オグリキャップ④ 二代目馬主以降のごたごたでも走り続けた馬




 二代目馬主佐橋五十雄氏は、地方競馬で結果を出した馬を買い取り、中央競馬や地方でも賞金の高い南関東に転厩させて走らせ、勝てない場合は勝てそうなレベルの地方競馬で走らせるという人でした。

 アメリカではそうしたスタイルの馬主というのも結構いるそうで、競走馬をビジネスライクに捉えていると言えましょうか。


 佐橋氏が他の馬主から買い取って走らせた所有馬を何頭か紹介します。


 カウンテスアップ 

 1983年に岩手競馬でデビューしたあと2年間で18戦16勝し東北優駿等重賞3勝。1985年より佐橋氏が購入し大井競馬所属に。その後笠松→大井と転厩し1987年まで現役を続け、地方40戦29勝。佐橋氏所有期間成績22戦13勝。川崎記念3連覇など地方重賞8勝を佐橋氏所有中に挙げた。1986年の中央競馬の地方交流GⅢオールカマーに出走し7着。現役当時はロッキータイガーやテツノカチドキと激突した。

 ステートジャガー

 地方時代のデータは古すぎて不明。おそらく1983年に大井競馬でデビューし3連勝。京浜盃、黒潮盃の重賞も連勝。続く羽田盃、東京ダービーは2着、3着。1984年の夏頃佐橋氏が購入し笠松競馬に移籍。重賞東海ゴールドカップを含む6戦3勝。1985年に佐橋氏から株式会社ホースメンに所有が移り中央競馬に移籍。中央緒戦のマイラーズCでニホンピロウイナーの2着。次戦のサンケイ大阪杯ではミスターシービーにハナ差で勝利。宝塚記念に出走し4着するが、レース後に尿からカフェインが検出され失格、賞金没収となる(ステートジャガー事件)。以降はステートジャガー自体は何も悪くはないのだが疑惑の馬扱いされ、美浦に転厩するが脚部不安に見舞われ2年間出走することなく引退する。

 フジノテンビー 

 2000年5月31日の笠松競馬の中央認定競争(賞金額が高く200万円)でデビューし勝利。そこから重賞2勝を含む4連勝し、中央競馬のGⅡデイリー杯3歳Sも勝利。年が明けて1月24日の笠松重賞ゴールドジュニアを勝った後、佐橋氏が購入。笠松所属のまま3月18日中央GⅡスプリングSへ挑むが14着と初敗北する。直後に佐橋氏所有のまま美浦の畠山吉宏厩舎へ転厩。5月6日GⅠNHKマイルCクロフネの8着、6月2日GⅢユニコーンSは2着と健闘。6月13日笠松の中央交流戦名古屋優駿9着。この後長期休養となり3歳シーズン終了。翌4歳は岩城博俊厩舎に転厩し3月から5月にかけて4戦するがいずれも2桁着順に沈む。

 7月に船橋競馬に転厩し2連勝するが、以降の8戦は勝ち切れず2004年から再度笠松競馬に転厩。以降は2007年11月まで笠松で走り続けた。

 通算71戦13勝。中央重賞1勝、地方重賞4勝。佐橋氏所有期間中成績は65戦7勝、地方重賞制覇は1勝。


 このようにある程度活躍した馬を買い取って所有する佐橋氏の馬主歴ですが、カウンテスアップのように所有した後も活躍を続ける馬というのはやはり少数で、フジノテンビーのように買い取った後はさっぱりパッとしなくなるという馬の方が、どちらかというと多いようです。

 佐橋氏はおそらくオグリキャップもメンバーが手薄な重賞を取れれば十分で、何走か掲示板着内に来て賞金を咥えてきてくれれば御の字、くらいに考えていたのではないかと思いますが、オグリキャップはそんな佐橋氏の期待以上の活躍を見せました。

 ペガサスステークス 1着3000万円

 毎日杯 1着3200万円

 京都4歳特別 1着3000万円

 NZトロフィー4歳S 1着4300万円

 高松宮杯 1着5200万円

 毎日王冠 1着4700万円

 天皇賞秋 2着3800万円

 ジャパンカップ 3着2400万円

 有馬記念 1着9500万円。


 オグリキャップが佐橋五十雄氏にもたらした本賞金額は合計で3億9100万円。

 初代馬主小栗孝一氏に支払った買取金額2000万円(或いは3000万円)は、中央初戦のペガサスSの賞金だけで十分ペイできてしまいました。


 また、佐橋氏はファンシー商品の製造を手掛ける会社を営んでおり、自らの所有馬となったオグリキャップの様々なファンシー商品を製造し販売します。その中でもオグリキャップのぬいぐるみが売れに売れました。当時はこうした競走馬グッズというものが無かったこともあり、自らの所有馬ですから版権料なども他者に支払う必要がなかったため、相当に儲かったでしょう。


 ですが好事魔多しと言いますか、6月頃に佐橋氏が経営する会社に脱税が発覚し法人税法違反で起訴され、裁判で係争することになりました。刑が確定すると馬主資格を失うことになります。

 オグリキャップとタマモクロスとの葦毛対決に世間が沸き始めた時には既に競馬サークル内では噂になっていたそうで、佐橋氏の元にオグリキャップを購入したいという話は来ていたようですが、佐橋氏はオグリキャップを手放すつもりは無かったようです。

 佐橋氏は有馬記念後にオグリキャップをアメリカに持って行くつもりだったそうで、岡部騎手に騎乗を依頼したのも岡部騎手がアメリカでの騎乗経験が豊富だったためでした。岡部騎手への騎乗依頼は随分と前から依頼していたそうですが、天皇賞秋、ジャパンカップとタマモクロスに敗戦し、どうしても一矢報いたい有馬記念のタイミングで実現したのです。

 しかし、当時のアメリカの馬主資格審査は非常にシビアで、裁判で係争中の身では到底アメリカでの馬主資格を得ることは困難だと判明します。

 また、裁判が長引くことで競馬サークル内の悪評だけでなく、一般社会での自身の会社に対する世間の目が厳しくなり、売れ筋商品の売れ行きが下がることも懸念されました。


 こうしてついに佐橋氏はオグリキャップを他者に譲ることを決意します。

 1989年2月のことでした。


 佐橋氏はオグリキャップを手放した後、控訴を取り下げ刑が確定。中央競馬の馬主資格を失います。

 が、1994年には再度中央競馬の馬主資格を取得します。

 オグリキャップの頃の勝負服は三代目馬主がそのまま引き継いで使うように変更していたため、1994年に馬主復帰後は新たな勝負服を使用しています。

 佐橋氏の主な所有馬として挙げたフジノテンビーは中央の馬主資格を再取得してからの馬です。佐橋氏は2009年までは中央競馬で馬を所有していたようですが、以降は中央競馬からは手を引いているようです。


 さて、佐橋氏からオグリキャップを購入した三代目馬主は、近藤俊典氏。

 譲渡にあたり佐橋氏に支払った金額は後年2年間で5億5000万円だったと明らかにされています。

 譲渡されるにあたっての条件は、オグリキャップ引退後の所有権は佐橋氏に戻し、近藤氏は1989年2月以降オグリキャップが現役の競走馬として走っている間だけの馬主というものでした。

 また、佐橋氏が事前に発表していたオグリキャップの春ローテーション、大阪杯→天皇賞春→安田記念→宝塚記念もそのまま踏襲し、騎手の勝負服も佐橋氏時代と同じ「青,黄菱山形,赤袖」に変更するということで、馬主としての自由が非常に制限された内容に思えました。

 こうしたほぼ前オーナーの佐橋氏の意向が通っていることにより、この売却は実は単なる名義貸しなのではないかとも世間からは疑われました。

 後年実際に名義貸しが露見し処罰されたマイルGⅠ2勝馬トロットサンダーの件と比較すると、トロットサンダーの場合、中央馬主名義で登録された期間内に中央馬主資格を持たない地方時代の馬主から中央馬主への権利の移行処理が行われないまま出走していた期間が1年半に及んでいたという部分が問題になりました。

 オグリキャップの場合は中央馬主資格を持つ馬主から中央馬主への権利の移譲であり、競走馬を預託しレースに出走させる馬主の権利部分の移譲に関しては金銭支払いも含め合意、契約されていたためトロットサンダーの場合のような違反には当たりません。ただ、引退後の所有権についてや、前馬主の意向どおりの諸条件などについては相当に不平等でありグレーな印象に思えます。


 何故このような相当に不利で損な条件を近藤氏が飲んだのか、本当のところはわかりません。世間に対して近藤氏は「中央のGⅠ馬のオーナーになる名誉はお金で量れない価値がある」と言っていました。

 私たち一般人としては名誉欲に目が眩んだように思えますが、調べられる範囲で見えてくる近藤氏の馬主歴を見ると近藤氏の言は理解できなくもない気がしてくるのです。


 netkeiba.comで近藤氏の馬主歴を見てみると、近藤氏は1965年から中央競馬で馬主をしており1998年まで続けています。所有馬の多くは近藤氏の実家であるヒダカファームの生産馬や日高地区の牧場の馬が占めています。

 30年強の近藤氏の馬主歴の中で、中央重賞を勝利した馬はオグリキャップ以外では1996年にGⅢ小倉3歳Sと府中3歳Sを勝利し、障害転向後に障害G級レースを勝利したゴッドスピードという馬ただ1頭でした。

 こうして見ると、本当に中央の重賞を勝つ馬に一般の馬主さんが巡り合うことは稀であるということがわかります。

 近藤氏は小規模な競走馬生産牧場の生まれで小さい頃から馬に関わってきた経験もありましたから、中央GⅠを優勝する馬に巡り合うことの難しさを知っており、それが故に重賞を取れる馬を所有したいという憧憬が強くあったのでしょう。


 オグリキャップという現役最強馬を所有できる機会を持ちかけられた時、金銭に代えてでもこの機会を逃したくないと渇望したのではないかと思います。


 そして、近藤氏の馬主歴を見ていると、運がないと感じます。

 近藤氏のオグリキャップ以外で重賞を勝利したゴッドスピードは、他の馬主さんに譲渡した後にGⅠ中山大障害を勝って障害の名馬と言って良い存在となります。

 近藤氏はオグリキャップ以前にも佐橋氏から中央競走馬を譲渡された経験がありますが、いずれも中央重賞には届いていません。

 また、佐橋氏が笠松で所有し中央馬主に譲渡したステートジャガー。ステートジャガー事件の後ステートジャガーを所有していた(株)ホースマンクラブからステートジャガーを買い取り美浦に転厩させたのは近藤氏です。美浦に移ってからのステートジャガーは脚部不安を発し2年間1度もレースに出走せずに引退しています。


 こうした近藤氏の不運はオグリキャップを所有した時もつきまといました。


 近藤氏がオグリキャップの馬主となった段階で騎手は決まっていませんでした。

 有馬記念で騎乗した岡部騎手が「1度きりの契約でオグリキャップに騎乗した」と言って騎乗を断っていたからです。

 実のところ岡部騎手はオグリキャップの能力に関しては高く評価しており、アメリカでも通用すると太鼓判を押していました。「一度騎乗してみて、その後アメリカに行くのであればアメリカでの騎乗は受けても良い」というところで有馬記念の騎乗を受けたのではないかと思われます。

 ですが有馬記念後、オグリキャップのアメリカ移籍は佐橋氏のグダグダで進展せず、日本で走る場合の春ローテーションを佐橋氏が発表します。

 天皇賞春→安田記念というローテーションは馬優先主義を掲げる岡部騎手にとって受け入れ難いものであり、天皇賞春を目標にするのであれば安田記念は回避した方が良いと佐橋氏に伝えたものの佐橋氏はそれを断り決裂します。

 近藤氏はオグリキャップを所有してすぐに新たな騎手を探さなければなりませんでしたが、直後にオグリキャップの右前脚球節捻挫が発症。4月2日の大阪杯の回避が発表されます。更に4月に入ると右前脚繋靭帯炎を発症し、春シーズンを全休することになりました。

 繋靭帯炎は治る病気ですが治った後も再発しやすく、常に脚部に不安を抱えることになります。ある程度実績を残した馬の場合はそのまま引退させる判断をすることも多く、シンボリルドルフや後年のメジロマックイーン、アドマイヤベガもこの病気で引退しています。

 また、復帰したとしても前年1987年のクラシック2冠馬サクラスターオーのようにレース中に繋靭帯断裂し予後不良という最悪の事態になることもあり得ました。


 近藤氏はこの時どんな思いだったでしょうか。オグリキャップを引退させたら種牡馬としての所有権は佐橋氏に戻ってしまいます。自分は5億5千万円をただ費やしただけ。もしかしたらステートジャガーのことが頭をよぎったかも知れません。相当絶望的な気分だったことでしょう。


 オグリキャップは競走馬リハビリテーションセンターでの治療とリハビリ、更に瀬戸口厩舎のスタッフ、特に担当厩務員の池江敏郎氏の献身的な世話により順調に回復し、秋競馬を迎えます。

 当初は10月8日の毎日王冠を目標にしていましたが、順調に回復したことで瀬戸口調教師の助言を受けて近藤氏は9月17日のオールカマーを復帰戦に選びました。


 オグリキャップの鞍上は前年タマモクロスに騎乗していた南井克己騎手。

 ただおそらく南井騎手以外にも何人かの騎手に依頼し、断られていたと思います。

 河内騎手は前年のジャパンカップで降ろされたというわだかまりで受けてもらえず、岡部騎手も前馬主佐橋氏との間での1回限りの騎乗と断られます。

 この当時金額ははっきりしないものの、オグリキャップは相当な額で取引されたという噂は出回っていました。

 はっきりとオグリキャップ陣営と名指しはされませんでしたが、関西で河内騎手のライバルだった田原成貴騎手にも「金のために競走馬を酷使する陣営の馬には乗らない」と断られていたようです。


 しかし、この秋の6戦は「トレードマネーを回収するために走らせた」と言われても仕方のない酷なローテーションだったことも否定できません。

 特にマイルCS→ジャパンカップの連闘は、G1を取った馬としては考えられないものでした。

 よくバンブーメモリーもこの年マイルCS、ジャパンカップを連闘したのでそこまで異常なローテーションではないと言われることもありますが、バンブーメモリーはこの1989年秋は10月29日スワンS→11月19日マイルCS→11月26日ジャパンカップの3戦で終えています。1月5日の京都金杯も登録していたものの出走取消となり、始動は4月になってからです。

 オグリキャップと同等とは言えません。


 さてこの秋6戦、オグリキャップの稼ぎ出した金額はどうだったのでしょうか。

 オールカマー 1着 4400万円

 毎日王冠 1着 5200万円

 天皇賞秋 2着 4100万円

 マイルCS 1着 7500万円

 ジャパンカップ 2着 4100万円

 有馬記念 5着 1030万円

 合計 2億2千230万円。


 金額的には全く見合っていません。

 ただ、近藤氏にとってはオールカマーが初重賞制覇。どれだけ嬉しかったことでしょうか。

 マイルCS参戦も、ハナ差で逃した初GⅠ制覇が無念ですぐに取れそうなGⅠを、と焦ったからかも知れません。

 マイルCSを勝った時に、近藤氏の目的は達成されGⅠ馬のオーナーになれて満足したはずです。それでも満足できなかったのでしょうか。何故ジャパンカップも使ったのか?

 賞金欲しさというのは否定できませんが、ジャパンカップをそのまま連闘で使った理由は、近藤氏はオグリキャップの底知れない強さに魅せられてしまったのではないかと思うのです。

 どこまでこの馬は行ってしまうのか、と。

 また、瀬戸口調教師もこの連闘に関しては馬の状態は悪くなかったと言っています。瀬戸口調教師もオグリキャップの強さを見たいと思っていた。

 その結果が連闘だったように思います。

 有馬記念も、近藤氏がオグリキャップの様子を笠松時代の鷲見調教師に見てもらった結果「疲れ切っている。休ませた方がいい」と助言されたにもかかわらず、近藤氏は使いました。

 ジャパンカップでクビ差2着世界レコード同タイム走破の激走を見て、近藤氏がオグリキャップの底知れない強さを信じてしまったからではないかと思うのです。

 それは瀬戸口調教師も同じだったように思います。

 近藤氏は重賞を勝つ馬のオーナーになったのはオグリキャップが初めてで、瀬戸口調教師も後年ネオユニヴァース等を管理していますが、オグリキャップが自身の調教師キャリアの中で初のGⅠ馬でした。

 二人とも、オグリキャップがどこまで強いのかを見てみたいと強さに魅せられてしまったのだろうと思います。

 この時点までオグリキャップはどんな条件でどこの競馬場であっても3着以下になったことがなかったのですから。

 結果、有馬記念では直線で伸びを欠き5着となりました。

 ファン以上に、陣営がオグリキャップの強さに夢を見ていたのでしょう。


 この秋6戦の鞍上を務めた南井克己騎手ですが、有馬記念後にオグリキャップからの降板を申し出ます。表向きは共にこの年菊花賞を勝ち取ったバンブービギンを来年は優先したいからということでしたが、天皇賞秋、有馬記念と騎乗ミスを競馬マスコミから指摘され本人も天皇賞秋に関しては認めていたため責任を取りたいという気持ちもあった他、有馬記念の前に調教時からオグリキャップの体調が思わしくないことをそれとなく伝えていたにもかかわらず出走を強行され、尚且つ騎乗ミスと言われるということが納得いかなかったこともあったようです。

 1990年、南井騎手が騎乗を優先したいと言っていたバンブービギンは骨折し1走もすることがありませんでしたが、南井騎手はアメリカへ騎手研修に出ると言ってオグリキャップの背に戻ることはありませんでした。


 有馬記念終了後オグリキャップは栗東トレセンには戻らず競走馬リハビリテーションセンターに直行し、2月中旬まで滞在しリハビリをしてから栗東に戻ります。

 そして前馬主の佐橋氏と同じく近藤氏も、アメリカ遠征を目標に掲げ、9月にアメリカで開催されるアーリントンミリオンへの出走登録を1月22日に行います。

 春シーズンは大阪杯、天皇賞春と故障で棒に振った昨年と同じローテーションを使い宝塚記念の後調整を経て9月2日のアーリントンミリオン参戦という予定でした。

 ところが2月中旬の栗東帰厩後、明確な故障をした訳でもないのに調子が上がらない状態が続き、結局春の緒戦は安田記念となりました。


 安田記念で鞍上は武豊騎手が務めることに決まりました。

 武豊騎手は前年に海外騎乗を経験していたため、まず先にアーリントンミリオンの鞍上を依頼し受けてもらっていたので、その延長で安田記念の鞍上も依頼したのです。

 ですが、続く宝塚記念では、武豊騎手はスーパークリークへの騎乗を優先し断られてしまいます。

 そのためデビュー2年目で、関西期待の若手騎手だった岡潤一郎騎手が宝塚記念で手綱をとることになりましたが、今一つオグリキャップの良さを引き出せず2着に敗れてしまい、陣営からも競馬ジャーナリズムからも騎乗ミスを指摘され、この1戦限りとなりました。


 宝塚記念終了後、オグリキャップは両前脚に骨膜炎(ソエ)を発症し、さらに後日右後脚の飛節軟腫も発症。7月中旬より競走馬リハビリテーションセンターで療養に入ります。

 アーリントンミリオン出走どころではなく、7月12日に出走は取り消しとなりました。

 アーリントンミリオン観戦ツアーが安田記念終了後には旅行代理店から発売となっていましたが、これに応募したファンの無念さは如何ほどだったことでしょうか。


 オグリキャップは競走馬リハビリテーションセンターから8月末に栗東瀬戸口厩舎に戻り、2年連続で逃した天皇賞秋に向けて始動します。

 ですがオグリキャップは競走馬リハビリテーションセンターで体調を万全にして帰厩した訳では無く、調教を再開しても脚部不安が次々に出現し不安定で必要な調教もなかなか積めませんでした。

 更にオグリキャップの人気に目を付け、天皇賞秋での復活を当て込んだTV局の、競走馬について無知なスタッフによる1週間24時間密着取材によって夜間の睡眠も削られてしまい、何があっても落ちなかったオグリキャップの食欲が失せ、全く食べなくなるという事態も合わせて起きていました。


 ですが馬主の近藤氏は、天皇賞秋の出場を強行します。

 鞍上は、第一次競馬ブームの主役だったハイセイコーの鞍上、増沢末夫騎手です。

 近藤氏のおばも馬主で騎手としての増沢騎手を可愛がっており、近藤氏も小さな頃から増沢騎手と面識があったためその縁で依頼し受けてもらったようです。

 続くジャパンカップも増沢騎手が騎乗しますが、ジャパンカップ前の併せ馬では条件馬に負ける程の状態の悪さでした。

 これもあって天皇賞秋は6着、ジャパンカップは11着と、初めて掲示板を外す着外という結果となりました。

 オグリキャップの体調が悪く、全盛期の実力が出せなかったというのはもちろんありますが、福島などの地方競馬場で逃げで勝ちを稼いで来た増沢騎手の騎乗スタイルとの相性が非常に良くなかったということも一面の真実だったように思えます。


 この秋2戦の結果を受けて、競馬ジャーナリズムはオグリキャップを「終わった馬、燃え尽きた馬」「人のエゴで走らされ続けた馬」と報道し、すでに社会現象となっていたオグリキャップの熱心なファンからは、これ以上無残な姿を晒すのは耐えられない、すぐに引退させるべきだという抗議の手紙や脅迫状が近藤氏や瀬戸口調教師の元に次々と届けられました。


 こうした状況から馬主の近藤氏は有馬記念を引退レースとすると発表します。

 有馬記念出走も賛否両論がありました。


 有馬記念の鞍上は、武豊騎手に再度依頼されました。

 1990年に唯一オグリキャップを勝たせてくれた武豊騎手に乗ってもらえれば悔いなく終われるということだったようですが、当然蹴られることも念頭にはあったようでダメ元のような依頼です。

 武豊騎手は父である武邦彦厩舎のオースミシャダイで有馬記念に出走する予定でしたが、オグリキャップの騎乗依頼が来たことを父、武邦彦調教師に相談したところ「こんな機会は滅多にないから受けろ。オースミシャダイの陣営には俺が連絡しておく」

 と言ってくれたことでオグリキャップの騎乗を受けることとなりました。


 こうしてあの中山競馬場を迎えるのです。


 さて、無粋ですが、この年のオグリキャップの獲得賞金はどうだったでしょうか。


 安田記念 1着 8000万円

 宝塚記念 2着 4400万円

 天皇賞秋 6着 賞金なし

 ジャパンカップ 11着 賞金なし

 有馬記念 1着 1億1000万円

 合計 2億3千400万円。


 2年間合計 4億9730万円。


 トレードマネーの5億5千万円には足りず、更に言えば各レースの賞金から20%は調教師、担当厩務員、騎手への謝礼を支払う必要がありますから実際馬主に入る収入はさらに低くなります。

 また、毎月の預託料の他、競走馬リハビリテーションセンターの施設使用料などもかかった事と思います。

 ただ、JRAではレースに出走するだけで出走手当というものも入りますし、掲示板外でも10着までは出走報奨金というものも出るようですから、近藤氏の持ち出し分はおそらく1億円強くらいだったのではないでしょうか。


 1億円程度と引き換えにGⅠの口取りを3回行えたことは近藤氏にとって満足できたのかどうか。

 ただ、オグリキャップの馬主という立場、それも全盛期から衰退期に馬主をしていた経験。それはきっとどんな馬主さんの経験よりも言い表せない程に濃かったのではないかと思うのです。


 引退したオグリキャップは佐橋氏の所有となり、当時の内国産馬としては破格の18億円のシンジケートが組まれました。初年度は1回の種付け料が1000万円近くまで高騰しましたが、2年目の繁殖シーズン後に喉嚢炎となり生死の境を彷徨う程の容体となったことや、産駒がデビューし始めたものの中央で順調に勝ち上がる産駒があまり見られないことで種牡馬としての人気は落ち、繁殖牝馬の質も下がりました。

 更に悪いことにシンジケートを組んだ1991年の3月から、バブル景気が弾け、景気の後退局面に入って行きます。現実経済に影響が出たのはそれからおよそ1年後。まだバブル景気の最後の瞬間に組まれたシンジケートの1株の値段、5年で3000万円(1年600万)という強気な価格設定は、産駒がある程度結果を出し始めた2年後には然程走らないのに高額という印象が強くなりました。シンジケート株を持つ生産者の手前、種付け料の値下げをすることもままならなかったことからどんどん種付け頭数は減ってしまい、最後の種付けとなった2006年度は僅か2頭でした。



 最後まで人間の都合と夢に振り回されたオグリキャップ。


 ですが彼は、ただ一生懸命に走ることを全うすることで、まつわるグレーな闇も含めて物語として完成させたのです。



 そして、オグリキャップの3人の馬主さんのその後について。


 初代馬主の小栗孝一氏は、オグリキャップへの思い入れは相当大きかったようです。

 オグリキャップの走るレースは殆ど見に行っており、GⅠ勝利を挙げた際には口取りにも参加。佐橋氏の時は譲る時の約束の一つとして口取りへの招待が盛り込まれていたためですが、近藤氏の時は生産者の稲葉さんの代理として参加されていました。

 オグリキャップのトレードに関しては、二代目馬主佐橋氏も含め関わった人々に感謝こそすれ 悪く言うことはありませんでした。

 小栗氏は1989年の7月に中央競馬の馬主資格を取得します。

 1994年にオグリキャップの半妹オグリローマンで、オグリキャップが出走叶わなかったクラシックレースの桜花賞を優勝しています。

 2015年にお亡くなりになるまで、中央、笠松でホワイトナルビーの子やオグリキャップの子を辛抱強く走らせてくれました。


 二代目馬主佐橋五十雄氏は、1994年に中央の馬主資格を再取得し、2009年まで所有馬を走らせています。

 すでに結果を出している馬を買い取る手法は変わらずに行っていましたが、オグリキャップの子供たちに関しては最初から自分で所有して走らせています。

 彼が所有していたノーザンキャップは中央で3勝後大井、笠松と走り47戦3勝の成績ながら種牡馬入りしました。ノーザンキャップの子クレイドルサイアーも種牡馬となり、今現在オグリキャップの血を父系に持つ現役競走馬2頭に細々ながら繋いでくれています。

 意外にと言ったら失礼ですが、佐橋氏は所有競走馬の面倒を割と最後まできっちり見てくれる馬主でもありまして、ステートジャガーも近藤氏が引退させた後佐橋氏が引き取って種牡馬にしていますし、フジノテンビーも笠松競馬に隣接する乗馬クラブで乗馬になっており、ある程度活躍したら種牡馬に、長く走り続けた馬は乗馬に、と引退後の行き場所まで世話しています。

 佐橋氏については情報が殆どなく、現在どうされているのか不明です。

 2023年現在でも、中央の馬主会の会員名簿に名前は載っています。


 三代目馬主の近藤俊典氏も、その後実家のヒダカファームの生産馬や日高地区の牧場の生産馬、オグリキャップの子供たちを中心に馬を所有し、走らせ続けていました。

 先に書いた通り、中央重賞を取った馬はオグリキャップの後はゴッドスピードだけでしたが、他の所有馬も条件戦ながら勝ち上がりを見せる馬が多く、そんな様子を楽しんでいたのではないかと思います。

 見ようによっては佐橋氏の尻ぬぐいをさせられる損な役回りだったかも知れません。

 確定した情報ではないですが、既にお亡くなりになっているとのこと。1965年から馬主をされていた方ですから年齢的には不思議ではありませんが、オグリキャップの馬主の一人としてもう少しクローズアップをされても良かった気がします。

 ですが、近藤氏がオグリキャップの馬主だった証として残っているものがあります。

 それは鞍上が着用していた勝負服「青,黄菱山形,赤袖」。近藤氏の実家であるヒダカファームが馬主として中央に馬を出走させる際の勝負服として引き継がれているのです。


 ヒダカファームさんがオーナーブリーダーとして中央の重賞レースに出てきた時に、あの勝負服を目にすることがあるでしょう。

 楽しみです。





 今回も長くなってしまいました。

 次回でオグリキャップについては最後にしたいと思います。









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