C調言葉に謀られ
酒盆を給仕のように片手の上に載せながら朗々とした声でオトが語る。
「噂には聞いてたんですよ。音に聞こえた大水鳥、干樽八蛇の名にも恥じない貫禄と器量を合わせ持つ、とんでもないバケモン――失敬、とんでもない水鳥がいるってのはね、俺みたいな連中のとこにも話が流れてきてたんです」
怪訝そうな顔のまま、それでも白い面に貼り付けた微笑は崩すことなくアカハナは一瞬だけ傍らの小娘に視線を投げてからまたオトの方を見る。
オトは半眼の白目をぎらぎらと照明に光らせながら、意図の読めない語りを続ける。
「どの水鳥戦でも快勝と圧勝、ことにこの十年は負け知らず。静かに飲んで崩れもしない、凄味のある飲みっぷりだけでも見事なのに、ついでに美貌ときたもんだ――実際こうしてサシで飲めばいやまったく、目の潰れるような美人だ」
オトの目が弓のように細まる。小娘が双眸を更に険しくしたが、柄杓を手にしたまま動こうとはしない。
アカハナはいかにも儀礼的に頭を下げてから、
「お褒め頂きありがとうございます。ですがお客様、今は水鳥戦の最中ですので、」
ふと顔を背けて口元を抑える。二三度空咳をこらえるような音を立ててから、ゆるゆるとオトの方へと向き直った。
「失礼しました。さ、お客様。干されたのであれば私の番です、どうか盆を」
「盆を渡したらあんた飲んじまうだろう。そうするとまた俺が飲まないとならない……その間お話ができないじゃあないですか、それは嫌なんですよ」
「嫌と仰られましても。水鳥戦をしにいらしたのですから、そんなことを――」
「そんなことじゃあないんですよ。俺にとっては大事なことだ」
じれってえなあもうと酒盆を手元に抱え込みながら、オトはすいと背筋を伸ばした。
「回りくどいのは性に合わねえな、慣れねえことをすると大体叱られる。つまりこうです、あんたのことをお慕い申し上げてるんですよ、アカハナさん」
カシラが猪口を片手に目を瞠る。カガがうんざりしたように左目を眇めて眉根を寄せる。エンはばったりと倒れ込んで口を覆ったまま全身を震わせてのたうち回る。工藤は聞こえた内容がうまく処理できずに片手で箸を握ったまま、もう一方の手で室温に近くなったグラスを掴んでそれ以上どう動くべきかが分からなくなって硬直した。
アカハナは盃を受け取ろうと差し出した片手はそのままにするりと嫋やかな左手だけをその白い頬に沿えて、
「お客様、そういった悪ふざけはいかがなものかと」
「そんな他人行儀な呼び方ぁ止めてくださいよ。ただの客じゃねえでしょう、俺」
「確かに――水鳥戦の対戦相手ですからね」
ただの試合相手ですねと言ってアカハナは唇を吊り上げてみせた。
オトはぎゅうと眉根を寄せてから、
「つれないじゃあないですか。酔っ払いのうわ言だと思ってますね、そうでしょうきっとそうだ」
「ご好意はありがたく受け取りますがね、そういうことをこの場で言うことじゃあないでしょう」
酔っておられるなら棄権の申告をどうぞと口早に言って、焦れたように片手で招くような仕草をする。オトは酒盃を人質にでも取るように胸元に寄せ抱えてから数度かぶりを振った。
「こういう場でもなきゃあ、俺みたいなモンがあんたに――大水鳥の干樽八蛇、負け知らずのアカハナさんにお会いできる機会なんかないでしょうよ。弁えてるんですよその辺の身の程は」
じろりとオトが視線を横に振る。賭け代に置いた水鳥盃――オトが債務者から取り上げてきた代物だ――は空の杯底に電燈の灯を溜めている。
「ちょっと因縁が転んで、俺でもこうやって水鳥戦を挑む機会を捕まえられたんですから……そりゃあ逃すつもりはありませんよ。真剣なんだ俺は」
どうか応えちゃ頂けませんかと小さく頭を下げて、オトはそのまま見上げるように目線をアカハナに向けた。
アカハナは一瞬だけ眉根に深々とした皺を寄せてから低い声で呟くように言った。
「案山子。試合中の妨害行為を止めるのがあなたがたの役目でしょう」
「妨害行為なら止めますよ。ただ――」
いつの間にかアカハナの背後に立っていたハチロウはぐいと首をもたげるようにしてオトの方を見ながら、
「本気ですか」
「本気だよ。ゾッコンなんだ」
「試合を続行する意思は」
「当然だろ。俺がこのひとにイカレてんのと酒を飲む気があるかどうかは別問題じゃねえか」
手を抜く気はねえんだと俄然怪しくなり始めた呂律でそれでも力強く言い切るオトを正面から黙って眺めてから、ハチロウはそのまま首をぐいと捩じってアカハナへと向き直る。
「本気だそうなので。恋路を邪魔するのはよくないことでしょう」
競技の円滑な進行のためにこちらの告白の処理をお願いしますと淡々と述べる
ハチロウは相変わらず何の種類の感情も浮かばない凪のような顔で、真っ黒な目をぬるりと動かした。
「オト様にも申し上げます。これ以上の遅延行為が見られますと、こちらとしても対処せざるを得なくなります」
「遅延行為じゃねえよ。色恋沙汰だよ」
「愛でも恋でも試合進行の障害になる以上は同じ扱いです。再度申し上げますが、速やかな告白の処理か試合の進行をお願いいたします」
どこまでも事務的に述べられた警告にオトが問いを投げた。
「今はじゃああれか、タイム取らせてもらってるようなもんか」
「オト様の手番が終了した時点で進行が停止しておりますので」
「どこから……ああ、悪いちょっと待って。どこから再開?」
「アカハナ様に酒盆が渡りそちらの方が注ぎ終われば、アカハナ様の手番の開始となります」
「そうかい」
名残惜しいがここまでかと言ってオトは数度目を瞬かせる。冷やかな目をしたままのアカハナの顔を正面から見て、微かに口の端を持ち上げた。
「妨害だって言われたら仕方ない、仕方ないけどさ……嫌だな、こういうのはほら、次の一杯で終わるかもしれないからさ」
観念したようにオトがのそりと盃を差し出す。アカハナは呆れたように一度だけ溜息をついてから、白い手先を優雅に伸ばして、盃の縁にそのしなやかな手を添える。
その手首をぐいと掴んでオトがアカハナを抱き寄せる。大盆は畳に落ちて鈍い音を立て、数度ぐるぐると回ってから力尽きたように止まる。
咄嗟に抗おうとするアカハナを片腕で抑えつけ、顔を仰向かせる。そのまま須臾の躊躇もなく、オトは食いつくように口づけた。
アカハナの背を捕らえての熱烈な口づけは時間としては十秒ほどでしかなかった。
侍っていた小娘が動揺から立ち直るより先に動いたのはやはりハチロウだった。音もなく歩み寄りアカハナに絡みついたオトの両腕を無造作に引き剥がしてから躊躇なく肩口あたりを踏みつけるように蹴倒す。オトは呆気なく畳の上に倒れてから、黙ってそろそろと身を起こす。
「オト様、そういった行為は人前では」
「てめえこのクソ中年やりやがったな!」
ハチロウの無感情な制止を塗り潰すようにアカハナの怒号が響いく。白面に刷いたような朱を昇らせて吠えるアカハナの視線の先には、半身を起こして肩口を擦るオトがいる。腕を力づくで引き延ばされたのと肩を踏まれたのだから当然だが、オトの口元は嬉し気に吊り上がっている。
その口元に零れ出たでろりとして赤い魚に似た肉塊がひらひらとした肉鰭を数度震わせてから、観念したように吸い込まれていった。
幾度か喉をするすると撫でてから、オトがゆっくりと口を開いた。
「仕方ねえでしょう。こうでもしないと俺の想いが伝わらないなあって、そう思ったらどうしようもなかったんですから。いやあ満足だ、やっぱりこうやった方が人も仕掛けも手っ取り早い」
それじゃあ続きといきましょうかと掠れた声で言って、オトは据わった目で真っ直ぐアカハナの顔を見た。
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