第2話 夕暮れのコーヒーと任命式

 翌日の441号室。


「なら、これにサインして」


 目の前には入会届がある。俺は七海さんの言う通り、その書類に署名した。

「これで君は正式に散策研究会の一員だ。おめでとう、なのかはわからないけど……」

「まあ気楽そうですし」

「気楽なんてもんじゃないよ、もう来なくてもいいし、なんなら来ると思ってなかったよ。あ、そういえば君が誰か亡霊を連れてきてもいいんだよ」


 七海さんの演技的な話し方はエスカレートし、手振りまで付加されていた。


「亡霊って言ったらもう幽霊部員ですらないんじゃ……」

「そうなったら心霊研究会にしたって私はかまわないんだよ」

「そしたら辞めますよ、俺」

「それでもいいよ、この研究会が来年か今年で終わりってだけだもの」

「はあ……」

「しかしなんで入会してくれたの?」


 七海さんは紅茶を片手に問いかける。


「まあ、帰りが遅くなっても、部活って言えば家に言い訳つくんで。ただでさえ家が遠いから」

「なるほどね」

「七海さんは?」

「まあ、似たようなものだけども。この街がいつからあるか知ってる?」

「あまり知らないですね。初めて来た土地なんで」


 美夕は立ち上がって窓際に寄りかかった。


「西浜って、明治時代の時点で都会だったのよ。で、いろいろ古い店とかがあって、なかなか面白い街なの」

「はぁ」

「で、この部活、誰が作ったのかわからないけど、とにかく活動内容があいまいでしょう」

「ですね。近所を散歩するだけって、なんで同好会と認められたんですかね」

「まあ同好会は学校から部費でないし。で、こんな曖昧な会なら、どんな寄り道しても会の活動ってことになるから。一応寄り道はダメだってルールあるでしょ?そういう馬鹿らしいルールを堂々と無視できるのって、魅力的じゃない?」

「ですかねえ」


 教師たちもさすがにそういうことをうるさく言ってはこないだろう、と思いながら、紅茶を飲む。


「それで二つ上の先輩たちからこの会を引き継いで残してるってわけ」


 そう言って七海さんは窓の外を見る。


「今日は天気よくなったね。晴れ渡って遠くまで見渡せる」


 ここ数日曇りがちだった空には、久々に太陽が輝く。彼女は夕陽を背にこちらに向き直って言った。


「散策研究会、今年度第一回の活動に出ましょう」



 西浜高校の生徒たちの多くは、最寄り駅からおよそ2kmの道のりを、バスで通う。このバスは朝と放課後には当然大混雑となるので、それを嫌う一部の生徒は、30分の徒歩で登校するらしい。


「で、辰巳くんは歩いたことある?」

「ないですよ」

「でしょうね。バス通りを外れるとなかなか面白いものがあるのだけど、そう多くの人が知ってるわけじゃない」


 西浜高校から10分ほど歩くと、おおよそ碁盤の目状に作られた西浜の市街地に入る。しかしこの碁盤は、街を貫く川によって分断される。


「とりあえずこの川沿いに歩いてみましょう」


 七海さんについていき、川沿いの道を歩く。両岸に沿った歩道は石畳になっているが、その歩道に一定間隔で並んだ木々のそのさらに外側は普通のアスファルトだ。


「ここは桜並木なんだけど、今年はもう桜が終わっちゃったのよね」


 七海さんが足元の花びらに目を落として言う。もうほとんど花は散ってしまった。


「大体三月末とかですよね、この辺は。入学で桜のイメージはあまりないですね」

「入試ではよくあるね。電報で『サクラサク』とか『サクラチル』とか言うでしょ」

「あー……」


 思わず曖昧なうめき声を返す。少なくともいい表情はできていないだろうと思い、顔をそむける。

 七海さんも反応の悪さに気づいたようで、少し気まずい空気が流れる。このことはいずれ話せばいいだろうし、どうせそういうことにはなるだろう。


「まあ、この街は季節を感じるにはいいところだよ。雪はあまり降らないけれどね」


 七海さんは露骨に話題を変えた。俺も話を続けたくはないので、流れに乗ることにした。


「自然豊か、って感じでもないですけど」

「他の大通りが銀杏並木になってたりするんだよ。そしてこの川をあと1時間も下っていけば海岸の公園なんだ。まだ季節が合わないけど、もう少しすると砂浜から夕陽がきれいに見える」

「一時間歩くんですか?」

「すぐだよ、音楽聴いたり、飲み物飲んだりしながら歩いたら。まして人と喋ってたら一瞬なんじゃないかな」


 何事でもないかのように言うが、よほど歩くのが好きでないとちょっと大変じゃないだろうか。


「駅までバスもあるから、どうしても疲れたら乗ればいいし」

「ああ、なら楽ですね」


 夕方の気配を漂わせながらも、まだ青紫色の空が枝の間に見える。俺たちからはかなり下にある川面はあまり透明ではないが、路上と同じく桜の花びらを浮かべて流れる。川が右に蛇行する地点に着くと、俺と七海さんのいる左側の道は、公園の中に入る。


「ときに、君はコーヒーと紅茶だったらどっちが好きなの?」


不意に七海さんに問われる。


「あまりこだわりはないですね。朝はコーヒーだけども、それ以外は気分次第で」

「なるほど。部室では紅茶ばかりだから、どうなんだろうと思って」

「七海さんが淹れてくれるお茶、おいしいですよ。いつもやらせちゃって申し訳ないくらいです」


 実際、七海さんのお茶は美味い。というか、なぜか器具が充実していて、高校の部室で淹れる紅茶としては規格外だろう。それを問うと、器具類は自分で持ち込んだという。


「まあ、喜んでくれてるならよかった」


 いつもより少し高いトーンで言う。


「いや、そこにキッチンカーがいるから思い出しちゃって。コーヒーでも飲もうよ」



 キッチンカーでコーヒーを買って、近くのベンチに座る。そこで奢る奢らないでひと悶着あったりしたが、自分のものを自分で買うことで落ち着いた。

 川を望む木陰のベンチからは、川の両岸の桜並木が見える。この公園は、桜のシーズンには花見客で賑わうのだろう。滑り台やらブランコやらで遊ぶ子供たちの歓声が少し遠くから聞こえる。二重構造の紙カップの飲み口を開けると、濃厚な香りが漂う。一口呑むと酸味と苦みが絶妙だ。このキッチンカーはいつ来るのだろう、あとで聞いておこう。そう考えながらプラスチックの蓋を開ける。


「辰巳君の家ってどこなの?」


 すでにミルクを混ぜたコーヒーを片手に、七海さんに問われる。コーヒーの香りが残る風に髪が妖しく揺られ、俺はなぜか手元のミルクポーションに視線を逃がす。


「JRで一時間半くらい行ったところです。東の方から来てます」

「一時間半!?都心の向こう側だよね?」


 信じられない、と言わんばかりの七海さんだが、無理もない。同級生にもそんな遠くから来るやつはいないようだし、駅名を言ってもほとんど誰にも通じなかった。ミルクが褐色の液体の中を不思議に漂うのを眺めながら答える。


「そうです。県境を二回跨ぐんで、毎日小旅行ですよ。駅に行く時間とか考えると、片道二時間くらいですかね」

「合計したら一週間のうち一日移動で潰れてるじゃない。私じゃ耐えられないわ」


 今どき土曜授業のある西浜高校であるから、言われてみればちょうど24時間通学に費やすことになる。


「まあ私も実家は遠いのだけどね。だから一人暮らし」

「へえ、すごいですね、高校生で一人暮らしって、大変でしょう」

「親戚がこっちにいるから、こっちで暮らしてみたいって言ったらみんな助けてくれるの」


 親戚がいるからって、高校生から遠くで一人暮らしをしようというのは、かなり珍しい部類だろう。まあ、七海さんは少し変わった人だから、と納得できた。


「なんならこれから遊びにくる?」

「いや、それはまずいんじゃないですかね」

「別に寮やなんかじゃあるまいし、よそ者を入れちゃいけないなんてことないもの」

「そういうことじゃなくて」

「なに、いやらしいことでもしようっての?そんなイメージなかったけどなあ」

「んなことでかい声で言わんでくださいよ」


 子供たちを見守りつつ立ち話をする母親たちの視線が刺してくるが、七海さんは素知らぬ顔でカップを口元に運ぶ。子供たちの一人が転んでしまったようで、彼女らの意識もそちらに向かう。


「俺がどうとかじゃなくて、危ないですよ、そんな無防備に」

「いや、今まで何人か来て何も起きてないからさ」

「えっ」

「まあみんな女の子だけども」


 それじゃ参考にならないだろう。七海さんは変わった人だが、少なくとも見た目に美人だ。男はみな狼だと言うではないか。

 さっき転んだ子供は、自力で立ち上がって、そんなことは忘れたかのようにまた走り出す。強い子だ。


「というか、私が一人暮らしだと知ってる人はそんなにいないんだよね、特に男子はいないんじゃないかな」

「そうなんですか」

「あまり話してないと思う。別に口止めしてるわけじゃないから、誰かに言っても構わないよ」


 別に秘密というわけではないようだが、ごく少数の人にしか知らせていないことを、俺に教えてくれたのが少しうれしくて。苦みを中和したコーヒーが一段とうまく感じられる。


「いや、たぶん、誰にも言いませんよ、俺は」

「別にいいってば」


 笑いながらそう言う七海さんは、こう付け足す。


「それに副会長には会長の事情くらい知っていてもらったほうが楽だからね」

「副会長?」


 初耳だ。


「まあ一応副会長はいるんだけど、ある程度参加してくれるであろう会員が来たんだから、副会長はそっちに移したほうがいいでしょう。いざという時、事情を知らない人よりは知ってるほうがいい。いいよね、辰巳くん?」

「ええ、いいですよ」


 俺も笑顔で答える。散策研究会は、自宅から50キロ離れた、心から安らげる場所であるようだ、と思えた。

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