偽りのコッペリア⑦
1.酷く間抜けな後日談
「あ、ぐ……ふぅぅ……」
鉛のように圧し掛かる倦怠感、痺れ、軋みにも似た痛みに目を覚ます。
アーデルハイドは生まれたての小鹿よりもプルつきながらゆっくり動き始める。
仰向けで寝ていた――というより、気を失っていたから両手を突いて身体を起こしたのだが、その姿が実に小鹿さんであった。
「め、めがねぇ……めがねぇ……」
亡者のように手をばたつかせ、はたと気付く。
そう言えば姉妹喧嘩の最中にかち割られてしまったのだと。
「……う、魔法を使うのもしんどい…………」
予備の眼鏡を転移で手元に呼び寄せ装着。
ようやっと視界が開けた。
ヘッドボードに背を預けるように座り姿勢を安定させ息を吐く。
「……どうせなら、目覚めたその時に、あなたが隣に居れば良かったのに」
愛しい男の居ない寝台を眺め、ぽつりと呟く。
気絶する寸前に転移でバーレスクへ送り届けたからだ。
惜しいことをしたと思うが、あまりワガママを言うものでもない。
「…………無許可で外泊は、ね」
駄目で手間のかかる鈍亀だが、自分の方が年上なのだ。
流石に年下の男の子が自分のせいで叱られるのは避けたい。
とはいえ、胸に去来した寂しさは如何ともしがたかった。
「うへ、うへへへ」
己を慰めるように記憶を思い返す。
途端に、胸を苛んでいた寂しさは消え去った。
代わりに胸を満たす温かな感情に浸っていたアーデルハイドだが、
「――――ああ、これからどうしようかな」
ふと冷静になる。
愛する男との一生に一度の記憶も得難いものだが、別離の記憶もまた簡単には忘れ得ぬもの。
一夜明け、アンヘルと完全に決別した事実を少しは冷静に見つめられるようになっていた。
昨夜ほど混沌とした感情は渦巻いておらず、むしろどっかスッキリしている。
これはきっと、昨晩、彼が受け止めてくれたからだろう。
でも、
「寂しいなあ」
大切なものを失って、でも愛する人と出会うことができた。
プラマイゼロだとか収支ではプラス、なんて割り切れるような人間ではない。
寂しいものは寂しいのだ。
けど、涙は零れない。このことで流す涙はもう、全部流してしまったから。
だから今あるのは胸に穴が開いたような虚無感にも似た寂寥。
「どうしようかな」
再度、呟く。
今、自分は完全に宙ぶらりんになってしまっている。
自らを殺し、擬似人格を植え付けてからは公共の利益のためだけに身を捧げていた。
今考えてみれば償いと呼ぶのもおこがましい行為だ。
「素の自分でもう一度、やってみる? いや、ないわね」
自分は正義感や義憤に満ち溢れた性格ではない。
独り善がりで視野の狭い、馬鹿な小娘に正義の味方は荷が重過ぎるだろう。
「じゃあ皇族としての勤めを……」
十年前の一件で、自分の立場は酷く複雑なものとなった。
何なら皇族としての籍を剥奪されていてもおかしくはなかったのだ。
だが皇帝の温情により、そうはならなかった。
アンヘルの問題が解決した今なら皇族として本流に戻ることも可能だろう。
というか、皇帝はそうするつもりで自分を帝都に呼び戻した節がある。
だが、
「これもないわね」
まず第一に自分のやる気が皆無だ。
皇族としての仕事は自己顕示欲が強い他の兄弟姉妹に任せれば良いと、
そう思っていたし今も思っているので表舞台に立つ気はない。
それに何より周囲が――他の兄弟姉妹やその派閥の貴族らが難色を示すだろう。
「私、邪魔者だもの」
現在の皇室で頭一つ二つ抜けているどころか次元が違うレベルで魔道士として優れた力量を持つのがアンヘルとアーデルハイドである。
それ以外の皇子皇女の力量はどれも似たり寄ったり。
次元の違う二人が皇位継承レースから脱落したことで、他の皇子皇女らにチャンスが生まれたのだ。
それは貴族らにとっても好機であり、多くの派閥が形成された。
皇子皇女ら、そしてそれを支持する貴族たち。
アーデルハイドが皇族として表舞台に立つことを彼らは望まない。
何せ、復帰してしまえば勝ちの目がなくなるからだ。
難癖をつけてでも復帰を阻止しようとするのは目に見えている。
「駄目だなあ……私、本当に駄目駄目……ふへ……やっぱり……」
きゅるるる、と腹の音がアーデルハイドの良からぬ思考を遮った。
「あー……とりあえず、食事ね」
見れば窓の外はもう暗くなり始めている。
寝入ったのが朝方だったから朝食も昼食も食べていない、そりゃお腹も空く。
「今日も……バーレスクで食べよう……」
のそのそとベッドから降りて私服に着替える。
転移で店に、と思ったが使用人に一言ぐらい言っておくべきだと思い直し部屋を出る。
「あ、アーデルハイド様……お目覚めになられましたか」
廊下でメイドの一人と出くわす、丁度良い。
「ええ、おはよう。ああそうそう、今晩の夕食も結構よ。外で食べて来るから」
「かしこまりました。ですが、その……」
「?」
「お客様がお見えになられていまして」
「客? 私に?」
「はい。エルンスト様が」
エルンスト、帝国の第二皇子でありアーデルハイドにとっては兄にあたる男の名だ。
アーデルハイドとしては無視したかったがエルンストの対応をしている使用人たちが可哀想なのでそうもいかない。
溜め息を吐きながら直ぐに行くわと答え、客間へ向かった。
「兄を待たせるとは良い御身分だな、アーデルハイド」
客間に向かうと不機嫌なエルンストが尊大に脚を組みソファに座っていた。
この時点で塵も残さず消してやろうかと思ったが、寸でのところで踏み止まる。
「というか、寝過ぎだろお前。久しぶりの帝都で気が緩んでるんじゃないか?」
「申し訳ありません」
平坦な声で心無い謝罪を告げる。
エルンストは不快そうに顔を顰めるが、鼻を鳴らすだけで文句は飛んで来なかった。
十年前の事件で心を閉ざしたと勘違いしているのだろう。
アーデルハイドにとっては好都合だった。
「それで兄上、私に何用でしょうか?」
先だって開催された天覧試合。
そこで無名の選手に自分の手駒を潰された挙句、違う意味でも泥を塗られたらしい醜態皇子が一体何の用があって訪ねてきたのか。
アーデルハイドにとはとんと見当がつかなかった。
「単刀直入に言う――――アーデルハイド、俺につけ」
真剣な表情のエルンストとは対照的に、アーデルハイドの心は冷え切っていた。
そんなくだらないことのために自分の時間を消費させられたのかと。
「アンヘルとはもう会っただろう?
もう、お前が負い目を抱く必要はねえ。俺のためにその力を振るえ。
兄上の動きが最近、どうもキナ臭くてな。だが、お前がいりゃあ何があっても……」
「失せろ」
「…………は」
「失せろと言ったのですよ、兄上」
皇帝争奪戦なんて勝手にやれ、自分を巻き込むな。
それがアーデルハイドの偽らざる本音であった。
「お、お前……!!」
「興味がないのですよ、誰が次の皇帝かなど心底どうでも良い」
仮に次の皇帝が自分の籍を剥奪したとしよう。
抗うつもりはない、謹んで皇族の席から離れようではないか。
皇族でなくなったからとて、食っていけなくなるわけでもなし。
魔道士としての力で糧を得る方法なぞ幾らでも転がっている。
「というわけで、お引取り願います」
パチン! とアーデルハイドが指を鳴らすとエルンストがこの場から消失する。
始終を見ていたメイドや執事が目を剥いているが何の心配もない。
「転移魔法で外に停めてある馬車に飛ばしただけですからご心配なく」
この件に腹を立てて何か仕掛けて来るのならば真っ向から潰し返す。
策謀も、権力も、圧倒的な暴力の前では意味を成さない。
蛮人の理屈だが、自分は駄目な子だからしょうがない。
上手く収める方法なんて分からない、馬鹿だから。
(まあでも、何もされないのが一番だし)
先手を打っておこうとアーデルハイドは再度指を鳴らす。
何をしたのか? エルンストの屋敷にガンマレイの雨を降らせただけだ。
勿論、人には当たっていない。当てていない。
誰も傷付けずに屋敷を穴だらけにしてやった。
これはメッセージだ。例えどこに居たってお前を殺すことができるという宣告。
無論、証拠は残っていない。
魔力の痕跡を調べても下手人には辿り着けはしないだろう。
表立って糾弾することが出来ない以上、取れる道は二つ。
(泣き寝入りか、報復か)
後者を選んだのなら、事によっては……残念だ。
アーデルハイドの口元が酷薄に歪む。
「それでは、私は出かけますので」
「は、はい! いってらっしゃいませ!!」
「はい、行って参ります」
転移魔法を発動。
一瞬で景色がバーレスクの前へと移り変わるが、
「あ」
「え」
転移してきたのはアーデルハイドだけではなかった。
並び立つように転移し、姿を現したのは誰あろうアンヘルであった。
目が合う二人。
「「……」」
数秒の沈黙の後、さっと同時に二人は目を逸らした。
寂寥はあれども綺麗に”さよなら”をして道を分かっただけに、この展開はない。本当にあり得ない。
(ど、どういう反応をすれば良いのか分からない!!)
内心で悲鳴を上げながら扉に手をかける。
「おう、いらっしゃい」
いつも通り、カールが出迎えてくれた。
自然と頬が緩み、気付けばその名を呼んでいた。
「ベルンシュタインさん!」
「カールくん!」
はたと気付く。
「「ん?」」
思わず顔を見合わせる。
「何だお前ら知り合いなのか?」
「え……あ、え……う、うん」
「そ、そうですね?」
混乱していた。自分だけではない、アンヘルもだ。
だらだらと冷や汗が滴り落ちていく。
しかしカールはこちらの事情なぞ酌んでくれることもなく、
「じゃあ相席で良いか」
「「え」」
「いやさ、何か今日お客さん多くてな。今はまだ大丈夫だが、この先もどうか分からんから頼むわ」
そう言われては断ることもできず、力なく頷きを返した。
ちらりと横目でアンヘルを見れば彼女も同じような有様だ。
「じゃあ二名様、ごあんなーい」
どこか生気がないカール。
恐らくは自分のせいだろうと反省しつつも、横のアンヘルが気になってしょうがない。
席に案内されてからもメニューで顔を隠しつつ、ちらちらと対面の彼女を見てしまう。
(いや、でも……まさか……)
これは、これはひょっとしてそういうことなのだろうか?
確かに共通点はある。
自分とアンヘルを結ぶ存在、ゾルタン――いや違う。
(逆なんだわ。アンヘルが自分を取り戻せたのがベルンシュタインさんのお陰で)
その話がゾルタンに伝わり、彼が自分を気遣ってカールを紹介してくれたのだ。
アンヘルすらどうにかしてみせた彼ならば、と。
だとすれば大恩人どころの話ではない。
立ち直れただけでも十分な恩だというのに過去の過ちまで尻拭いしてもらったのだ。
一体、何をすればその恩に報いれるというのか。
(でもそう……私の考えが正しいなら、そりゃアンヘルだって……)
もしそうなら、どうするべきなのか。
これまでの自分なら身を引いていたかもしれないが、今は違う。
過去の清算は果たされた以上、これ以上気を遣うのは違うだろう。
でも、だけど、思考の迷宮に迷い込むアーデルハイド。
それはアンヘルも同じようで彼女も神妙な顔をしている。
「おう、注文決まったか?」
「「え」」
「……何か、お前ら仲良いな」
誤解していらっしゃる。
完全に誤解していらっしゃる。
そりゃそうだ、多分誰も彼に詳しい説明はしていないのだから。
アンヘルは我が身に降りかかった悲劇については説明しているかもしれないが、
皇族だとかそういうことは恐らく言ってない、ゾルタンも教えてない。自分も教えてない。
(い、言えないわよ……まさか、アンヘルが昨日決別したばかりの妹だなんて……)
頭を抱えたくなるとは正にこのことだ。
「まあ良いや。それで注文は?」
「え、えーっと……その、今日は疲れてるから精のつくものを」
「わ、私もそんな感じでお願いできるかな?」
「了解。じゃ、ちょっと待ってな」
そこからはもう、地獄のような時間だった。
最初はただ気まずいだけだったが、諸々の事情に気付いてしまうと更に気まずさが加速してどうしようもなくなってしまった。
注文の品が届くまでの時間が苦痛だったし、食事をしている最中も味なんて分からなかった。
時折、テーブルに来たカールが三人で話をしようとするのも辛かった。
とりあえず今はさっさと店を出たい。
恐らくはアンヘルもそう思っていたはずだ。
だが、いつもとは違う行動を取れば不審に思われてしまう。
なるべくそういう事態は避けたいから、しょうがなくいつも通りに振舞った。
店を出ても大丈夫だろうという時間まで必死で耐えた。
「「お勘定をお願いします」」
またしても二人同時だった。
カールは仲良しかよ! と笑っていた。
「「……」」
二人同時に店を出る。
普段なら店を出た時点で転移魔法を使うが、今日は少し歩くことになった。
「「……あ、あの」」
お先にどうぞ、いえそちらがお先に。
譲り合いの末、最初に折れたのはアンヘルだった。
「その、私たち、さ。姉妹として決別した……でしょ?」
「え、ええ……そうね。それはもう、覆らない。そうでしょう?」
「うん。でも……」
「……言いたいことは分かるわ」
どちらかが身を引く、あるいは排除する。無理だ。
もし仮にどちらかが顔を見せなくなればカールに要らぬ気を揉ませてしまう。
不安があるとすればアンヘルはともかく、自分のことを俺の女だとカールが思ってくれているかだが……多分、大丈夫だろう。
別れ際、
’俺、他の女とも関係持ってるぞ’
と言っていたし。多分、大丈夫だ。
彼は割りと絆され易い人間だし、大丈夫大丈夫。
アーデルハイドはそう自分に言い聞かせ深呼吸を一つ。
「「……」」
カールから離れるつもりがないし、離すこともできない。
どう足掻いてもこれから関わっていくのは目に見えている。
ならば新しい関係を構築するしかない。
「「……とりあえず、別の意味での姉妹ということで一つ」」
アーデルハイドとアンヘルが導き出した結論がこれだった。
「じゃあ、まあ、はい」
「ええ、そういうことで」
互いに会釈をし、転移魔法を発動。
この場から逃げるように消え去り、後には静寂だけが残った。
二人のグダグダな後日談を知るのは空に浮かぶお月様だけであった……。
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