無謀の果てにあるものは。

降矢武大

――


「……あの日、結局巴絵はピアノを弾かなかった。聞かせたい人がいないって言ってな。いろんな先生達も集まってたのに、巴絵はお前の為に全てを捨てたんだよ。巴絵が人生を賭けて積み上げてきたものを、お前が壊したんだ!」


 過去、一度だって俺が京太郎や巴絵に怒鳴った事なんてなかった。この怒りは巴絵の想いを反故にした京太郎への怒りでもあるし、京太郎へと巴絵の想いを伝えなかった俺自身への怒りだ。


 京太郎と別れた後、数度自分の顔を殴り、壁に頭突きをする。


 こんな事をして何が変わるでもない。明日から巴絵が俺の事を好きになる訳が無いし、京太郎が改心して巴絵に告白する訳でもない。何も変わらない、俺が出来る事も限られているし、どれだけ鍛えても、どれだけ叫んでも何も変わらないんだ。


 分かっていたけど、だけど、変わりたかった。変えたかった。

 

 それは、京太郎と巴絵が変わって欲しいという思いと。

 俺と巴絵の関係が変わって欲しいという身勝手な願い。


 俺はまだ、心の底から巴絵を諦める事が出来ていなかった。京太郎が何を考えているのか、巴絵の事を京太郎は一体どういう風に見ているのか。それを聞きもせずに、ただただ京太郎がいない事を良い事に、俺は巴絵に近づく。


 元々が幼馴染であり、妹の様なものなんだ。それに、俺から巴絵に告白はまだしていない。巴絵と俺の関係は、まだ何も変わっていないのだから。


「合格したよ。武大たけひろ君、ありがとう」


 関東最難関の音大合格発表の日。俺は発表の時間を迎えると、即座に巴絵に連絡した。恩師の推薦もあり、実力も実績もある巴絵が不合格になる未来なんて、誰もが想像しなかった。無論、それ相応に努力もしたのであろう、期待に応えるという事は、生半可な事では叶わぬものだ。


 巴絵はその日以降もたゆまぬ努力を続けた。そして俺はそれを延々と追いかけ、負けないよう努力もし続けて、巴絵の横に立っても何ら恥じる事の無い男になるべく邁進し続けた。

 

 巴絵がテレビの取材を受ければ、俺も雑誌のトップを飾り。巴絵が動画配信者と共に人気を博すれば、俺もプロ格闘家へと転身すると発表し世間を賑わせた。


 天才格闘家と天才音楽家。スキャンダルと言うよりも、もはや世間公認のカップリングだと言っても過言では無いほどに、俺と巴絵は進化し続けた。


 時折家の側で京太郎を見かける事もあったけど、もう、挨拶すらする事も無く。世界が変わったという事を、ただただ肌で感じるだけで、俺はそれにどこか満足してしまっていた。


 暇な時間なんてほとんどないのだけど、隙を見て俺は巴絵の家を訪ねる様になっていた。偶に週刊誌にすっぱ抜かれる事もあったけど、まだ未成年。そこまで話題になる事は無かった。


 俺と巴絵の両親の力が強大過ぎたというのもあるのだろう。


 巴絵の部屋で二人、昔のように会話をしていると、巴絵の節々にまだ京太郎を感じることがあった。以前着けていたロケットペンダントは外れているから、多分京太郎への想い自体は、昔と比べると霞んでいると思うのだけど。


 そこで俺は、プレゼントをする事を思い立った。


 当てつけの様な感じだけど、巴絵の胸元にいつまでも京太郎がいては気分が良くない。俺で上書きしてくれれば、それでいい。アイツとの関係は幼馴染、ただ、それだけなのだから。


 ありがとう、だけどごめんね。そう言うと、巴絵は俺からのプレゼントを引き出しの中にしまい、鍵を掛けた。毎日つけるものだったら、そんな所に仕舞わない。


 つまりはそう言う事なのだろうなと思いながらも、焦る必要もないかと思い。それを突っ込む様な無粋な真似はせずに、その日は巴絵の家を後にする。きっとこの後に輝かしい未来が待っている、そう信じて。


 卒業までの空白の時間。俺は一人、とある事を追求する様になっていた。

 二年の時に聞いた、俺が巴絵と付き合っているという噂の出所だ。


 女子の間では既に広がっていたというその噂が、もしかしたら巴絵と京太郎を離したのかもしれない。突き止めるのは簡単だった。綿島わたじま二千華にちかという女子が率先して言いふらしていたのだと、俺の取り巻きの一人が教えてくれた。


 長い髪をポニーテールにしているその女の子を呼び出すと、彼女は悪びれる事もなく、全ては俺と巴絵、二人の為だったと言い放つ。


 いつまでもくっつかない二人をくっつける為に、それを話題にしていたのだと。現に俺と巴絵はそうとしか見えなかったし、いずれ真実になる噂を流した所で、それほど大きな罪にはならないでしょ。それが二千華の言い分だった。


 結果として、二千華の言葉は巴絵を傷つける事となり、京太郎を俺達から離す事となったのだけど。俺は、それを責める事もせずに、ただ教えてくれてありがとうと言って彼女と別れた。


 今、俺と巴絵は公認のカップルになりつつある。巴絵の本心はまだ分からないけど。いつか二千華の言う通り、きっと俺に振り向いてくれる。


 俺に出来る事は、自分を磨き上げ、芸術の世界で活躍するであろう巴絵に恥じる事の無い男になる事だけだ。大学も無事合格した、それを巴絵も祝ってくれた。


 もう、残すところは……巴絵の中にいつまでも陽炎の様に残る京太郎への想い。

 奴への想いを完全に打ち消すだけ。そうすれば巴絵は完全に俺の彼女になる。


 卒業式、俺は一人巴絵の後を尾行した。人気者の巴絵は数々の生徒と別れを悲しみ、その後校内を一人で、何かを懐かしむ様に散策する。


 一人になった段階で声を掛けるべきだったのだけど。色々な物を懐かしむ巴絵はそれだけで絵になり、芸術の一つなんじゃないかって、不可侵のようなものを感じてしまっていた。

 

 ……違う、怖かったんだ。


 俺が告白する事で、これを巴絵が正式に断ってきたら、俺はそれまでの全てを失うことになる。もう巴絵の家に行くことも、二人でお喋りする事も。ましてや大学だって違うんだ、今まで以上に時間が取れなくなるのに、最後の最後に失敗なんてしたら、多分一生後悔することになる。


 勇気が無い、意外な自分の一面に驚愕するも、違うと心の中で一喝し、俺はその一歩を踏み出した。


 教室で席に座る巴絵に声を掛けて、さも当たり前の様に、まるで休憩時間の一コマの様に俺は巴絵の前に座り、少し呆けた彼女を見る。今の授業どうだった? 次の時間の忘れ物はないか? そんな言葉が脳裏をよぎるが、その言葉はもう使えない言葉だ。


 散々使ってきた言葉だったけど、そのどれもがもう使えなくなる。

 言葉を選ぶ、今の巴絵に必要な言葉を。


「京太郎……もう、昔に戻れないのかな」


 外の桜を見ながら呟いた巴絵の一言は、俺達の高校生活三年間が、小学生の頃から何も変わっていない事を明確にした。今もまだ巴絵の中に俺はいないし、京太郎が巴絵の中に居座っている。もう、何もかも違うのに。


 苛立つ気持ちを抑えながらも、泣きだした巴絵に対して優しい言葉を投げかける。


 変わらないのであれば、俺は今も巴絵のお兄ちゃんだ。優しく包み込んで、悲しみを少しだけ癒してあげる存在。根本的なものは何も変わらないけど、出来る事がこれしかない。俺じゃ、京太郎にはなれない。


「……ありがとう、武大」


「いいのか、本当に」


「……うん、もう、大丈夫」


 そのありがとうには、何の意味がある。

 その大丈夫の真意は、俺が喜ぶ内容なのか。


 すんすんと泣き続ける巴絵をそっと離すと、俺と京太郎の差って奴を嫌ってほど味わってしまう。劣等感? それは京太郎が負うべき業だ。俺はずっと努力してきた。兄として、二人の前を常に全速力で走って、人から、二人から誇れる存在として。


 だけど、きっと真意は違う。俺は巴絵に振り向いて欲しかった。

 幼馴染なんて言葉が、いつまでもどこまでも付きまとう。嫌いだ。


「おめでとう! 二人とも! 一年生の頃から全部聞いてた! 二人はずっと付き合ってたって! 僕も幼馴染として嬉しいよ! 本当におめでとう! お幸せに!」


 突然の言葉に驚く。一体いつからそこに居た。教室の入り口には両手を握りこぶしにした京太郎の姿があって。巴絵も京太郎に気付き震えていて。

 

 幼稚園から続いた腐れ縁、幼馴染という言葉の呪いの因果関係なのだろうか。

 卒業式の最後の日に、俺と京太郎、巴絵だけの時間が生まれるなんて。


「ち、違う、違うの、ねえ聞いて京太郎」


 一歩踏み出した巴絵を、俺の右腕が止める。行かしちゃダメだ、いま巴絵を行かせたら一生俺の所には戻って来なくなる。これは予感じゃない、確信だ。


 まだ、俺は告白すらしていない。挑戦者にすらなれていないんだ。

 

 それに、京太郎も言っていたじゃないか、おめでとうと。二千華が流した噂が京太郎を止めていた、それを悪だと思えなかった俺は、きっと卑怯者で、小賢しい男だ。


 小賢しいなら、卑怯なら、それを享受しよう。

 それが俺、降矢ふるや武大たけひろって人間なんだ。


「……いいや、違くなんかない、ありがとうな、京太郎」


 腕の中にいた巴絵を引き寄せて、左手で丸い形の整った後頭部を押さえつけて、俺は巴絵にキスをした。目は閉じなかった、巴絵を近くで見たかったから。


 巴絵も驚いた顔をして、次第に涙目になり、細く釣り上がっていく。


 叩かれもした、蹴られもした。必死に俺から逃げようとする巴絵を、俺は全力で抱きしめて逃がさない様にした。このキスは、きっと悪手なんだって分かる。だけど、これで巴絵の中にいつまでもいる京太郎が消し去れるんじゃないのかって。


「っ、離して! なんで、なんで!」


 口元を制服の袖で拭きながら、巴絵は俺に対して初めて怒鳴った。

 まだ分からないのか、一体いつまで巴絵は京太郎を追い続ける。


 あの男にそんなに魅力は無いだろう? 俺の方が全てにおいて上回っているはずだ。なのに、なんで。十年以上も巴絵を追い求めているのに、何で振り返ってくれないんだ。なんで俺を見る時は、そんな怖い顔ばっかりなんだ。


 ぎりっと歯を食いしばり、俺は生まれて初めて巴絵を怒鳴った。


「分かるだろ! もう俺達とアイツじゃ住む世界が違うんだ! 将来アイツはお荷物になる! 一般人と有名人とで釣り合うはずがないだろう!? 格差を毎日、今後アイツが死ぬまでの数十年味わうことになるんだ! それがどれだけアイツを苦しめるか、巴絵なら分かるはずだろ!」


 京太郎の事をお荷物だなんて思った事は一度もない。親友だったし、俺が将来どれだけ有名人になったとしても、京太郎との関係は変わらぬ不変のものだと思っていたのに。

 

 いつの間にか、何も持っていない京太郎が、一番大きい壁へと進化していた。

 どれだけ頑張っても超えられない、最大の壁として。


 走り去った巴絵を追いかける事が出来なかった。

 誰も居なくなった教室に一人、座り込む。


 間違ってない、俺は、間違ってないんだ。

 なのに、なんで俺の周りには誰もいない。


 親友も、幼馴染も、恋人も、誰一人として俺の周りには残らないんだ。 


「この前巴絵ちゃんにも聞かれたんだけどね、京太郎はちょっと遠い所に引っ越ししたんだ。車でも相当遠いところだから……一応住所は教えておくけど、遠いよ?」


 卒業してから数日経過し、雑誌の取材や動画配信、大会へ向けた体重調整やトレーニングで全然暇がない中、俺は合間を縫って京太郎の家を訪ねた。


 あの日以降、京太郎と連絡が取れない。無論、巴絵もだ。


 巴絵に関しては数度出かけているのを見かけた事がある。声も掛けたけど、俺を見る目は化け物を見た時の様に怯えていて。もう、無理なんだろうなって、そう思ってしまう程の拒否反応だった。


 京太郎にだけでも全てを伝えよう。俺と巴絵は付き合っていないし、二千華って女の流言飛語みたいなものだったんだって。


 本当なら、高校二年の時にすべきだった。だけど、その時の俺には出来なかった。


 もう遅いかもしれない。だけど、何も知らせないまま、俺達三人の関係が終わりを迎えるのは、本当に嫌だったから。結果として俺は二人から真の絶交を言い渡されるかもしれない……そこは卑怯者らしく、幼馴染って言葉に甘えようと思う。


 時間が経てば、京太郎と巴絵が結婚でもしてくれたら、俺は友人くらいにはなれるかもしれない。そんな身勝手な思いだったのだけど。


 京太郎は居なくなってしまっていた。


 そう、だよな。

 俺が逆の立場だったら、とてもじゃないが以前の様には接する事ができない。


 ボリボリと頭を掻き毟り、電柱に何度も頭突きをした。

 俺は、きっと取り返しのつかない事をしてしまったのだ。


「おひさ、ねえねえ武大君ってさ、八子やこ巴絵ともえちゃんって覚えてる?」


 その話を聞いたのは、大学のサークルコンパの時だ。暇つぶしに誘われた時にだけ参加していたその場で、俺は懐かしい名を耳にする。実に半年が経過し、季節は秋になろうとしているのに。


 あれから一度として二人と連絡は取っていない。取りようがないんだ。京太郎は遠方へと行ってしまったし、巴絵は完全に壁を作ってしまったし。


「あの子、大学辞めちゃったらしいよ? あれだけ頑張ってたピアノも辞めちゃったって聞いたし……勿体ないよね」


 自分の耳を疑った。巴絵が大学を辞める? 音楽を、止める? あんなに楽しそうにピアノを弾いていた巴絵が? そんなの有り得ない。


 後日、巴絵の両親に聞いたところ、最近の巴絵は何かに取り憑かれたかのように、今までの全てを壊して回っていたらしい。


 トロフィーも、家にあったピアノも、賞状も、何もかも、全部。


 大学も中退すると言い続け、それだけは親として防いだみたいだけど……。結果的に、巴絵はあんなに努力して合格した大学には行かないまま、既に数か月を経過しているのだとか。


 巴絵の両親は泣いていた。一体自分の娘に何があったのか、全然分からないと。

 精神科にも通わせたらしい、自律神経失調症と診断されたとか。


 だけど、俺には分かる。その原因は、間違いなくあの卒業式の日だ。


 数日後、巴絵の両親から連絡があった。彼女は貯金の全てを持ってどこかへと行ってしまい、丸一日経過した今も帰らないらしい。巴絵が行くところ? そんなの決まってる、京太郎の所だ。


 俺が行った所で、何が変わるとは思わないけど……これが、きっと最後だ。


 昔みたいに戻ろうとは思わない。だけど、二人の兄として、今までの過ちの全てを償いたいと思う。その思いを胸に、俺は京太郎の住む街へと向かった。


――

次話「幼馴染なんかに負けたくない。」

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