この一杯は貴方のために
傾いた酒盆は無機質な電灯に縁をぎらりと光らせる。逸らされた喉は遠目にも白々として、嚥下の度に微かに筋が蠢く様子に工藤はどうしてか疚しいものを感じて目を逸らした。
幾度も盃は二人の間を行き来し、柄杓は酒を酌んでは翻る。干されるたびに盃は相手に渡されて、注がれた分を無心にまた飲む。余計な間などはどちらも与えようともせず、一定の調子を崩さないまま囃す声も煽る声もなく、柄杓が酒を掬う音だけが淡々と響く。
水鳥戦の対戦者である二人は殆ど口を聞かない。敵意を見せるわけでもなく、両者ともにまともに目を合わせまいとでもするように微かに俯いたような視線で互いの影を見つめている。傍に控えた少女もつんとした無表情のまま女主人の隣でオトをじっと睨んでいるばかりだ。
「あの娘何なんすかね。酒注ぐわけでもねえし」
「護衛じゃあないかな」
カシラがグラス一杯に手酌で清酒を注ぎながら、エンの方を見もせずに言った。
「さっき樽割った時に手首に墨輪と寵花紋があったからね。懐かしいけど久々に見たな、柊収会の波矢途衆が使ってるやつ……」
カシラがそう呟いた途端にぐるりとアカハナが顔をこちらに向けた。そのまま真っ白な指先を唇に翳して、赤々とした唇がにんまりと吊り上がった。
カシラは軽く頭を下げて、
「酔漢相手に一対一ってのも危ない話だ、護衛ぐらいつけたっておかしいこともないでしょうよ」
賭けの勝ち負けなんて暴力で引っ繰り返せるものねというカシラの言葉に、カガは微かに舌打ちしてから、黙って手元のグラスコップを傾けた。
工藤たち各務実業社の連中――水鳥戦ののんきな観戦者だ――もめぼしい皿はそれなりに片づけてしまったので、三々五々好きな酒を乱雑に飲むか間の潰しようもなくただただ黙って酒を飲み続ける様を眺めているしかない状況だ。追加の酒はどうやら入り口側に陣取ったエンが意外なまめさを発揮して補充を行っているようで、カガやカシラは黙ってオトの奮戦を眺めながら酒を干している。工藤としては酒が飲めない以上は宴席の常としては食うか歓談するかの二択を突きつけられるのだけども、食うにしても限度がある上に話し込むには相手がどれもこれも悪すぎる。水鳥戦を観戦しようにも、さして思い入れも関係もない他人がただただ酒を飲んでいるところを見ていてもどうしようもない。最初の方こそ格好こそ一等真っ当なハチロウを眺めて暇を潰していたのだが、そのハチロウもふと視線を外す度に部屋の隅やオトの真後ろや出入り口の戸口の側に立っていたりと眺め続けるのが恐ろしくなるような動きしかしないのだ。
このまま眺めていたらいつか自分の後ろに立つのではないかということを思いついて、慌てて工藤は目を逸らした。
「あの、所長。オトさんやっぱり飲むんですか」
「別に君もカシラって呼んでくれてもいいのに。そうだね、私よりは……カガ、お前負け越しだっけ」
カシラの問いにジョッキを掴んだまま不機嫌そうな顔でカガが答えた。
「負け越したな去年ですよ。今年はまだ俺の勝ち越しです。花見なんか明らかに俺の勝ちだ」
「大体年末際で負けるじゃないかお前。忘年会で潰れるか
少なくとも水鳥戦仕掛けるからには下戸ってことはないけどもとカシラは銚子から手酌で注ぎながら呟いた。
「オトさんだって普通よりかは飲めるだろうけどね、相手が水鳥じゃあそんなもんでどうにかできる気もしない……」
「水鳥ってそんなに凄いんですか」
「記録だと一人で一斗二升くらいのがいたね」
「レティクル座干渉以前の記録ですね」
いつの間にかカシラの背後に回っていたハチロウがぬるりと会話に滑り込む。工藤が驚いたのか跳ねた太腿を強かに大机にぶつけて皿ががしゃりと鳴った。
「あの辺りだと明らかな脚色も含めれば結構な記録があります。杯で飲むものから金魚鉢で試合うものもありますし、樽で飲むやつも散見されますね」
「ええと……いちとにしょう、っていうのはどのくらいの量なんですか」
「一斗二升ね。一升瓶十二本だよ」
工藤が目を丸くした。
「嘘か本当かはさておいてまあ三升飲めたら人間としちゃ見事だろうね。そもそも胃ってそんなに詰められないしねえ」
「どのくらい入るんですか」
「ん、瓶なら二本分ぐらいじゃないのかな。無理矢理詰めると意外と入るけど、そういうのは後のこととか考えないからね」
何を詰めるんですかと聞こうとした寸前で返ってくるだろう答えの種類を予測したのだろう。ぽかんと開けた口をそろそろと閉めて、工藤はすっかり室温に馴染んで温くなった煎弦茶のグラスを両手で抱え込んだ。
「一升空けたって大したもんだよ、それだってそこそこひどい目に遭う……それ以上は明日が要らないか酒ぐらいじゃ死ねない連中の量だもの」
あの酒樽どのくらいだろうねというカシラの問いに二斗樽ですねと淀みなくハチロウが答えた。
「先程申し上げましたが、たまに樽で干す方もいらっしゃいますので。そういう時は樽が積み重なっていくので場所塞ぎなのが難しいところです」
「そういうことをするのってあの……人間なんですか。死にませんかその量」
「九割がた人ではないですね。そもそも普通の人間は満杯の樽を軽々とは抱えられませんから」
ハチロウの言葉を聞き流しながらグラスの酒をぐいと干す。そうしてまた手酌で注いで、一杯になった縁を一啜りしてからカシラが呟いた。
「アカハナさんは少なくとも人間だけども水鳥だ、十年無敗はおっかないだろうに……勝てない勝負をするほど馬鹿じゃないとは思うんだけどね」
「賢かないでしょうよ」
平たい声でカガが割り込んだ。持ち上げた銚子が空だったのに舌打ちをして机上に転がしてから、口だけ開けたままにされていた清酒の瓶を手にして、グラスに勢いよく注いで続ける。
「楊永ビルの雀荘で手目打たれて身包みかっ剥がれたようなやつが賢いとは思いたかないですよ。覚えてるでしょう、現場明けに俺がわざわざ加勢に行ったんですから」
「その話、俺大暴れしたとしか聞いてねえっすカガさん。何やったんすか」
「大暴れするほかなかったんだよ。踏み込んだら雀ボーイ人質に啖呵切ってんだ、しかも戸開けた途端に俺の名前呼びやがったから逃げもできねえ」
俺は根に持ってますよとぼそりと投げつけられたカガの言葉にカシラは苦笑した。
「そうだね……馬鹿ではあるかもしれないけどね、まったくの無策で仕掛ける程の間抜けじゃないと思うんだ。腐っても
「ここの出ねえ」
酔いが回ってきたのか血の気の引いた顔面に明らかな嘲笑を浮かべてカガが言う。
「産地偽装に走らねえのはマシですけどね、ハナから腐ってるようなもんじゃねえですかそれ」
カガの言葉にカシラは眉根を寄せてから黙って酒を呷った。
机越しの試合場。酒樽を前として対峙する二人は未だ変わらず、さして変わらないペースで盃は進んでいく。それでもやはりアカハナの方は水鳥としての貫禄とでも言うべきか、真白い顔には酔いの気配は微塵もない。酒盆を差し出し受け取る手先にもあくまで優雅なままで、ひらひらと返される度に壁際に薄い影が踊る。
対するオトにはそれなりに酔いの兆候が見え始めている。指先の感覚が薄らいででもいるのか、手元をふらつかせながら受け取った杯を干す。顔色にこそ出てはいないが、時折吐く息がひどく重たげなのを見ても、やはり人間らしく飲んだ分の酒精が影響しているのだろう。
水鳥戦の勝ち負けは大変に単純だ。飲めなくなった方が負ける。酔い潰れて盃も持てなくなれば論外だ。そうすればオトはきっちりと賭け分を毟り取られて――何せ結果を誤魔化そうにも
「……頃合い見誤ったら、無策と同じことだろうによ」
グラスに口をつけたままぽつりとカガが呟く。ごく小さなその一言が聞こえたかどうかは分からないが、ずるりと酔いに赤らんだ目がずれるように
オトは一瞬だけ間を取ってから、ぐいと一息に酒盆を干す。その盃をアカハナの手に渡す前に、オトがじっとアカハナの顔を見つめた。
「店主――いや、アカハナさん。水鳥戦の最中だが、こんな機会でもなきゃあ言える立場でもなくってね……どうか聞いちゃもらえねえか」
アカハナが怪訝そうに眉を顰めて科を作るように首を傾ける。
その様子を見てオトは盃を片手に太い息を吐いてから、据わった目を真直ぐにアカハナに向けて牙を剥くように笑った。
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