第八話 ラベンダー

 その晩、磐田透いわたとおるは煙草を吸うためにベランダに出た。狭いアパートのベランダなので、サンダルを履いて外に出ると下の階や左右の部屋も明かりがついていてよく見える。


 ふと、下から声が聞こえた。

(下の階に誰か越してきたのか)

 下の階はしばらく空き部屋だった。


「ふざけるんじゃねぇよ!」

「何やってんだ! あー! 苛つくんだよ!」

「黙れ! 謝って許されると思うなよ!」

「お前なんかいらねぇよ!」

「出ていけー!」


 ガラッと音がしたかと思うと下の階のベランダに女の子が放り出された。背中を柵に打ち付けたようでドスンっという音が響いたあと泣き声が聞こえた。


「ごめんなさい! 入れて! ママ入れて!」

「近所迷惑になるから黙ってろ!」


 女の子は、シクシクと泣いている。透が煙草を缶に入れるときに僅かな音が響き、女の子が上を見上げて一瞬目が合った。女の子は嘘泣きをしていたのか、乾いた目をしている。

 透は部屋に戻ると警察に電話した。


* * * * * 


 それからしばらくした日の土曜日の夕方。知らない人が透の部屋のインターホンを押しているのをモニターで確認した。

ショートカットの若くて可愛らしい女性だ。


「こんにちは。突然すみません。引っ越してきたのでご挨拶に伺いました」

「今出ます」


 ドアを開けると透は目を見張った。女性の隣にはあの晩ベランダに放り出された女の子がいる。ロングヘアーで黄色い花柄のワンピースを着てこちらを伺うように見つめている。幼稚園生くらいだろうか。


「下に越してきました、真宮まみやです。よろしくお願いします」


 女性は紫のラベンダーの花が描かれた封筒を渡してきた。


「商品券なのですが……」

「……わざわざ、すみません。ありがとうございます」

「子どもがいるので……うるさくしないよう気をつけますね」

「え……いえ……大丈夫ですよ。お気になさらずに」


 透は何とか笑顔を取り繕ってお辞儀をした。玄関のドアを閉めようたした直前に去っていく女の子の声が聞こえた。


「あの人だよ」


 透は青ざめた。


 ラベンダーの花言葉 「不信感・疑惑」

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