第8話 ☆逝く人の意思☆

私の父は何度も癌を患った。


何度も身体にメスを入れ、治療薬の副作用で肺線維症になった。


肺線維症は肺がスポンジのようになり呼吸できなくなる病だ。辛く苦しい病だ。


最期は癌の全身転移だった。


父の闘病生活でどうしても忘れられない事がある。


どんなに苦しくても痛くても絶望感に駆られても、決して弱音は吐かなかった事だ。


だがたった二つだけ我儘を言った。


もう助からないのならば抗癌剤治療を受けずに、なるべく長く家で過ごしたい、家にいたい、家で死にたいということが一つ。


もう一つは1分でも一秒でも長く私がそばにいること。


父のサポートの為にした就職を父の望みで辞めた。


他人が家に来るのが嫌だそうでケアマネも私がやった。


同居家族ならケアマネを代行できるのだ。


果てしなく面倒臭いけど。


だが往診してくれる医者がいない。


自宅で死にたいという願いを叶えるのは大変なことだ。


最初に紹介されたヤブ医者は調子が良かった。

苦しいと言う父のお腹をさすって「これは筋肉ですね」と笑った。

泌尿器に連れて行ったら尿閉だった。

その後医者は家族を脅しつけ、後足で砂をかけるように辞めた。お金は過剰に取った。


悔しかった。


次に見てもらった泌尿器の医者は状態悪化するにつれ表情が暗くなり「もうここでは見れません」と頭を下げた。


最後の往診医の時に電話した。

「痰が切れないんです。物品さえあれば何とか私がやります!」

「夜間に物品貸し出しは出来ません。そのまま看取って下さい。日勤が始まる頃に死亡確認に医者が行きます」


 −まだ歩ける。まだ食べられる。普通に話せる−


 −たかが一度痰が切れないだけで死ねと言うのか?!−



救急車を呼んで頼ってる先生の病院に入れてもらった。


コネを使うと周囲から嫌な顔をされる。


だから毎日一生懸命顔が疲れるまで愛想を振りまいた。

 

 −こんな状態がずっと続けばいいな−



ある日父の病室を訪れると、父の目がむくんでいた。意識もない。


 −駄目だ。もう駄目なんだ−


涙が溢れて何も見えない。


その時看護婦さんが入ってきた。


状態に気づくと「大丈夫ですよ」


そういって父を個室に移してくれた。



その日から私は毎晩個室に泊まる事になった。


時々「娘さんは大丈夫なのか?」と心配されながら。



徐々に父の状態は悪化していった。


とうとう舌根沈下した。今夜が峠だ。


「また明日ね」

「明日はない」

夕方に帰る家族に父はそう返した。


意識がもう混濁しているであろうに、夜中に父が両手を上げた。


すぐに二人で体を起こして水を飲ませた。


突然看護師さん達が勢いよく入ってきた。


心電図モニターが止まったのだろうか?


そして私たちを見て驚いた。


舌根沈下の状態で水など飲めるわけがない、飲むだけでとても苦しいのだから。


「これは父の意思です。起きて水を飲むことが父の意志なんです」


一晩明けた日勤帯の明るい時間。


部屋には既に心電図モニターが運び込まれている。


呼吸を見ながら医者が待機していた。


父の呼吸はゆっくりになり浅くなり、かすかになってとうとう止んだ。


心臓も止まりかけた。


「呼吸停止です」


家族の嘆きが聞こえた。


だが一人いない。


私はとても厳しい目をした。


「弟がいない! 来るまで何分??」

「あと30分」

「分かった」


途端に私は靴を脱いてベッドに飛び乗った。


そして父の体に馬乗りになった。


何をするためか?


スラングではハンドリング。リハビリテーション学的呼吸補助手技だ。


二本の手さえあれば人工呼吸器になれる。


 −それが医療技術だ−


いつの間にか医者と看護師が退室し心電図が動いてる。


時間なんてわからなかった。


「来たよ。もう来たよ」


弟が到着したのだ。


その言葉と共に手技を止めた。


呼吸は止まり心臓も止まった。


死亡確認のなされる中、弟だけが聞いた。


「じゃあ、先に行ってるよ」という父の言葉を。


「本当にお世話になりました。ありがとうございました」


医者や看護師に御礼を言いながら、私はいつまでも涙が止まらなかった。




最近になって考えることがある。


葬式や一年忌、三年忌などの日取りを姉が調べて驚いていた。


全てが休日祝日に当たっていて平日はなし。


休む必要は一度もないそうだ。


生前から父は「自分の葬式で絶対に迷惑はかけん」と断言していたそう。


ではそれも父の意思なのか?


 この日に死ぬ。そう決めた父の‥‥

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