一か八か呑まれて人災

 大皿から取り分けられた唐揚げをもそもそと齧りながら工藤は深々と眉根を寄せた。


「クドー飯食ってその顔はどうなの」


 ジョッキ片手にエンがもっともな疑問をよこす。齧った分を飲み下してから、不思議そうな顔のまま工藤が聞いた。


「済みません、不満とかそういうんじゃないんです。おいしいんですけど知らない味だなって思ってしまって」

「ん、コースのやつだから……これだね、鱗長鶏の唐揚げ」


 カシラの指先がすいとメニューを指す。工藤は字面だけを見て驚いたような顔をした。


「鶏ですか」

「蛇だよ」

「へび」


 阿呆のように単語を繰り返してから工藤の顔がみるみるうちに白くなったかと思うと、そのままものすごい勢いで手元のグラスに注がれていた煎弦茶を飲み下した。

 その様子を見てカシラは目を細める。


「火通ってるから大丈夫だよ。安全」

「いや蛇はさすがに初めてで。おいしいんですね、蛇、だけどちょっとその、抵抗が……」

「鱗長鶏はね、細い脚があるからもみじが噛みやすいんだ。私は好きだよ」


 何か欲しいものがあったら頼むかいというカシラの言葉に、工藤は黙って首を振る。手元の皿にまだ残っている唐揚げと青菜を眺めてから、浮かびそうになる表情を誤魔化すように工藤は口の端をねじ上げる。

 横から突き出された黒いトングがどさどさと得体のしれない揚げ物を工藤の取り皿の上に積み上げた。工藤は咄嗟に手の主の方へ悲愴な目を向ける。


「芋だよ」


 自身の皿にも雑に料理を移しながら、ぼそりとカガが言った。


「皿空けねえと店員が困んだよ。まだ来るから早く食って机空けろ」

「あ――取り分けとか、俺もやった方が」

「いらねえ。人に飯配られるのは腹立つからな」


 お前は文句言わずに黙って食えと視線も合わせずに投げつけられた言葉に工藤はこくりと頷く。そのまま宙に浮いたまま硬直していた箸で己が皿上から鱗長鶏の唐揚げを掴み上げて、今度はきちんと噛み千切ってから飲み込んだ。

 隣のエンが脇目もふらずにいやに鮮やかな紅色の包子を齧っているのを横目に、工藤は改めて机の上を見回す。黒木の大机の上には大皿が所狭しと置かれ、その隙間を埋めるように種々の酒瓶が生えている。工藤はどことなく感じた既視感の正体を探ろうとして、夏の法事の後で祖父母宅で行う食事会がこうだったことを思い出す。あのときは近所の仕出し屋と配達のオードブルで済ませたはずだったが、揚げ物がいやに多いのも人数に対してやたらに量があるのも同じだなと妙な感慨を抱いた。

 空いた皿の隙間に葉物を押し込まれて、工藤は皿からカガへと視線を移す。すぐに気づいたらしいカガがトングを掴んだまま怪訝そうな顔をした。


「何だ。まだ何か文句あんのかお前」

「文句じゃなくて感想というか――普通の飲み屋って感じじゃないですか、酒家というかここ。俺は漫画でしか見たことないですけど、大衆向けとか一般向けとかそういうのっぽくて、意外で」


 カガは空になった大鉢にトングを投げ入れてから手元のジョッキを呷る。三分の一ほどを干してから短く息を吐いて、


「そりゃこの辺の店でそんな高級店やったって客が来ねえだろ。ろくでなしと飲んだくれと馬鹿しかいねえのに……何でそんなこと考えてた」

「だってほら、水鳥ってやつなんでしょう店主さん」


 選手みたいなもんなんでしょうという工藤の問いかけにカガは皮肉気に口の端を吊り上げた。


「別に店主が何だろうが店の格には関係ねえよ。ベルト持ちボクサーが格式高いバー経営できるとは限んねえのと同じだよ、精々ギャングバーの暴力バーテンダーだ」

「それは分かります、けど」

「けど何だ」

「……そこまで頑張ったんならもう少し選択の幅があって欲しい、です。俺としては」


 カガが片目だけを見開いてじっと工藤を見る。工藤は何となくその視線を受けるのが躊躇われて、仕方なく正面を向く。

 目の前の大机を挟んで向こう、座敷の前方には床の間を前にして向かい合う二人がいる。一方は無闇に袖のひらひらと金魚めいた衣装の酒家の主。一方は銀地に気の触れたようなチェーンの柄シャツのオトだ。一見しての印象が酒合戦どころかただのそういうお店の接客風景にしか見えないのに二人の間に置かれた樽酒と行き来する酒盃だけが不釣り合いに艶やかで厳めしく、噛み合わなさが悪い夢のような光景だと工藤は思う。


 あの血まみれチンピラオトにより持ち込まれた悪企みから数日後、所長の手によって手配されただろう諸々は滞りなく進んだ。

 一壺酒家の看板を潜り出迎えた店員とカシラが短いやり取りを交わした後に通された一室には、カシラが言っていた通りに『新入りの歓迎会』という名目で用意されたであろう酒席の支度が済んでいた。食器や酒瓶が準備された黒の大机、そこから距離を置いての向かい側、何やら達筆が過ぎて文字とも画とも見分け難い掛け軸の下がった床の間の手前には異様な存在感を以て置かれた奈戸水軍の名も鮮やかな樽が一つに、寄り添うように置かれた紅柄杓が一つ。

 それらの傍らに大盆を手にした女が一人、傍にいやに尖った目の小娘を従えたまますらりと伸びた背を優雅にしならせ一礼して、


「水鳥戦の御指名を頂きました。干樽八蛇と水鳥名を頂く身ではありますが、どうぞお手柔らかに願います」


 一壺酒家の女店主たる負け知らずの大水鳥、干樽八蛇のアカハナはにっと真っ赤な口からすきっ歯を覗かせて笑ったのだ。


 保証のようにオトが漆赤の水鳥盆を差し出し、アカハナは受け取ったそれを酒樽の傍に置く。そうして手にしていた大盆――彼女の顔ほどもある――を軽々と翳して、


「これで注し呑みいたします」


 その一言と共に樽酒のフタを小娘が景気よく割り開けて水鳥戦は始まった。


 その戦を肴のように眺めながらいやに揚げ物と量の多い料理を相手に各々がジョッキやグラスを傾けているのが工藤たちの立場である。真剣勝負を眺めながら至って平穏な宴席を続けているという妙な居心地の悪さを凌ごうと、工藤はどうでもいいことを口走る。


「服装のこう、最低限のドレスコードみたいなのとかないんですかね」

「いいんじゃねえのどうせ飲み比べだし」

「だってほら、『河原の喧嘩』じゃないんでしょう。仰ってましたよオトさん」

「仰ってたって実情がああだろ。酒飲んで量飲んだ方が勝ちって話、そんなもんに格式があるんならじゃあ人の殴り方にも格があんのか」

「格式ばったものではありませんが歴史あるものですよ。水鳥戦」


 ぬるりと感情のない声が割り込んだ。

 工藤はぎくりと身を強張らせ、カガは僅かに眉を寄せた表情で声の方向を振り返る。

 座敷の隅、ちんまりと座布団の上に正座して、顔に盛大な火傷痕のある男が工藤の方を向いていた。


「ど――」

「申し遅れました。本日こちらの水鳥戦を担当いたします、案山子のハチロウと申します」


 どうぞよろしくお願いいたしますと折り目正しい一礼が返ってきて、工藤はひとしきりうろたえてから恐る恐る真似るように頭を下げた。


「さっきからいたのにね、ハチロウさん」

「いらしたんですか」

「水鳥戦の開始から立ち会っておりました」

「さっきまでは向こうにいたからね、いつの間にか隅の方に移ってたけども」


 今日はよろしくお願いしますとカシラが一礼すればハチロウは黙って深々と頭を下げた。


 案山子――オトがカシラに手配を要求していた『案山子』のことだと思い当たって、工藤はカシラが話していたことを思い出す。勝負事の場に立ち会って、公平かつ滞りなく勝負それが遂行されるのを見届けるのが彼らの生業だとカシラは説明していたが、その役割が分かってなお工藤は目の前の男から脅威のようなものを感じている。きちっとした黒のスーツと柔らかな物腰は各務実業社チンピラ連中よりは余程まともに見えるのに、不自然なほどに動きのない表情や顔の右半分を覆う火傷痕などの種々の痕跡が、恰好がまともな分だけより明確に堅気ではないことを主張しているのだ。


「説明を続けてもよろしいでしょうか」

「せ――あ、水鳥戦のですか。はい。していただけるのなら、是非」


 工藤のしどろもどろの物言いを気にする様子もなく、ハチロウは仮面じみた無表情のまま顔だけを工藤の方にきっちりと向け口を開いた。


「規模の大きな酒合戦飲み比べならば、千年前まで遡れます。勅命での競り合いだったそうですから、格としても結構なものでしょう」

「酒量比べに格ねえ」


 冷ややかな声で呟いてカガはジョッキを一息に呷る。空になったジョッキを置けば、ばりばりと揚げせんべいらしきものを齧りながらエンが机の端に移動させていった。


「勝負としちゃ分かり易いだろうよ。潰れりゃ負けだ。見届けがいるなら言い逃れができなくっていい……」


 その通りですとハチロウが答えた。


「互いに注いで互いに飲む、実にシンプルな競い方です。純粋に飲める量を競う分、作為を仕掛ける余地があまりない」

「袋だの仕掛けるやつもいるんじゃねえすか。飲んだフリして流して捨てるの、飲み屋の姉ちゃんがよくやるもん」


 突然に割り込んだエンの疑問に、僅かに頷いてからハチロウが言った。


「勿論そういった不正をされる方もいらっしゃいます」

「いるんだ」

「バレる不正をした頓馬と見抜けなかった間抜けが悪い、というのは水鳥戦に限らない話ですので」

「やるんならちゃんとやれってことかよ」


 あの恰好じゃあ袋は仕込めねえなというエンの呟きに、ふざけた柄シャツにも利点があるのだなとどうでもいいことを工藤は思った。


「水鳥戦での飲み合いは、酒樽から直に柄杓で互いの盆に注ぐというやり口なので……薬やすり替えも難しいんですよ。盆も一つですから」


 体ぐらいしか弄るところがありませんしねと言って、ハチロウは何かを確認するように数度目を瞬かせる。電灯の下でも黒々とした目に怯えるように、工藤はその双眸から視線をずらして問う。


「ハチロウさんは、その、お詳しいんですかこういうの」

「勝負事には仕事柄馴染みがあります。案山子ですので」


 今回の試合はペースが良いですねとハチロウは僅かに口の端を吊り上げてみせた。

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