしろ、善戦している方ダ」
「もう……無茶をしないでよね」
「それはお互い様ダ」
ララの傷から流れていた血が止まった。しかし、失った目は治らないし流れた血は戻ってこない。治療薬とは優秀であるが万能ではないのだ。白猿を優しく抱き抱えると、少女は離れた場所にある大樹の根本へ運んだ。
霧鹿はそれを奇妙な目で見つめる。生きるために助け合う魔物は珍しくないが、あまりに彼女たちは魔物らしくなかった。自然の摂理に
「初めまして、管理者。喋るゴーレムは見たことがない?」
ゴーレム。その名を聞いた瞬間、霧鹿の警戒が薄まった。人のような外見に騙されたが、彼女から感じられる魔素は確かに土くれ特有のものである。ならば、管理者がゴーレムを相手にビクビクするのは格好がつかないだろう。
「キュル」
霧鹿は魔素を集めた。まずは小手調べとばかりに、少女の足元へ大樹を生やす。轟音。片手間に引き起こされる埒外な現象。予備動作なんて無いに等しいほどの早さだ。
「言っておくけど逃がさないよ。この戦いに手を出した以上、あなたはファルメールの名声のための礎となってもらう」
「……キュイ!?」
霧鹿の背後から声が聞こえた。一拍、霧鹿の角が音もなく落ちた。悠久の時を経て成長した巨大な角だ。それは管理者としての誇り。もしくは生きた証のようなもの。それを容易くへし折られた霧鹿は何が起きたのか理解できなかった。
「キィィィイイー!!」
続く叫声。霧鹿の憤怒が天に轟く。呼応するようぬ大地が跳ね上がり、何本もの樹木が勢いよく地面を貫いた。霧鹿の怒りを体現した大樹が生き物のようにうねり、矮小なゴーレムへ殺到した。されど、銀の光は潰えない。土煙を払うかの如く、冷たい風が霧鹿の隣を駆け抜けた。
「ララのお返しだ」
「キュッ!!」
霧鹿の左目をティアの剣が貫いた。霧鹿の悲鳴と共に赤い鮮血が吹き上がる。装束が汚れるのを嫌ったティアは、霧鹿を足蹴にして距離を取った。軽やかに飛ぶ姿は戦場と思えぬほど優雅だ。トン、と降り立つ少女を、霧鹿は血に染まった瞳で睨む。
たかがゴーレムと侮ったのが間違いであった。霧鹿は今さらになって思い知る。否、もっと早く気付くべきだった。目の前の少女はゴーレムなんてものじゃない。人の皮を、ゴーレムの皮を被った化け物だ。
霧鹿の全身がザワザワとさざめき立つ。色褪せた焦げ茶色の体毛から魔素が溢れ出た。片目から血を流し、怒り狂う管理者。もはや当初の目的も忘れ、いき過ぎた干渉を自覚する余裕もないまま、霧鹿は鳴き声をあげた。
「摘み取るよ、管理者」
「キュル――」
化け物対管理者。尋常でない魔素が両者から吹き荒れる。管理者の魔素に込められる想いは誇り。悠久の生と、管理者の矜持が源だ。であるならば、対する化け物は一体何か。霧鹿を飲み込まんとする彼女は何者か。
霧鹿の理解が追い付かないまま、戦いの幕が切って落とされた。
○
遅れて到着したユリアは、戦場の前で呆然と立ち尽くした。大樹が踊り、地が反転する。天高く吹き飛んだ家屋が塵となって戦場に降る。そのような戦いを彼は知らない。剣と剣が結び合うような戦いではなく、種を超越した存在が命を賭してぶつかり合うのだ。その姿、なんと神々しいことか。
ユリアは食い入るように見つめた。魔素が奔流するたびにユリアの常識が壊される。人間同士の戦いではあり得ない光景だ。我知らず上がった口角が彼の心情を物語った。心が踊るのだ。名を残すような英傑ですら見たことがないような戦いを、自分だけが独占できる。生き物の可能性をこれでもかと見せつけてくる。
顔の横を巨大な岩が通り過ぎようとも、彼は微動だにしない。若き戦士は心を奪われたままだ。むしろ、目を離してはいけない。一挙一動の全てを見逃すまいと、ユリアは前へ進む。モーリンが見届けろと命じた理由が、今になって理解できた。これは語り継ぐべき戦いだ。誰も見届けぬというならば、自らが見届けてみせる。
「これがモーリン隊の、美しき新星」
軽やかに舞う少女。剣戟の音が聞こえた時には、霧鹿の体に新しい傷が刻まれる。ユリアの目では追うことすら敵わない。それでも少年は両眼を大きく見開いて、必死に彼女の姿を記憶に焼き付けようとした。これは本来であれば語られぬ戦いだ。そもそも、ティアという少女の戦いには語り部がいない。語れるほど彼女を知る者はおらず、語られるような表舞台に立つこともなく、数少ない仲間と共に道端の隅で生きる少女。
これは、そんな彼女の唯一の表舞台だ。
○
霧鹿が大きく前足を持ち上げた。そして、振り下ろされた瞬間、一直線に大地が割れた。亀裂の間からは無数の樹木が尖った先端を光らせる。ティアは樹木の間を曲芸師のように飛び回りながら、霧鹿の足元へ魔素を集中させた。
「これ以上、街を壊さないでくれるかな」
「キュル!?」
ティアの土槍が霧鹿の顎を正確に捉える。下から突き上げられた霧鹿は一瞬だけ意識が遠退いた。しかし、管理者の意地が気を失うことを許さない。すぐに回復した霧鹿が、今度は亀裂を塞ぎ始めた。
人間が相手であれば容易く潰せただろう。されど、敵はゴーレムだ。土の中で生まれた彼女が土に溺れることはない。地面から生えた槍を足場にして亀裂の外を目指す。より速く、天を掴まんとする勢いで。網目のように張り巡らせた樹木を、くるくると三次元的な動きで駆け抜けるティア。
「キィーーーッ!!」
閉じ始めた亀裂を土槍で無理やりこじ開けながら、弾けるようにして少女は飛び上がる。銀の輝きが空に瞬いた。地に足をつけると同時、ティアの体が弾かれたように爆進する。霧鹿は咄嗟に樹木を壁にしようと魔素を集めた。管理者である彼は魔素の速さも天下一品だ。
されど、間に合わない。銀の煌めきは速すぎた。覇気の残り火が軌跡となって残る。霧鹿が壁を生み出すよりも早く、ティアは戦場を駆け抜けた。
「キュッ!」
街を壊した代償にもう一本。霧鹿の角がへし折られる。両方の角を失った霧鹿は随分と物寂しい様子になった。管理者が怒りに染まった瞳でティアを睨む。誇りと自信を折られ、片目すらも失った霧鹿。残されたのは意地だけである。
「一方的に蹂躙できると思った? 外の世界を思い知りなさい、管理者。高みを知らず、精進を怠った者が出しゃばるんじゃないよ」
「キュイーーー!!」
霧鹿を中心に魔素が渦巻く。管理者の怒りが嵐を呼び、目に見えるほど濃密な魔素が吹き荒れる。離れた場所にいたはずのユリアが、耐えきれずに大樹へしがみついた。家屋の残骸や、かつて人だった何かが宙を舞った。
「守りたいならば全てを捨てる覚悟がいる。誰かが代わりに守ってくれるほど世界は優しくない。ジルベールが森に踏み入った時点で手を打つべきだったのさ。そのための管理者でしょう、あなた達は」
霧鹿に声が届いているかは定かでないが、周囲の魔素はより一層深くなった。ここは魔素が濃すぎる。誰かの想いから形作られた魔素、その中には犠牲になった人の想いも混じっていた。耳を澄ませば轟音の中に叫び声のようなものが聞こえる。
終わらせなければならない。魔素を食らい、想いを食らい、長く生きすぎた土くれが、溢れた魔素を断ち切らなければならない。迷える魂に安らかなる救済を。まるで、どこかの修道女みたいだ。
「キィ――」
音が消えた。一瞬の静寂。直後、霧鹿から放射状に炎が広がった。あっ、と声を上げたのはユリア二等兵だ。迫り来る尺熱の炎を彼は呆然と眺めた。逃げ場なんてあるはずがなく。最後の瞬間まで彼は目を閉じない。
彼は見た。霧鹿の爆発が大樹を一瞬で灰に変えてしまうのを。
そして、その爆発を飲み込むように大地が盛り上がったのを。
瞬きした瞬間に丘が生まれたようなものだ。爆発を囲うようにして作り出された丘は、大樹に匹敵するほどの高さであった。
ユリアは空を見上げた。丘の頂上に君臨する白き輝きを、見た。爆風が吹き上げる中、彼女は天から見下ろした。霧鹿の埒外な爆発を凌駕してしまった少女。彼女はいつも通り軽く地面を蹴る。真っ直ぐに、霧鹿の頭上へ落下する白。
「キュッ――」
霧鹿の鳴き声は続かない。彼女が地面に降り立つと同時に、悠久を生きた霧鹿は命を絶たれた。歪み一つなく切断された首がトーカスの地にずれ落ちる。荒れ狂っていた魔素が霧散し、大樹に囲まれた戦場が静けさを取り戻した。
行き場を失った魔素は、やがて森に還るだろう。空から降ってくる魔素の輝きは、見たことのないほど美しい。ユリアは魔素の原理なんて知らない。しかし、確かにこれは人の想いの結晶だと思えるような、幻想的な景色だった。
管理者が落ちた。古い時代が終わった。長く生きた者が新しい世代に飲まれる。そんな時代がくる。これは来たる新時代の前哨戦。トーカスの最前線で繰り広げられた化け物同士の戦い。
振り返った少女は、ユリアの隣を素通りしてララの元へ向かった。大樹にもたれかかった白猿は珍しく弱った様子を見せる。治療薬で傷は塞がったものの、見た目以上に疲弊しているようだ。ティアが優しく頭を撫でてあげると、ララは自らの長い尻尾を腕に絡ませた。ふさふさとした毛並みも戦いの影響でぼろぼろだ。
「少し、疲れちゃったね」
「そうだな……街に来てから、一番頑張ったゼ。案外、やれば出来るもんだナ」
「私たちが揃えば無敵だもん。管理者なんてどうってことないさ」
「キキッ、その通りダ。怖いものなんて何もない」
「興味が湧いたらどこへでも行く。大切なのは楽しいこと」
「あと飯がうまいことダ」
「ふふ、こんな時まで食いしん坊だね」
二人は共に時代を駆けた。思い返せば長い月日。どれも鮮明に思い出すことができる。泥にまみれた森の生活は悪いものではなかった。けれど、街の暮らしを知った今では物足りなく感じられる。二人は世界を知ってしまったのだ。出会いと別れ、友とのすれ違い。もしも森を出なければ、これほど心が揺れ動くこともなかっただろう。
人を知り、人を学び、人を愛した。
ならば、最後まで人の道を歩むのみである。
「あとはお願いね。アンバーにもたまには優しくしてあげてよ。あの子、自分から独りになりたがる癖があるから……」
「あれは
「人を何だと思っているのさ。まぁ、確かに強い子ではあるね。本当は色々教えてあげたかったけど……時間切れだ。その役目はララに任せるとしよう」
少女は立ち上がった。名残惜しげな手には、微かな熱が残された。彼女の背後では未だ天才が燃えている。消えない炎が二人を急かす。
「行くのカ?」
「行くよ。あの
「遊ぶ時間は、終わりカ?」
「………そうだね、終わりだ。そろそろ幕を下ろさないと、ロスヘルトに怒られちゃうや。そうでしょう、ララ?」
少女の瞳は揺るぎない。前を向いているが、前に進むための道は残されておらず。されど、彼女は歩み続ける。向かう先が奈落であろうとも喜んで飛び降りるだろう。努力を重ねた先が輝かしい未来とは限らないが、成し遂げた者だけが得られる価値がある。化け物が紡ぐ物語はいよいよもって最終幕。あと、少しである。
「……楽しかったカ?」
その問いは二人にとっての起源だ。退屈な暮らしから逃げ出したくて街にきた。忘れてはならない始まりの思いを確かめるように、少女と白猿が見つめ合う。この沈黙は、思い出を噛み締めるための時間だ。ティアはゆっくりと答えた。
「うん……本当に、楽しかった」
爽やかな風が吹く。地底から迷い込んだ月光虫が二人の周りを飛び回った。降り続ける魔素に月光虫の光が反射し、大樹の森を色鮮やかに塗り分ける。こんなにも魔素が綺麗だと、ティアは知らなかった。自分の魔素は一体何色だろうか。きっと綺麗な色ではないだろうけれど、誰かに覚えていてもらえるような色であればいいと思う。
ティアは仮面を外した。ここから先は必要ないからだ。月光虫の光が少女の素顔を照らし、銀色の髪がまるで溶けてしまいそうだった。細いまつ毛が揺れている。ティアは自らの仮面を忘れ形見のようにララへ渡すと、笑いながら告げた。
「またね、ララ」
風が、魔素が、月光虫が、大樹の奥へ吸い込まれてく。そして、白き少女もまた、燃え続ける故郷の森へ誘われる。天才の高笑いが聞こえてきそうな狂気の森だ。
残された仮面を大事に抱えながら、ララは静かに見送った。故郷へ消えていくティアを、何度も止めようと思った。しかし、その想いが言葉になることはない。止めてはならないのだ。納得のいかない生き方なんて死人がみる走馬灯のようなものである。
だから、堪えて、我慢して、ティアに聞かれないように後ろ姿が見えなくなってから、ララは呟くのだ。
「俺はまだ、遊び足りないけどナ……」
茶化す相手はもういない。
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