第2話 夜行性の引きこもり

目が覚めると、私はふかふかのベッドの上にいた。見慣れない部屋のベッドの上で、ふと、ここはどこだろう?と考えた。起き上がって辺りを見渡し、しばらく記憶を遡っているうちに、昨晩の出来事を思い出す。……そうだ、私は魔界にいるんだ。

「私が、ねえ……。」

まだ実感なんてものは全くないけれど、どうやら私は魔族らしい。それは昨日判明したことだ。夢か何かではないかとも考えたけれど、今この場で起床したことで、全てが現実であることが証明された。なんとも言えない感情に心が支配される。

「とにかく、まずは起きよう。」

自分の思考は一旦ストップさせて、私はベッドから下り、着替えをする為にクローゼットへと向かった。クローゼットにある洋服から好きなものを着ていいと、ロンから昨日言われている。クローゼットの中には、私一人の為とは思えないほどの洋服が並んでいた。……やっぱり、この待遇には慣れない。ノアにはだめだと言われたけれど、私も何かロンのお手伝いをしたい。そう思いながら、私はネグリジェから、一番シンプルなオフホワイトのワンピースへと着替えを済ませた。この淡いピンクのネグリジェも、ロンが準備してくれたものだ。昨晩、ノアの部屋を出た後、シャワールームを貸してもらい、その際にロンから渡された。ふと、ブラウスとフレアスカートが目に留まる。これらは私がこの世界に来たときに着ていたものだ。しかし、これらは恐らく、もう出番がないだろう。そう思い、クローゼットの端の方にそっと隠すように忍ばせて、私はクローゼットを閉めた。

「……さて、。」

他人の家で行動するのは、なんだか勇気がいる。この部屋を出ることでさえ、少し躊躇いそうになるくらいだ。意を決して部屋の扉を開け、私はなんとか部屋を出た。しかし、問題はここからだ。部屋を出たはいいものの、この屋敷が広すぎてどこに何があるのかがまだいまいちわからない。いや、そもそも私はどこに向かえばいいのだろうか。答えが出ないまま立ち尽くしていると、見覚えのある黒髪短髪の男が私の前に姿を現した。

「あ、ロン。」

気づいたときには彼の名を呼んでいた。よかった、これで迷子にならずに済む。

「おはようございます。朝食の準備ができておりますので、ご案内いたします。」

無表情のまま、彼は私にそう言う。

「おはよう、ロン。」

彼の案内で私は食堂へ向かうことになった。

「ノアはもう起きているの?」

「いいえ。」

私の質問にロンは即答する。そして付け加えてこうも言った。

「ノア様はこの1年ほど、昼夜逆転した生活を送っています。」

……昼夜逆転って、魔界にもあるのか。いや、そんなことより、それは健康に悪すぎないか。人間界でも、昼夜逆転は健康に良くないと言われているから、ノアの健康状態が心配だ。しかも、そうなると、ロンに大きな負担がかかるのではないだろうか。ノアの生活リズムと私の生活リズムはきっと真逆だ。恐らく、ロンが準備してくれたという朝食は、私の起床時間を見越して準備したものなのだろう。そして彼は、ノアの起床時間に合わせてまた食事を準備しなければならない。それではただの二度手間だ。

「ロン、昨日ちゃんと寝た?」

「1時間ほどは寝ました。」

やっぱり……。予想通りの事態が発生していた。そして私は覚悟を決める。

「私、ノアを起こしに行く。」

足を止めて、ロンにそう言った。すると彼も足を止め、私の方へ向き直る。

「それは構いませんが……。」

ロンは相変わらずの無表情で、

「迷子になりますよ。」

ごもっともな事実を私に突きつけてきた。ノアを起こしに行くと意気込んでいたはずだったのに、どこかショックに近い感情が私に降り掛かってくる。……ここはもう仕方がない。

「ごめん、ロン……、案内して……。」

いつもよりもかなり小さくなった声で、私はロンにお願いをした。

「かしこまりました。」

彼は全く表情を変えず、私のお願いを受け入れてくれる。私たちはまた廊下を歩き始めた。歩いていると、私の調子もだんだんともとに戻ってくる。

途中にあった大きな窓から、綺麗に剪定された真っ赤な薔薇が広がる中庭が見えた。……恐らく、私が昨晩いた場所だ。

「ねえ、この屋敷の外ってどんな感じなの?」

ふと気になって、ロンに問いかけてみた。

「街があります。」

……それはなんとなく想像がつく。もう少し具体的に教えて欲しい。そんな私の思いが通じたのか、ロンは再度口を開いた。

「エマ様はお名前から察するに日本人でしょうから、伝わるかどうかは怪しいところですが……。この世界の街並みを人間界で例えるなら、ひと昔前のイギリスの街並みが最も近いかと思われます。」

「なるほど。」

今度は具体的な回答が返ってきたので、私も納得する。ひと昔前のイギリス……日本人の私でもなんとなくなら想像できなくもない。この屋敷が貴族の住む洋館のような造りであることからもイメージしやすい。……あれ?ちょっと待って。ロンはどうしてこんなに人間界のことを知っているのだろう。

「ねえ……。」

「着きました。」

私の声は、そのロンの一声に掻き消される。どうやら今は聞くべきタイミングではないらしい。

「私はノア様が起きられた場合に備え、再度朝食の準備をして参ります。」

「わかった。」

最優先事項はノアを起こすこと。ふぅ……と小さく息を吐いて、私はノアの部屋の扉の前に立った。軽くノックをしてみたが、返事はない。わかっていた。わかってはいたけれど、予想通りすぎて逆に腹が立つ。声をかけたところで無意味だろうと判断し、私は何も言わずに扉を開け、部屋の中へと入った。部屋の中にはもう一つ扉があって、恐らくその向こう側が寝室だろう。何の躊躇いもなしに、私はその扉も開けて、寝室に突入する。寝室の奥にあるベッドの上でノアは静かに寝ているけれど、お構いなしに私は部屋のカーテンを開ける。

「んん……眩しい、。」

陽の光は効果覿面だった。私は今度はノアが寝ているベッドの上に座って、彼の体を軽く揺さぶってみる。

「ノア、起きて。」

声をかけると、彼はゆっくりと目を開けた。サファイアブルーの綺麗な瞳が私を見据える。しかし、彼が私に放ったのは、

「ロッティ……。」

私ではない誰かの名前だった。いつまで寝ぼけているつもりだ。

「誰と勘違いしてるの。私はエマ。」

ノアの肩を軽く叩いて、そう言った。すると、彼は一気に目が覚めたようで、あの妖艶な笑みを浮かべて私を見つめてくる。

「エマ、なんで俺の部屋にいるの?一緒に寝たくなった?」

「違う。その逆……って、ちょっと……!」

ノアが私の腕を引いて、私の体ごと全部を自分の腕の中に収めようとしてくる……が、私はそれを渾身の力で拒否し続ける。

「私はノアを起こしに来たの!」

その言葉を聞いた瞬間、ノアが怪訝そうな顔をした。私の腕を引いていた力も弱まり、私はとりあえず解放される。

「えー……まだ朝だよ?まだ眠たい。」

「もう朝なの。」

まるで子どもが駄々をこねるところを見ている気分だ。さっきまで私に振りまいていた妖艶さも色気も、どこへ消えたのやら。

「ロンから聞かなかった?俺が昼夜逆転してるって話。」

「聞いたよ。聞いたから起こしに来たの。昼夜逆転は無理やりにでも起きていれば治る。」

「荒治療だなあ。」

ノアは眠たそうにあくびをする。起きようとする意思はまるで感じられない。

「中庭の薔薇、綺麗だったよ。朝食食べたら、一緒に行こう?」

なんとか口実をつけて、彼をベッドから出させようとするも、

「俺、屋敷の外にはほとんど出ないよ。」

そんな言葉で一蹴される。昼夜逆転してる夜行性な上に、引きこもり……?一体なぜこいつが魔界の王子なのだろうか。

「あんなに綺麗なのに、もったいない……。」

「窓から見える景色で十分だよ。」

この様子だと、どうやら引きこもりの方は治すのに時間がかかりそうだ。これは徐々に慣れていってもらうしかない。でも、昼夜逆転はどうにかしてすぐにでも治してもらいたい。

「……じゃあ、せめて起きてよ。一緒に住んでいるのに生活リズムが一致しないなんて、寂しいじゃない。」

「寂しい?」

彼は少し考え込んでから、今までの言動が嘘だったかのように、ゆっくりと体を起こした。

「エマが寂しいって言うなら仕方ない。起きるよ。」

そう言って、ベッドから降りる彼。さっきまでの怪訝そうな表情が今はもうない。正直、もう少し手こずるかと思っていたけれど、意外にも彼は私の言うことを聞き入れてくれたようだ。

「エマ、先に行ってて。」

「私が部屋を出た後、また寝たりしない?」

ノアはふふっと笑う。

「しないよ。それとも俺のこと見張っとく?生着替え見たい?」

「っ、……部屋の外で待ってるからね!」

慌てて私はノアの部屋を後にした。完全にノアに弄ばれている気がする。はぁ……と、小さな溜め息をついて部屋の外で待っていると、そこへロンが戻ってきた。朝食の準備ができたのだろう。仕事が早い。

「エマ様、ご無事で何よりです。」

……私はこの言葉をどう捉えれば良いのだろう。よくわからないまま私は彼に「ありがとう。」と返していた。それが適切な返答だったのかどうかもよくわからない。

「ノア様のご様子はいかがでしたか?」

「ノアは着替えたら来るって。それまでここで待つ。」

「かしこまりました。」

ロンはなんでも受け入れる。きっと、このなんでも受け入れてしまうところが、ノアの昼夜逆転にも引きこもりにも繋がったのだろう。でもロンは、ノアの昼夜逆転生活はここ1年ほどの話だと言っていた。憶測でしかないけれど、その1年前に何かきっかけとなる出来事があったのかもしれない。……いや、これはただの憶測だ。憶測は憶測で留めておこう。昨日知り合ったばかりの私が、詮索していいことではないような気がする。それに、私も詮索されるのは苦手だ。そんなことを考えていると、部屋の扉が開いた。

「お待たせ。」

ノアがそう言って笑顔を浮かべる。

「ノア様、おはようございます。」

ロンの言葉にノアも「おはよう~。」と返すが、軽いあくびが混じった声だった。

「朝食の準備が整っております。お二方ご一緒に参りましょう。」

私たちは廊下を歩き出す。私はなんだか朝食の前に既にひと仕事終えた気分だ。なんだか疲れが押し寄せてきている。

「エマ~、明日からも毎日、俺のこと起こしに来てよ。」

「……ん?」

今日の疲労感を、明日から毎日……?本気で言ってる?

「自分で起きるっていう選択肢は……。」

「エマが起こしに来てくれるなら、ちゃんと朝起きるよ。」

何その交換条件……。私が受け入れることしかできないような条件で言ってくるから余計にたちが悪い。

「私が”嫌”って言えないのわかってて、言ってるでしょ。」

「さあ?どうだか。」

クスッと笑うその仕草が艶めかしい。

「あーもう、わかった。起こしに行くよ。」

私の完敗が決定したと同時に、ロンが足を止めた。

「到着いたしました。お席へどうぞ。」

開けられた扉の向こうには、きらびやかなテーブルと椅子がセッティングされている。私とノアは、その大きなテーブルを挟むように椅子に座った。出てきた朝食は、トースト、スクランブルエッグ、サラダ、オニオンスープ……など、いかにも朝食らしいラインナップ。魔界の料理ってどんな感じなのだろうと心配していた部分もあったので、これで一安心できた。そして、どれも美味しい。これら全部をロン一人で作ったというのだから、凄すぎる。

「そういえばさ、エマってなんで英語話せるの?」

トーストをかじりながら、ノアはそんなことを聞いてくる。物凄く今更な質問だ。英語を話せていなかったら、私はここまでスムーズにノアやロンと会話できていなかっただろうに。

「亡くなった祖父がイギリス人だったの。だから小さい頃から英語も教えられてきた。」

私はノアの質問に、そう答えた。

「へえ……。イギリスなら俺もギリギリ知ってる。」

ギリギリ……、まあ、人間界のことを熟知している方が逆に凄いけれど。そんなことを考えていると、ノアは再度口を開いた。

「魔界ってさ、人間界で言う”国”がないんだよね。だから国同士の戦争とかは起きないんだ。逆に、魔界自体が1つの国だと捉えることもできる。言語も文化も、統一されているからね。」

ノアの話に、「なるほど。」と、納得する。でも、それと同時に、また違う疑問がでてきてしまう。なぜ魔界の言語が英語なのか。そもそも、なぜ魔界という世界ができたのか。疑問は尽きない。

「私、知りたいことがいっぱいある……。」

心の内に留めておくつもりだった思いは、言葉になって声に表れていた。そんな私の様子を見たノアが、ふっと妖艶な笑みを浮かべる。

「朝食を終えたら、いい場所に連れて行ってあげるよ。」

「いい場所?」

「うん。勉強熱心なエマにはぴったりの場所。」

そう言って、ノアはスープを一口、口に運ぶのだった。

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