第8話:気まぐれの善意
トーカス下層部、某スラム街。淀んだ空気と失われた生気。水が綺麗なのはせめてもの救いだろう。日の光すら遮るトーカスの闇は、人々の心すらも暗く染め上げてしまう。一人、また一人と疲れた者から死んでいく。そんな街中をぼんやりと眺める男がいた。
「……」
目の前で鼠に食われているのはスラム仲間の一人だ。夢を追ってこの地に来たらしく、「いつかもう一度成り上がる」と豪語していたが、そのわりには呆気ないものだ。
知り合い、と呼べるほど話さなかったような気もする。幾度と自慢話を聞かされてきたが、もう聞かなくていいと思えば気楽だ。結局この男はトーカスに順応出来なかったのだ。最後まで自らの現状を受け入れられずにスラム街で散っていった。普通の人間が聞けば愚かな奴だと思うかもしれない。しかし、馬鹿にする気持ちすら沸いてこない程に男の心も疲れていた。
「何が繁栄の都市だ……どこも同じじゃねーか」
取り敢えず、この男が死ぬまでは生きようと思っていた。何となく先に死ぬのは癪である。だがそれも終わった。次の目標は見つからず、生きる意味も見出せず。
「……」
男はナイフを持った。刃に反射する顔はごくありふれた死人の顔だ。いつの間にか立派なスラムの一員である。数年ぶりに見た自分の顔は見るに絶えず、確認したことを少し後悔した。もういいだろう。彼は手に持ったそれを首筋に当てる。
「何をしているの?」
「……あ?」
女の声が聞こえた。顔を上げると奇妙な少女が立っている。何がおかしいって、街中で骨の仮面を被っているのだ。十中八九頭のおかしい人間に違いない。ましてやスラムで顔を隠す奴なんてロクな人間ではないだろう。ようやく人生を終わらせる決心がついたというのに邪魔が入り、男はため息を吐いた。
「よっこらせ……何でこんな時に来るんだよ」
男は立ち上がると、手に持ったナイフに力を入れた。邪魔者を殺して自殺しよう。その考えが驚くことほどスムーズに思い浮かび、男は少女に近づいた。そして――手に持ったナイフを真っ直ぐ少女へ突き刺した。淡々と、道端のゴミを除けるのように。
「え?」
少女が驚いたように声をあげた。鋭利なナイフは彼女の腹へ深く刺さっている。馬鹿な少女だ、これから死のうとする人間に話しかけるからこうなる。刃の感触に少し違和感を感じたのはきっと気のせいだ。
「……びっくりしたぁ。柔らかい体って忘れてた」
「は?」
少女は何事も無かったように話す。男は訳がわからなかった。確かに手応えを感じたはずなのだ。それにも関わらず、目の前の少女は踊り出しそうなほどピンピンしている。
「出会い頭に刺してくるとは、中々面白い挨拶だね」
面白い話なんてものではない。しかも少女は刺さっていたナイフを抜いて、何食わぬ顔で返してきたのだ。男はいよいよもって考えることを放棄した。一体何が起こっているのか理解出来ないし、理解しようとも思わない。
「それで、あなたは死のうとしてるの?」
「……見りゃわかるだろ」
「ふーん。馬鹿みたいだね」
理解不能な現象は
「ほっとけ。馬鹿みたいな格好の奴に言われたくない」
「あら、傷付くなぁ。結構気に入っているんだけどね」
少女はほくそ笑んだ……気がした。仮面で見えないし、見たくもない。今気付いたが、着ているコートはボロボロであり男とさして変わらない格好をしている。
(こいつも同じスラムの人間か)
「それで、どうして自ら命を断つの?」
「ここじゃ珍しくもないだろ。諦めた奴から死んでいく。俺もその一人だったってだけだ」
「まぁ確かに珍しくないけどさ。私はずっと疑問なの」
少女はそう言って首を傾げる。先だけが白くなった藍色の髪が揺れた。
「生き物は死にたくないから他の生物を殺す。それが普通だし、私だってそうだ。自分の命が一番大事だもん。でもあなた達は違うんでしょ?」
「お前みたいなガキには分からねぇよ。別に最初から死にたいわけじゃない。生きる意味が無いってだけだ」
「だから死にたいの?」
「そうだ。ある日突然死にたくなるのが人間だ」
少女は考えるように黙った。いつの間にか彼女の質問に答えている自分がいる。完全にペースを握られていた。こんな筈ではなかったのに……邪魔な少女はさっさと殺し、腐った世界におさらばする。その全てが狂ってしまった。
「あなたが死ぬ理由を聞いてもいいかな」
「聞いてどうするんだ」
「いいからいいから」
「あー……人生の終わり方に納得してしまった……のか?」
「ふ~ん? なるほど」
結局この少女は何がしたいのだろうか。置いてけぼりのような感覚を感じつつも、流されるがままに少女の質問に答えていく。
「余計なお世話かもしれないけど、勿体ないよー。こんなに面白い街なのに」
「面白いか……確かにお前は楽しそうだ」
「そうでしょ。私はすっごく楽しんでる」
これぐらい前向きな性格ならば、こんな人生も少しは違ったかもしれない。少女を見ているとそんな後悔がちらつく。
「ま、あなたが死んでもどうだっていいけどね」
「……なんじゃそりゃ」
少女はそう言って立ち去ろうとする。このままでは、自分がいいように振り回されたようで悔しいのだ。せめて一矢報いたかった。
「折角だからさ、その仮面を外してくれよ。そしたら俺は死ぬのを止めるかもしれない」
「えー、うーん……どうしよう……」
少女は初めて困った素振りを見せた。ようやく反撃が出来たようで気持ちがいい。せめてこの生意気な少女の顔を拝んでやろう。死ぬのはそれからでも遅くない。
「仕方ないなぁ……秘密だよ?」
そう言って少女は仮面を外した。仮面の下、綺麗な顔が生意気に笑う。赤い瞳は綺麗な光を放ち、男の心に忘れられない顔を刻み込む。彼は声を発するのを忘れた。
「じゃあね」
少女は今度こそ立ち去っていく。軽い足取りは少しずつ遠ざかり、スラム街は再び静かになった。しかし雰囲気は変わった気がする。気のせいかもしれないが、前よりも明るいような不思議な感覚。相変わらず知人の男は鼠に食われているし、空気は腐ったように淀んでいる。しかし、何か変わった。
その日以降、無気力な男の姿を目にした者は居ない。
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