第188話:化け物は我が道を往く

 

 演説を終えたミリィが部屋に戻ると、ティアの姿はなかった。黒鋼くろがねの男がじっと立っているのみ。予想していたことだ。


「奴なら先に行った。中層部を任せた、と」

「そう……分かったわ」


 ミリィは護身用の剣を携えた。大きく息を吸い、落ち着かせるようにゆっくりと吐き出す。若木の香りが肺一杯に広がった。緊張で固まっていた脳がほぐれ、正常な判断能力が戻っていく。


「あなたも手を貸してくれるのよね?」

「当然だ。奴がジルベール様を止めてくれるのだから、俺は街を守ってみせる。それに……懐かしい顔が頑張っているらしいからな」

「感動の再開ね。ピルエットが会いたがっていたわよ。もちろん、クォーツ隊長も」

「そうか……久しぶりの再会ってわけだ」


 無駄話は終わりだとばかりに部屋を出るアディ。ミリィが後を追いかける。部屋を出る時、一度だけ南を見つめた。姉が向かったであろう下層部の方角だ。どうか無事でありますように。捧げた祈りが常に届くとは限らない。


 ○


 中層部の獣。下層部の管理者。その中間地点にフィズはいた。フィズの目標はただ一つ、ジルベールの元へ向かうこと。そのために彼女は南方を目指す。


 森から逃げ出した魔物と、森へ向かいたいフィズが正面からぶつかり合う。波と波がぶつかれば、周囲に被害が及ぶのは当然だ。逃げ遅れた住民や倒壊した家屋が散乱していた。人同士の争いではないが故に、彼らの破壊は躊躇ちゅうちょがない。剥き出しになった自然の本能が街を襲う。


 獣の中央で指揮を執るのはフィズ・コーペンハット。彼女は巨躯の獣に絶対的な信頼を持っている。あの獣に対処しながらフィズを追うことは防人にとって不可能だ。そのため、フィズの関心は前方にのみ向いていた。



 しかし、突如として背後から巨大な気配を感じる。


「っ!?」


 反応が遅れた。それは致命的な遅れだ。一瞬の油断が戦況を傾ける。フィズが弾かれたように振り返った時、後方の獣は次々と斬り殺されていた。彼女の視界に灰色の煌めきが映る。


「何なのよ、次から次へと! 邪魔をしないで!」


 瞬時に組み上げられた魔法が標的を襲う。されど勢いは止まらない。風のように舞いながら魔法を避け、通りすがりに獣を斬り殺す化け物。フィズは驚愕に目を見開いた。自らの最高傑作とも言うべき獣たちがあまりにも容易く殺される。


 やがて獣の群れから少女が飛び出した。灰の魔素をまといし彼女は戦場のど真ん中に立ちながら、その装束に一滴の血も付けていない。場違いなほどの美しさを持って化け物が健在けんざいする。


「……何で人間がいるのかと思ったけど、あなたがフィズ・コーペンハットだね」

「だ、誰よあんた」

「ただの通りすがりだよ」

「ふざけないで!」


 フィズの魔法が少女を薙ぎ払った。味方を巻き込むのもお構いなしだ。逃げ遅れた獣が絶叫を上げながら焼け落ちた。


 しかし、相手は化け物だ。ゴーレムは炎程度では屈しない。炎の中から弾丸のように現れるティア。術師であるフィズは反応すらできずにティアの飛び蹴りをまともに食らった。何度も地面を跳ねた後に崩れた家屋へ激突する。


「手加減したから死にはしないよ。まぁ、骨の数本は折れているだろうけどね」


 たとえ才女と謳われるフィズであっても、ティアにとっては路肩の石のようなもの。たまたま大きな石が転がっていたから蹴飛ばしたに過ぎない。動かなくなったフィズを一瞥いちべつもしないティア。彼女の関心はもっと別の場所へ向いていた。これで問題なし、と呟いた後、ティアは満足げに立ち去った。


 ○


 ユリア二等兵は真っ暗な世界を漂った。脳が覚めていないせいで状況が分からない。心地よい倦怠感が体を包み、まだ寝てていいのだと悪魔がささやく。鉛のように重いまぶたが主人の目覚めを拒んでいた。起きなくてもいい。どうせ周りは戦場だ。新兵にできることは何もない。このまま、いつまでも暗い世界に沈んでいたい――。


 ユリア二等兵が飛び起きるように目を覚ました。一瞬で脳が覚醒し、心臓が何倍も早く鼓動する。自分の体が無事であることを確認したユリアは、立ち上がって辺りを見渡した。そして、愕然とした。そこに彼の知っている景色がなかったから。


「街が……」


 下層部は様相を大きく変えていた。貧民街でありながらも他都市に匹敵する賑わいを見せた街並みが、今は大樹と霧に包まれており、まさに森のようである。空を覆うように大樹が枝を広げる様子は、かの微睡みの森を彷彿ほうふつさせた。かろうじて残された人の文明が、ここは街であることを示す。


 異常な速度で成長する自然が街を飲み込んだのだ。管理者、もしくは超越種という存在は、時に地形すらも変えてしまう。大樹に囲まれた広場の中央。木漏れ日も差さぬ暗き森。もはや別世界に迷い込んだと錯覚してもおかしくない。


「ひどい、有様だ」


 先ほどまでは文字通り死闘が繰り広げられていた。管理者と防人、もしくは管理者と魔物による戦いだ。しかし、管理者たる霧鹿の前では無力であった。フィーリン隊は壊滅。弩弓どきゅう部隊も大樹に飲まれて消え、魔物の群れは全て自然に還された。


「そうだ、他の仲間は!?」


 ユリアは駆け出した。隆起した地面はひどく走りづらく、ユリアは何度も足を取られそうになる。胴体よりも太い根が地面を貫く姿は、改めて街が崩壊したのだと実感させるようだ。赤く染まった空。煌々と燃える微睡みの森。大樹に飲み込まれた下層部。気を失っていた間に世界が変わってしまった。ユリアの知っているトーカスはもうない。


 やがて、大樹の根元で座り込む隊員の姿を見つけた。あの特徴的な横太りの体格はモーリン分隊長に違いない。折れた剣を握ったまま、彼はピクリとも動かなかった。ユリア二等兵は慌てて駆け寄り、声をかける。


「ご無事ですか、モーリン分隊長!」

「……お前は?」

「ユリア二等兵です。最前線の爆発に巻き込まれましたが、偶然助かりました。しかし、目を覚ましたらこの惨状でして……」

「そうか、幸運だったな」

「あの、パスカル班長や他の仲間は……?」

「……生き残ったのは、我々だけだ」

「そんな!」


 大樹の根元に背中を預けた状態で、モーリン分隊長はユリアを見上げた。恐らく骨が折れたのであろう、立ち上がることすらできない。指を動かそうとするだけで体中に激痛が走った。


 隣にはフィーリン隊長が横たわっている。幸いなことに息があるようだが、この状況ではあまり関係ない。むしろ、隊長ですら手も足も出ないという事実の方が重大だ。それはつまり、防人の勝てる相手ではないということ。人間が勝てる相手ではないのかもしれない。


「一体、何が起きたのですか?」

「それは――」


 モーリンは言い淀む。彼にすら理解の及ばないことが起きたからだ。一匹の生き物が街の構造を変えてしまうなんて、誰が想像できただろうか。まさか、魔物とは全てが常識外の存在なのだろうか。人である限り越えられぬ壁。まさに人外の領域。


「それは、奴が微睡みの森の管理者だから」


 声がした。モーリンがよく知っている声だ。彼の視線の先にはティアが立っていた。藍と白。曇りなき愛を抱えた化け物。灰白い覇気をまとった少女がモーリンに歩み寄る。彼女はモーリン分隊にとって希望の星であった。決して表舞台に立つ人物ではなかったが、皆が彼女を信頼していた。モーリン分隊長も例外ではない。どんな無理難題にも応えてくれる、優秀で可愛い部下だ。


 モーリンは驚いたようにまぶたを震わせた。いつ最下層から帰ったのか、白い髪はどうしたのか、聞きたいことは沢山ある。しかし、まずは彼女の功績を誉めてやろう。そう考えたモーリンが手を伸ばそうとして、動かないことを思い出した。全くもって難儀な体だ。大事な時に動かないのだから情けない。


「ゲホッ……遅いじゃないか」

「すみません。それにしてもボロボロですね、モーリン分隊長。いつもみたいに、ふんぞりかえっている方が似合っていますよ」

「好きで転がっているわけじゃない。全く、最下層から帰ったのなら、一報ぐらい入れろ」

「あはは、私も先ほど戻ったばかりで」

「とにかく……よく帰ってきてくれた。流石はアストレア、一等兵だ」


 彼女の名を聞いた瞬間、ユリアは驚いたような顔をした。アストレアという名は訓練で散々耳にした名前だ。いわく、彼女の訓練は苛烈を極めるだとか。しかも美少女だ。筋肉だるまではなく、美少女なのだ。ユリアは一目みたいとずっと思っていた。仮面で顔を隠しているのが残念である。


「いつもみたいに命令します? 例えば、大暴走スタンピードを止めてこい、とか」

「……出来るのか?」

「命令であれば。まぁ、命令しなくても私は勝手に動きますけどね」


 何てことないように彼女は言った。そして、彼女が出来ると言うならば、本当に大暴走スタンピードを止めてくれるはずだ。モーリンは自らの無力さと、部下を失った悔しさと、怒りと、そして白き少女への信頼を込めて命令した。


「頼む」


 モーリンの命令は一言だけ。そして、少女の返事も一言だけ。


「アストレア一等兵にお任せください」


 いつの日かと同じように、真っ直ぐで綺麗な敬礼をみせた。細くしなやかに。されど力強く。彼女は決して折れぬ騎士の剣だ。重力を感じさせない髪がふわりと風になびき、流れるような所作がユリアの目を奪う。これほど美しい敬礼は見たことがない。ユリアの敬礼とは比べ物にならないほど自信に溢れ、まとった覇気からは覚悟が感じられた。


 少女は足を踏み出した。大樹の奥、霧に沈んだ最前線へ。管理者でありながら私情で力を使った愚か者を討つために、彼女は剣を携えて戦場へ向かう。歩を進めるたびに地面の揺れが大きくなり、視界を覆う霧も濃くなっていく。


(この霧はララのものか。急がないといけないな)


 走ろうと動いた拍子に、ポトリ、と何かが剥がれ落ちた。よく見れば彼女の右腕がひび割れている。人であるための器は限界を迎えているらしい。ひび割れた少女は戦士と呼ぶよりも、むしろ壊れかけの人形のようだった。

 しかし、彼女は気にしない。ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。ユースティアを名乗った自分がジルベールを討ち、妹が街を守り抜くことができれば、ファルメール家は正真正銘の英雄となる。ミリィが王になれる。英雄の影に犠牲あり。愛するものを救えるならば喜んで礎になろう。


 ティアは改めてゴーレムの体に感謝した。この体でなければ、ユースティアを名乗ることはできなかった。この場に立って妹を守ることもできなかった。化け物であればこそ、成せるものがある。


 ――私が人で、あなたが魔物だから。


 友人の店で別れ際に言われた言葉を思い出した。魔物だっていいじゃないか。生まれを選ぶことはできないのだから、人だ魔物だと嘆くのは時間の無駄だ。他人をいつまでも羨んだって何も生まれない。生まれ持った力をどう使うか。自分がどうありたいのか。納得がいくか、どうか。



 やがて、霧が晴れた。大樹の中心に立つのは樹海の霧鹿。対するは白猿。互いに損耗しているが、状況的には白猿が不利。元より相手は管理者なのだから仕方がないだろう。むしろ、ララ一人で管理者を抑え込んでいることに驚愕すべきだ。


「あぁ……ようかく来たカ。どうだ、俺も中々やるダロ? お前の出番を奪ってやったゼ」


 白猿が笑う。彼の左目は失われていた。


 ○


 気遣うようなユリアの手を、モーリン分隊長は目で拒否した。なおも食い下がるユリアだが、彼よりも先にモーリンの口が開く。


「ユリア二等兵。お前は行ってこい」

「し、しかし……!」

「私は大丈夫だ。彼女が来たのだから、すぐに本部から救援が来るはずだ。お前は、見届けてこい。彼女の戦いを、お前が見てくるんだ」


 モーリンの言葉には有無を言わさぬ圧があった。言外に、本当は自分が見届けたかったと言っている。アストレア一等兵の戦いを見れないことを、他ならぬモーリンが一番悔しがっているのだ。故に、代わりに行けと命じた。そう、これは命令だ。分隊長の命令に拒否権はなかった。


 ユリアはすぐに頷くことができない。しかし、モーリンの命令を断るだけの理由が思いつかない。逡巡する時間すら惜しいのだ、とモーリンの瞳が訴えた。悔しげに唇を噛み締めながら、ユリアは敬礼をする。


「……わかりました。分隊長、どうかご無事で」


 アストレア一等兵に比べたら見劣りしてしまう敬礼だ。しかし、そこに少年の想いが込められている。短くも長い敬礼の後、少年は駆け出した。分隊長の言葉を信じ、大樹の中央へ吸い込まれていく。



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