優しい人。

綿島二千華

――


 私は一人海を見ていた。側には誰もいない、私を知る人は誰一人いないんだ。防波堤に腰掛けて一人、何をするでもなく海を眺める。海風がひらひらと私のスカートをめくりあげるも、それを見る人だっていやしない。気にもならない。


 沢山の過ちを犯した、それなのにあの人達は許してくれた。

 まるで何も無かったみたいに、あの人達は私に接してきたんだ。


 一歩間違えれば命を奪っていた、それぐらいの事をしたのに。何もかもを許すって、ふざけた話よ。思わず魅力に負けて馬鹿になっちゃうとこだったじゃない。


 そんなお砂糖の塊みたいな甘い場所にいたら、きっと私はまた間違えてしまう。私はコーヒーの上で鈍く光る油膜の様な存在なんだ。どんなに混ぜても永遠に混ざらない。むしろ弾いてしまって、誰も近づいて来なくなってしまって。

 

 結局、私はあの人達から逃げてきた。きっと私の一生はずっと逃げなんだと思う。

 怖いものから逃げて、責任から逃げて、人から逃げて。

 

「……さてと、お家に帰ろうかな」


 私の逃げた先は海の見える平屋の一軒家。高校があった街から飛行機で一時間、京太郎さんと一緒に住んでいた町からでも同じぐらい時間がかかる。人との関係を全て断ち切りたかった、私の過去を知る人の全てを消し去りたかった。


 私は、武大さんをこの手で刺してしまった極悪人だ。その罪は一生消える事はないし、私を見るだけでその事を思い出してしまう人達だって沢山いることだろう。街に住んでいた時は、生きた心地がしなかった。常に誰かに見張られてる感じがして、何もない空間に怯えて。


 海風に晒されながら何十年と経過した私の家は、すりガラスがはめ込まれた木製の扉を横にスライドさせるだけでも、ギシギシと音を立てる程に劣化していて。あの有名な映画の、黒くて丸いお化けが出てくる姉妹が住む家よりも酷いかもしれない。


 お金が無いんだ、背に腹はかえられない。利便性は街に住んでいた時よりも遥かに悪くなったけど、精神的には今の方が全然いい。だって、誰も私の事を知らないんだから。ここでなら私は笑顔になる事ができる。ここでなら眠る事ができる。


 どんなに田舎でも、人が住む以上電波が届く。これはとてもありがたいことだ。仕事もスマホがあれば出来るし、買い物だって今はこれだけで何とかなる。車の免許を取らなかった事が唯一の失敗だったかな、どこに行くにも全部遠くて。家を決めた時は、とにかくどこでも良かったって思ってたから、しょうがないんだけど。


「……あれ、雨か」


 トントンとリズミカルに屋根を叩く雨音が耳に入る。引っ越して直ぐの時は雨漏りが心配だったけど、流石にそこまでじゃなかった。でも、台風とか直撃したら屋根ごと飛んで行っちゃうかもしれないな……そんな事を考えながら、一人レトルトのご飯と缶詰を開ける。 


 あの事件から三年。たまにネットのニュースで武大さんや巴絵さんの名前を見かけたりもするけど、以前の様な腹立たしい気持ちは全く湧いてこない。おかしな話だけど、あの時の裁判費用から治療費まで、結局被害者である武大さんが支払ってしまったのだから、私の罪はまだ何も裁かれていないに等しい。


 今一人でいること、これが私に与えられた罰なのかもしれないけど。

 これだって自分で選んだだけのこと、逃げただけだ。


「……っ、ん、もう。動かないなぁ、この雨戸」


 本降りになる前に閉めたかったのだけど、どうやっても雨戸が閉まらない。晴れてる日に業者に見て貰えば良かった、これじゃ隙間から雨風が入ってきちゃう。


 隙間をガムテープで塞いだ掃き出し窓が、強風でバリバリ音を立てて揺れている。この家は平屋でボロだけど、部屋数だけは五つもある。窓から一番遠い部屋に布団を敷いて、豪雨を子守歌に眠りについた。


 最近は夢を見る事もない。夢なんて見る資格もないんだ。子供の頃に何かに憧れてた気もするけど、今の私には何もない。誰もいない。


 はたはたと頬を伝う涙に気付き、布団の中で目を覚ます。


 学生時代から何かに怯えて、保身の為に嘘をついて。自分で自分をどんどん矮小な存在へと追いやっているとも気付かずに、私は人の顔色だけを伺いながら生きて来たんだ。それが何の意味も無い事に、今になってようやく気付く。


 布団の中で小さく丸まりながら、一人枕を濡らす。

 誰かに認めて欲しかった、人を愛したかった、人に愛されたかった。


 難しい事ではないと人は言うかもしれない。だけど、私には人生を賭けても出来なかったとても難しいことなんだ。もう二十七歳、すぐに三十歳を迎えるのに、私は何も出来ていない。やろうともしていない。


 気づけば耳に入る雨音が消え、私は枕から離れて起き上がる。


 寝間着のまま、すっぴんのまま玄関へと向かい、カラカラと戸を開けると、そこには大きな月が私を見て微笑んでいた。あまりの大きさに少しびっくりした位だけど、気持ちは静かに、平静に。


 そのまま昼間の様に海へと向かうと、いくつかの漁船が沖へと出ていくところだった。誰も私に気付きもしない、皆一生懸命に生きていて、声を出して働いていて。


 何もせずに生きている私は、果たして生きていると言えるのかな。

 防波堤を降りて、砂浜を歩き、波へと足を入れる。


 このまま海の中へ入り楽になれたらどれだけいいことか。さざ波の音が耳に優しくて、きらめく水面が私の手を引いているみたいで。だけど、私にはそんな勇気もない。痛いのも、苦しいのも嫌なんだ。


 きっと私はこのままずっと一人だ。被害者面する事の方が間違っている。

 因果応報、自業自得、全ては私の行動した結果だ。


 砂浜に戻り、膝を抱えながら座る。いつしかぼんやりと水平線に色が付き、東雲へと染まっていく。満天が姿を消し、また今日という一日が始まるんだ。

 

 私の今に、意味なんて無いのだと思う。

 悠久の時を一人で過ごす、これが私に与えられた罰だ。


 だから、私は一人じゃないといけない。

 一人じゃないと、私はまたきっと誰かを傷つけてしまうのに。


 一体どうやって知ったんだろう。分からない、何でかな。

 私を見て何か言っている人影に対して、一筋の涙を流しながら、私は呟く。

 

 「馬鹿ね」って。


――

「エピローグ」本日20時投稿

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