私の知らなかった嘘、初めて抱いた殺意。

八子巴絵

――


 その女の人は、私を見てにこやかに手を差し出してきた。冷えますよ、そう言いながら私を見る目は、どこか勝ち誇った様に見えてしまって、とても腹が立つ。


 京太郎とこの女の人の関係は、きっとそういう関係なのだろう。彼が持つドラッグストアの店名が書かれた袋の中に、黒い袋が見える。あれは、多分コンドームか何かだ。京太郎君は、もうこの女に穢されてしまったのかな。


 妄想が、感情を揺さぶる。京太郎君の全部が欲しかった。ずっと私の側に居て欲しかった。頑張っても頑張っても京太郎君はどんどん離れていくばかりで。何が足りなかったの、どうすれば良かったの。なんで貴方は微笑んでくれなかったの。


 なんで今の貴方は、化け物を見るような目で私を見るの。


 耐えられないよ、私にはもう何もかも耐えられないよ。倫理とか道義とかモラルとか、全部いらない、全部知らない。私は、私は京太郎君の事が好きだ。


 この女の人にした事は、私も全部味わいたいよ。どんなキスをしたの? どんな場所でしたの? なんど愛を囁きあって、何度二人は一つになったの。


 ごめんねと一言謝ってから、私は京太郎君を襲った。彼の唇はとても温かくて、柔らかくて。奥歯を舐めると少し甘くて、舌先は少しざらっとしていて、歯の裏側は治療の後があって、歯茎は粘ついて、それでも甘くて。


 私は、京太郎君の全てが愛おしい。京太郎君の事ならどこだって舐めれる。綺麗だし、良い匂いしかしないし。馬鹿だな、私、もっと早くこうすれば良かった。


「な、何をしてるんですか!」


 名も知らぬ女が私と京太郎君を引き離したけど、ダメ、もっと味わいたい。

 もう、これが最後かもしれないんだから、もっと楽しませて欲しい。


 こんな事をして京太郎君が私を許してくれるはずがない。貴女はもう十分楽しんだでしょ、何日も何十日も何百日も京太郎君の側に居たんでしょ。ズルイよ、私はその間ずっと一人で泣き続けてたのに。


 なんで私の周りには邪魔者しかいないの。なんで私の側に京太郎君がいないの。なんで? ねえなんで? 貴方はどうして、どうして……今も私を見て怯えているの。


 京太郎君は私の事を抑え込むと、それ以上は何も出来ないよう拘束する。

 それでも嬉しかった、だって、京太郎君が側にいるから。


 交わす言葉に意味なんてない。もう、言葉なんていらないよ。私は貴方が欲しかった。今、側にいれてとても幸せ、幸せだよ、京太郎君。


 知らない女が何か叫んでるけど、私の耳には何も聞こえない。私が聞こえるのは、京太郎君だけだから。ね、京太郎……もっと楽しいことしようよ。


「とりあえず、家に入ろう」


 抱きかかえられながら連れてかれたアパートの一室は、今現在の京太郎君が住む部屋だった。干してある洗濯物、洗い終わった食器。生活感のある彼の部屋は、失ってしまった彼の実家のあの部屋と雰囲気がとても似ていて。私は、ここにずっと居たいと願ってしまった。


 ここで京太郎君は日々を生きているんだ。近くに感じられる。とても近くに京太郎君がいる。来て良かった、全部捨てて良かった。そうじゃなかったら、きっとここに来られなかったから。


 近所を回ってくると言い、京太郎君は部屋を出る。


 目の前の女が睨んでくるけど、別に気にしない。それよりも、今しかないんだ。この部屋を全部覚えないと。もう、二度とこの部屋には入れないかもしれないんだから。


 ……何でかな、もっと側にいたいのに。私、何を間違えちゃったのかな。

 私はただ京太郎君が好きなだけだよ? これがそんなに悪い事だというの?


 じゃあ、なんでその女は京太郎君の横にいられるの? 私だって側にいたかったよ。ずっと頑張ってきたよ、なのに、どうして――。


「いま武大に連絡取ったから。アイツもう車の免許も取ってたんだね。あと一時間くらいで家に来るって言ってたから……それまで何か飲むかい? 買ってきたお茶とかならあるけど」


 戻って来た京太郎君が、武大って名前口にした。その名を耳にした途端に、急に全身が寒気を襲う。鳥肌が立って、あの忌まわしい高校生活最後の日を思い出す。


「武大なんかに、会いたくない。怖い、怖いよ京太郎……怖い、怖い……」


 震えが止まらない、落ち着かない。薬、飲まないとダメだ。

 

「トイレ、借りても……いい?」


「あ、うん、そこの扉開けたらすぐトイレだよ」


 京太郎君が笑顔で返事をしてくれた。それだけで少しだけ心が落ち着く。

 洗面所で向精神薬を口に含み、こくりと飲み干した。


 洋式トイレに腰掛けて、少しぼぉっとする頭をトイレの蓋に乗せ休ませる。


 京太郎君が住む家のトイレの壁は、どうやら薄いらしい。壁一枚向こうで二人が何をしているのかが、ほとんど聞こえてくる。


 目頭が熱を持ってきちゃった。仲良さそうにしている二人の声が聞こえれば聞こえてくるほど、私は嗚咽を殺しながら泣いた。


 もう、ずっと泣いてる。両親が精神科にも連れてってしまう程だ。多分、私の精神は壊れているのだと思う。京太郎君に依存しているのに、依存できなくて。


 代わりなんて誰もいない。私は京太郎君だけが欲しいのに。


 しばらくしてトイレから出ると、京太郎君はたどたどしく語り掛けてくれた。

 相変わらず私を見る時は、何か別の生き物を見るみたいに見るんだね。


 心が痛いよ。昔みたいに笑窪を作って笑って欲しいよ。

 何があったの、私達、どうするのが正解だったの。


「武大、着いたみたいだから。僕ちょっとお迎えに行ってくるね」


 終わりの時間は、思ったよりも早く来ちゃった。


 家に帰りたくない、武大に会いたくない、京太郎君と一緒にいたい。でも、そのどれもが出来ない、私には何も出来ない。全部を捨てても何も出来ない。

 

 もう、どうでもいい。

 どうでもいいんだ。


 真っ白な光、迫って来る黒い車。運転してるのは中年の男の人。

 ごめんなさい、迷惑をかけちゃうね。でも……お願いしま――――





「………………私ね、知らなかった。貴女が京太郎君の事を好きだったなんて。だって、ずっと武大君と一緒にいたじゃない。だから、私、嘘ついちゃったんだ。絶対その方が皆喜ぶと思ってたから。武大君と巴絵ちゃんが付き合ってるって……ごめんなさい。私の付いた嘘が、貴女をこんなにまで苦しめていたなんて……本当に知らなかった、ごめんなさい」


 全身が動かない中、意識だけが戻る。

 この声、これを語っているのはあの女か。


 重い瞼を持ち上げると、ぼやける視界の中、側にあの女が座っていて。

 私は、唯一動く視線だけを声の方に向けて、心の底から睨みつける。


 そして、意識が再度飛んだ。


――

次話「打ち明けた夜、悲しみと共に。」

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