全てから逃げる人、追いかける人。

氷鏡京太郎

――


 握っていた手を離すと、二千華は巴絵へと近づき「冷えますよ」と声を掛けた。十月になり、薄手の長袖の上に一枚羽織らないと凍えてしまう季節になったのに。


 巴絵の服装はそんなものを意図していないかのような、黒のノースリーブのワンピース一枚着ただけの、真夏に日傘と共に着るような服装だった。


 ごめんね、掠れるような一言を残すと、巴絵は二千華の手を取らずに僕に抱き着いてきて、強引に唇を奪う。それは、あの日教室で見た巴絵と武大のキスの様でもあり。突然すぎて、何の抵抗もできないまま、僕は巴絵を受け入れてしまった。


 そのまま地面に倒れ込んだ僕だったけど、巴絵は構い無しに覆いかぶさり、僕の頭を両手で押さえつけて口づけをする。何度も何度も何度も何度も、もう巴絵の唾で口の周りはべちゃべちゃだし、入りこんできた舌が僕の歯を忙し気に舐めてきて。


「な、何をしてるんですか!」


 叫びと共に二千華が巴絵を羽交い絞めにして僕から引きはがしたけど、いやらしく伸びた糸を美味しそうに舌なめずりし「離して」と、巴絵は二千華を振りほどいて再度僕に対して強引にキスをした。そして巴絵の手が僕の股間をまさぐってきたのに気づき、僕は巴絵の手を取りひっくり返る様にして、今度は逆に僕が巴絵を押し倒す形に。


「ごめんね私には京太郎君しかいないの。遅くなってごめんなさい。もっと早くこうすれば良かった、私、京太郎君にずっと褒めてもらいたかった。拍手して欲しかった、笑って欲しかった」


 押さえつけられた巴絵は、涙を流しながら早口で独白を始めた。


 握りしめて初めて気付いたけど、巴絵の両手は、繊細で調律された音を奏でていた巴絵の白魚の様な指は、血がにじむ包帯と絆創膏で痛々しいまでに傷つけられいて。


「巴絵、君は」


「京太郎、私は貴方の事が好き。小学生の頃からずっと愛してた。なのに、京太郎は、貴方はどんどん遠くに行っちゃって……。本当に愛してるの、誰よりも好きなの。京太郎のことを、私はずっと――」


 遅すぎるそれは、ずっと聞きたかった言葉だった。


 男二人女一人の関係だったし、いつかは終わりが来るものだと分かっていた。それは、僕の望む形ではないと知っていたんだ。


「京太郎、貴方の為に全部捨ててきたの。お願い、私を抱いて。私には貴方が必要なの……もう、全部何も無くなったよ? お願いだから、お願い……だから」


「ふざけないで! いきなり現れて何を言っているの! 貴女には武大君がいるでしょう!? 天才音楽家と天才格闘家、テレビでもネットでも週刊誌でも散々騒がれてたじゃない! なんで今更貴女が現れるのよ! なんで!?」


 巴絵の懇願に対して、二千華がヒステリックに叫ぶ。段々と騒ぎに気付いて近隣の人たちがざわつき始めたのに気付いた僕は、巴絵から離れ、二千華を抱き締め落ち着くよう促した。


「とりあえず、家に入ろう」


「この女も入れるの!? アタシは嫌よ!」


 二千華の叫び声に、巴絵は怯える様に反応する。


「二千華、そうも言えないだろう。彼女は親友の彼女さんなんだ……とりあえず、武大に連絡してみるよ」


 違う、違うと呻くようにしている巴絵を抱きかかえ家に入ると、静かにするよう巴絵に言い聞かせ、僕は単身近隣の人達に御迷惑をおかけしましたと謝罪して回った。


 警察沙汰になってしまっては、巴絵としてもきっと不味いはずだ。有名人はスキャンダル一発で芸能人人生が終わってしまう。一通りの謝罪が終わると、スマホを取り出し、僕は武大へと連絡を繋いだ。


 着信拒否設定にしていたから、武大からも拒否されているかと思ったけど。どうやらそうでは無かったらしく、三コールもしない内に武大は電話に出てくれた。


「巴絵の件か」


 僕がまだ何も言っていないのに、武大はいきなり開口一番こう言った。

 全てを知っている、当然ながらそう思った僕は、武大を問い詰める。


「何があったの? 巴絵は武大と付き合ってたんじゃなかったの?」


「……巴絵は、今どうしてる」


「とりあえず家にいるよ。二千華と一緒に……ああ、いま僕と付き合ってる女の子の名前ね。巴絵、錯乱しながら僕の事を愛しているって叫んでてさ。そんな訳ないのに……武大、喧嘩でもしたの? それに、あの手の怪我はどうしたのさ。あれじゃピアノを弾くのに影響しちゃうんじゃないの? 武大が巴絵を守らないとダメじゃないか」


 捲し立てる様に現状を伝えると、しばらくの沈黙の後、武大はため息をついた。


「……そうか、そんな事になってたのか……。二千華って、綿島二千華か?」


「あれ? 武大知ってるの? ……まぁ、知っててもおかしくないか。同じ高校だったからね。それよりも、今どこなのさ」


「ちょうど向かってるとこだよ。あと一時間ってとこだ」


「あれ、車? 電話大丈夫だった?」


「ハンズフリーだからな、平気だ。悪いがそのまま待っていてくれないか、俺が迎えに行くから。それと……ちょっと言わないといけない事があるから、そのまま三人で待っていて欲しい」


「何さ、別にいま言えばいいだろ」


「……顔を見て話しをした方が良い事もあるんだよ。じゃあ、また後でな」


 久しぶりに会話をした武大は、なんだか以前よりも大人びた感じがした。

 握っていたスマホを少し眺めたあと、僕は二人が待つ家へと向かう。


「ただいま」


 女子二人がいるとは思えないほど静まり返った部屋の中では、小さいテーブルを挟む様にして、二千華と巴絵の二人が正座しながら互いを睨み合っていた。


 二千華の側に僕が座ると、彼女はおもむろに手を握る。

 本当なら、もっと違う感じで手を繋げるかと思ったのに。


「いま武大に連絡取ったから。アイツもう車の免許も取ってたんだね。あと一時間くらいで家に来るって言ってたから……それまで何か飲むかい? 買ってきたお茶とかならあるけど」


「いいよ、京太郎、こんな奴に何かしなくても。いきなり京太郎を襲うとか、しかも私に対してごめんねって言ったよね? 私と京太郎がどういう関係か分かっててやったってことでしょ!?」


「二千華、落ち着いて」


 巴絵は借りてきた猫のように静かに二千華を見ていた。

 ただ、ちょっとだけ口が動いていて、何かを言っているようだったけど。


 針のむしろの様なこの空間が、いたたまれない程に苦しく感じる。

 僕の家なのに、まるで別の監獄か牢獄みたいだ。


「トイレ、借りても……いい?」


「あ、うん、そこの扉開けたらすぐトイレだよ」


 ゆっくりと立ち上がった巴絵がトイレへといなくなると、僕はふぅっと息を吐いた。心が休まらない、巴絵、どうしちゃったんだろう。――と思っていたらいきなり今度は二千華が僕の事を引っ張り、床に押し倒してきた。


 ついさっきまで巴絵にされていたみたいな、とても強引なキスだ。


「ちょ、二千華」


「ダメだもん、もう京太郎君は私のだから、絶対に渡さないもん」


「何だよそれ……僕は物じゃないぞ。それに、さっきの巴絵の言葉は錯乱状態だったからね。本心だとは思えないよ。多分、武大と喧嘩でもした八つ当たりみたいなものじゃないかな」


 寝転がりながら覆いかぶさる二千華の頭をぽんぽんと叩き、起き上がると今度は僕からキスをした。抱き締めながら、優しくついばむ様に、少し音を立てながら数回。


「……武大君が迎えに来るんでしょ」


「ああ、そう聞いてる」


「じゃあ、二人が帰ったら絶対今日しようね」


 二千華はドラッグストアの袋の中にあるコンドームを手に、僕を見る。

 わかったと伝え頭を撫でると、二千華は目を細めて喜んだ。


 確かに今日童貞を捨てるつもりではいたんだけど、なんだか、義務になっちゃったな。嬉しいような、何とも言えない様な。しばらくするとトイレから出てきた巴絵が僕達を見て、また床に座った。


「……あ、のさ」


 武大が来るまでの一時間、正確にはもう三十分は経過してるけど。この時間ずっと黙っているのも息苦しくて、僕は巴絵に話しかける。


「巴絵は、最近どうしてたの、かな。手とか怪我したみたいだけど、武大と何かあったの、かな? なんて……思ったんだけど」


 幼馴染と会話しているはずなのに、何だこの感じは。自分でもぎこちなさすぎて、話題が無さすぎて。あれ? 巴絵と僕ってこんな感じだったっけ?


 そんな僕を見て、巴絵は優し気に、だけど眉を下げながら口を開く。


「……最近は、家に閉じこもってた。手を怪我したのは、ピアノとか、音楽に関するもの全部捨てたから。だって、指が無ければピアノは弾けないでしょ」


「なんで、そんな事を。あれだけ頑張ってたじゃないか」


 この質問は、きっと愚問だ。答えをさっき巴絵は叫んでいたじゃないか。本当にくべき内容はこんななぁなぁな内容じゃない。巴絵がさっき泣き叫んでいた僕への想いだ。あんなの、高校生の時は全然気づかなかった。


「……私が、何でピアノを弾いていたのか……京太郎君、気付かなかった?」


「普通に、好きだからじゃなかったのか」


「違うよ。私は一度だって音楽が好きだって思った事はないよ。私はね、貴方が喜んでくれたから。京太郎君の笑顔が見たくて、凄いねって貴方に言われたくて、褒めて欲しくて……ただ、それだけの為に頑張ってたんだよ」


 ゆっくりと語る今の巴絵は、僕達が幼かった頃に見た笑顔の巴絵だった。

 高校に入ってからの僕は、巴絵と距離を取る様に徹していたのに。


 だって、巴絵と武大は付き合ってたんじゃなかったのか? 二千華がそう教えてくれたし、卒業式の時だって二人抱き合ってキスまでしてたじゃないか。


 それを口にしようとした時に、僕のスマホが武大の到着を知らせる。

 相当飛ばしてきたんじゃないのかな、予定よりも三十分近く早いぞ。


 色々と聞きたい所だったけど、今は武大を出迎えに行かないと。


「武大、着いたみたいだから。僕ちょっとお迎えに行ってくるね」


 僕が席を立ち玄関の扉を開けたその時だった。

 巴絵が僕を突き飛ばし、勢いよく外へと飛び出していったのは。


 巴絵? と、聞くことも出来ずに、外に車を停めた武大も突然の事に何の反応も出来ないまま……彼女は家を飛び出し、近くの公道まで駆けて行き、そして。


「巴絵!」


 僕の叫び声と車のクラクションが鳴り響く夜の街で。

 巴絵は乗用車に弾かれ宙を舞い、路上に倒れ込んだ。 


――

次話「私の知らなかった嘘、初めて抱いた殺意」

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