オグリキャップ⑤ 中央競馬を本当に日本に広げた馬





 現在の20代~30代の人が、当時のオグリキャップを取り巻く世相や人間関係について少しでも理解してもらえればと思い書いてきたのですが、まだ書き切れなかったこともあります。


 それはオグリキャップが走っていた頃の競馬界の状況についてです。

 ①では、当時私が感じていた競馬についてを書きましたが、もう少し俯瞰してこの当時はどうだったのか、を書いてみます。


 競馬界の状況の前に、その状況の前提となる当時の情報環境に触れさせて下さい。おそらく20代の人には全く実感できない環境です。

 オグリキャップが走っていた当時は、携帯通信機器の黎明期でまだ携帯電話が一般に普及するには至っておらず、馬主くらいの金持ちなら車載電話を持っているかな? くらいのもので、一般人の情報伝達は専ら固定電話や公衆電話での音声通話が主な手段でした。

 電話からプッシュボタンでメッセージを入れて持ち主を呼び出すポケットベルも社会人が会社の備品を持たされていた程度で、女子高生が爆発的に使うようになったのは1990年以降でまだこの頃は一般的ではありません。携帯電話が一般に普及するのは更に遅れて1993、4年頃からです。当然普及し出した携帯電話はまだEメールも使えませんしネットにも接続できません。

 文字データの送信方法としてはFAXが公官庁や大きめの企業にやっと普及した段階で、一般家庭には1990年頃から入り始めます。

 映像も全国で一律に見れるものはNHKと在京キー局が作る主要な番組くらいなもので、関西では在阪放送局が作る独自の番組を流す比率は今以上でした。

 全国的な媒体といえばTV、新聞、雑誌ですが、スポーツ新聞などはご当地色を前面に押し出しており、特に関西ではその傾向が強いものでした。


 そして、今ではJRAの主催レースの馬券は全国各地で買うことが出来ますが、1980年代前半までは八大競争と呼ばれた(皐月賞、桜花賞、日本ダービー、オークス、菊花賞、天皇賞春、天皇賞秋、有馬記念)競争の他、中山大障害や宝塚記念、ジャパンカップなどごく一部の格の高い重賞レースのみが全国発売馬券でした。

 つまり、関東(東京、中山、福島、新潟)開催の新馬、未勝利、条件戦、OP戦、重賞の馬券は関東地区でしか買えず、関西(京都、阪神、中京、小倉)開催のレースの馬券は関西地区でしか買えませんでした。

 これはどういうことかというと八大競争や準ずる大レースを除いたら、関東、関西、それぞれの地区の競馬マニアは各地区の競走馬さえ知っていればよかったので、スポーツ新聞競馬欄や競馬新聞などの競馬メディアは東西各地区の情報だけを主に扱っていたのです。馬券が買えない他地区の馬や厩舎を扱っても意味がないので売れませんからね。


 つまり、情報通信環境が未発達だったこともあり、今の時代からは想像つかない程に関東と関西の競馬界というのは別物という認識で、互いにGⅠ級の馬でないと情報が入って来なかったのです。

 まだ、関東の競馬場やWINSで関西のレース映像を流すことも出来ていませんでしたし逆も然りで、中央競馬の競馬場で同日の他競馬場開催レースを映像で見られるようになったのは1995年でした。


 1984年にJRAが大きな改革をします。グレード制の導入と、グレード制で定められた重賞競走馬券の全国発売です。

 グレード制によってGⅠ、GⅡ、GⅢの各レースの重要度を決め、10レース程度だった全国発売馬券が一気に95レースにまで増えました。

 狙いは新規ファン層の拡大ですが、新規ファンを増やす以外に東西に分かれていた競馬マニアというコア購買層に他方のレース馬券も買ってもらうという即効性のある意図もありました。

 これによって関東、関西互いにGⅠ以外のGⅡ、GⅢも買えるようになり、競馬マニアは他方の競走馬や厩舎について知る必要が出てきました。


 とはいっても、ここまで大きな改革が世間に根付くのには時間が掛かります。

 オグリキャップが中央に転入した1988年頃は、まだまだ関東と関西の競馬界の間には大きな隔たりが残っていました。


 関東の競馬マニアはGⅠでは関東の馬を応援し、関西の競馬マニアは関西馬を応援する。関東、関西の競馬マニアともにまだ他地区のGⅡ、GⅢ、特に2歳戦や3歳戦は馬がわからないのであまり買わず、自地区のレースを買うことが殆ど。

 馬主さんも自らが拠点としている地方の厩舎に馬を預託することが殆どでした。競走馬を持つということは商談の話題のタネにするためという一面もありましたから、関東でも関西でも、自分が住んでいる地域で走らせないと商談相手に見てもらえず話のタネになりません。

 また、厩舎関係者もGⅠに向かうステップレースや新馬戦、条件戦は自分の地区のレースを使うことが殆どでした。騎手もまだこの頃はフリーというのは少なく美浦、栗東の厩舎付の立場が殆どでしたので、乗るレースも重賞以外はほぼ自分の地区開催レースでした。

 GⅠレースは東西の代表戦のようなものでしたから、オグリキャップと同世代のサッカーボ-イが関西の切り札と言われていたのもそうした時代を反映しています。

 そして、今では信じられないでしょうが東高西低と言われていて、関東馬が強かったのです。前年1987年のGⅠ勝利数で見ると、GⅠ全15レースのうち関東(美浦)9勝で関西(栗東)が5勝。残る1つはジャパンカップの英国でした。


 こうした背景を踏まえてオグリキャップの戦歴を見ていくと、決して最初から国民的な人気があった馬ではなかったことがわかります。


 関西地区でも競馬サークル内では馬主の佐橋氏が馬主としては異質な存在で胡散臭いと思われているところに、なおかつ皐月賞、日本ダービーの東上最終便と言われる関西のステップレースをクラシック出場資格がないのに取っていって荒らされる、という状態でうっすら反感を買っていたと思います。

 ただ、競馬サークルのやや外縁にいる関西競馬メディアや、レースでオグリキャップの走りを見た関西の競馬マニアたちは「こいつは強い」と感じ徐々にその強さは認識されていきました。

 初めての東京競馬場のレースとなったNZトロフィー4歳Sでは、関西の重賞で連勝していると言っても所詮は関西だろう、と侮られていたようです。

 皐月賞こそ関西馬のヤエノムテキが制しましたが、日本ダービーではヤエノムテキを抑えて関東馬のサクラチヨノオーが制し、3着まで関東馬が占めていました。

 NZトロフィー4歳S前日、東京競馬場の記者室で在関東の各社の競馬記者が集まり、明日のNZトロフィー4歳Sについての予想をしていたそうです。

 在関東の記者ばかりなので、誰もオグリキャップが走ったレースを見ていません。競馬歴の浅い記者は関西重賞3連勝中のオグリキャップの強さについて熱心に語ったそうですが、競馬記者歴の長いある記者が「オグリキャップは買わない。血統が嫌いだから」と発言するとその場にいた多くの記者からは拍手が沸いたそうです。

 マイナーな血統で弱い関西馬、更にレベルの低い笠松出身と侮られており、それに歴の長い関東の競馬記者たちは多くが賛同していたのです。

 次の日のNZトロフィー4歳Sでオグリキャップは手綱を持ったまま7馬身差の圧勝。

 強さを熱心に語っていた若い記者は、歴の長い競馬記者が侮ったオグリキャップの圧勝に溜飲が下がったのだそうです。


 こうして勝利をつづけることで、少しづつその強さが認められていったオグリキャップ。

 オグリキャップの強さを素直に認め応援する人の多くは先程の東京競馬場の記者予想会の例を見るとわかるように、競馬歴が長く競馬を知っていると自負している人達ではなく、競馬に対して知識がまだ浅いけれど競馬をフラットに見ることができる人々でした。

 競馬に詳しくなくても、見ればわかる強さ。

 逆に競馬の知識に凝り固まっている人ほど、強い理由がわからず否定したくなる馬でした。

 そして見たことを素直に感心、感動できる人たちの紡ぐ文章が新聞等で出回るようになり、徐々にオグリキャップの強さが発信されていくことになります。


 関西の競馬ファンはこの秋、至福だったでしょう。

 古馬GⅠの主役を2頭の関西馬が張っているのですから。

 春の古馬GⅠを連勝し現役最強の座についた関西馬タマモクロス。

 そして、現役最強タマモクロスに挑むのは、生い立ちから裏街道を進まざるを得なかったにも関わらず、その力だけで存在を証明してきた関西馬の若駒オグリキャップ。

 天皇賞秋での対決に向け、オグリキャップは前哨戦の毎日王冠で3年前のダービー馬で関東馬のシリウスシンボリを見事に破っています。

 この毎日王冠の戦いについて、当時の大物マルチタレントだった方が自身が司会する深夜の全国ネット番組で「本物だ」と紹介したことから、共に現在に至るまでの足跡にドラマを持つ2頭の葦毛馬の対決、天皇賞秋は日本全国の競馬ファンの注目を集めることになりました。

 結果は1馬身半の差をつけてタマモクロスが完勝。

 オグリキャップにとっては中央で初の敗戦でしたが、東京の競馬通記者はクサすこともできませんでした。

 何故なら、13頭の出走馬のうち関西馬は3頭しか出走していなかったにもかかわらず、その2頭が後続の関東馬を3馬身ちぎって1、2着を取ってしまったからです。

 しかもホームである東京競馬場での出来事ですから、何も言い訳できるはずがありません。

 もはや東京の競馬通記者も関西馬は弱いと侮った見方が出来ない状況だということを、葦毛の2頭ははっきり見せつけました。


 この葦毛2頭の対決はジャパンカップ、有馬記念と続きます。

 ジャパンカップでもこの2頭が日本馬最先着の2,3着。

 この秋、最も強い馬はこの2頭であると競馬ファンは誰もが認めることになりました。


 そして年末のグランプリ有馬記念で、オグリキャップはついにタマモクロスを破り優勝しました。

 この時、競馬ファンの間では引退するタマモクロスに替わってオグリキャップが日本最強馬と認定されたのです。


 そして偶然か必然かこの年が競馬界の東高西低が西高東低へと変わる節目の年となりました。

 秋シーズンのG1は菊花賞スーパークリーク、エリザベス女王杯ミヤマポピー(タマモクロス半妹)、マイルCSサッカーボーイ、そして古馬GⅠのタマモクロスとオグリキャップと関西馬がほぼ総なめでした。

 年間のGⅠ勝利も関東馬は安田記念のニッポーテイオー、日本ダービーのサクラチヨノオー、そして当時関東2歳馬のGⅠだった朝日杯3歳Sのサクラホクトオーの3頭のみでした。


 この年のGⅠ戦線の盛り上がりは、東西のステップレースへの注目も高めることになり、競馬ファンの目を関東だけ、関西だけの視点から解き放ち、他方の馬の様子も占う必要があることを広めました。

 オグリキャップは関西競馬ファンにとっては来年も強く頼れる軸馬として期待されましたし、関東のライトな競馬ファンも、現役最強馬に3度挑みついに頂点を勝ち取った若き王者の物語を受け入れ、注目されることとなりました。


 オグリキャップは、JRAが1984年から実施した改革プロジェクト、関東関西の垣根を取っ払って日本全国どこで開催されるレースでも中央競馬として全場の競馬ファンに楽しんでもらう、という意図を、数年なかなか進展しない中一気に推進させる起爆剤となったのでした。

 オグリキャップがいなくても、中央競馬が各競馬場やWINSでその日その時オンタイムのレース映像をリアルタイムで流すようになれば、関東のファンでも関西のレース馬券を買うように競馬ファンの意識は変わったと思われますが、それは1995年まで待たなければ当時の技術的に実現しませんでした。

 オグリキャップは、それを一気に8年前倒しにしたのです。


 本稿で書きたかったことは以上で、後は余談です。


 1989年は前半の春シーズンを故障で全休したオグリキャップでしたが、秋の復帰の前後から前馬主佐橋氏の会社製のオグリキャップぬいぐるみが世間を席捲。

 競走馬のことを全く知らない人たち、特に若い女性たちの間にもオグリキャップのデフォルメされた可愛さが浸透していき、ちょっと競馬をかじった若い男性がオグリキャップのぬいぐるみを持った彼女にオグリキャップの物語性を語ることで、一般的な関心事の一つとなっていきました。

 そのタイミングで復帰したオグリキャップの、普通では有り得ないローテーションの6戦。

 競馬を知らない人たちや少しかじった人たちは、馬主に無理やり走らされるという悲劇性も踏まえた上でオグリキャップ自身が自分が何者なのかを証明するため走っているとしか言えない凄味ある激走を目撃したのです。

 しかも、初めて競馬に接する層にとっては、大レースには必ず出走しているようなものなので、大レースの日に競馬場に行けば必ず目に出来る状況だったのです。

 社会的なブームとなるのに十分でした。


 オールカマーで、強さを再確認させ。

 毎日王冠で、春の覇者を激走で下し。

 天皇賞秋で、不運に見舞われても豪脚であと僅かまで巻き返し。

 マイルCSで、完全に負け確定の状況から1完歩ごとに追い詰めハナ差制し。

 ジャパンカップで、世界中の誰もが未知の過酷な展開でも世界レコード同タイムクビ差まで勝者を追い詰め。

 有馬記念では、怪物と呼ばれていても生き物であるという弱さも見せて。


「凄いんだぜオグリキャップは」「本当に凄いね、なんであんなに頑張れるの」

そんな会話があちこちで交わされました。


 一部の競馬識者たちはオグリキャップという馬を認めざるを得ないけれど心情としては面白くないため、オグリキャップとその陣営に棘のある論説を張ったりしましたが、かえってそれもいい塩梅のスパイスとして働き、オグリキャップの大衆人気を彩って行きました。


 翌1990年にオグリキャップのブームは日本中に広がり本格化します。

 囁かれる悲運、不運を克服した物語とともに、ぬいぐるみが一般家庭に浸透しました。

 

 そこに関しては、特に書くこともありません。

 引退レース、有馬記念の様子を見て頂くのが一番です。




 さて、書く内容の目分量をまたしても見誤ってしまったので、今回が最後と言っておきながら次回に続きます。

 次回こそ、様々な妄想を書いて終りたいと思います。

 




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