暴けあからさま電灯のもと晒せ

 一番最初に喚き出したのはエンだった。


「兄貴今のは何ですかっつうか何それ虫ですか兄貴、大丈夫なんですか兄貴そんなもん飲んで!」


 そのままエンが立ち上がろうとする寸前、横からそれなりの勢いがついた座布団が投げつけられて綺麗に当たる。房飾りが鼻先を掠めて工藤は微かな悲鳴を上げた。


「あれくらいじゃ死なねえよ。じっとしてろ」

「カガの言う通りだ。エン、静かにしなさい」


 カシラの言葉に起き上がったエンが手にした座布団を畳に叩きつけ、鳴り渡る音にまたしても工藤がびくりと震えた。

 カシラは猪口に酒を注ぐ自身の手元に目を落としたまま、ほんの少しだけ眉根を寄せて口を開いた。


「そうだな。とりあえずオトさん、説明をお願いします。?」


 オトはよろよろと起き上がりながら口を抑え、しばらく天井を見上げて喉を蠢かせてからようやく口を開いた。


「酒虫だよ。見てくれがちょっと悪いが、価値を知ってる連中が喉から手ェ出して欲しがるような――」


 言うオトの口元からまたしてもでろりと肉塊が顔を出し、工藤は頭部と思しき赤黒い先端に埋まる濡れた碁石のような目と視線が合って息を呑んだ。

 オトはアカハナから間合いを取ったままもう一度口元をぐいと抑えて、


「ああ駄目だな喉から出たがる、新人さんちょっと酒瓶持ってきてくれる」

「は。俺」


 唐突に与えられた出番に工藤が間抜けな声を立ててから、蒼白になって隣りのカガを見上げる。カガは酒瓶を掴んで自身のグラスへ注いでから、


「ご指名だ。行ってこいよ」


 そう言って酒瓶を押しつけてから犬でも追うようにひらひらと片手を振った。工藤はもはやどの表情も作れなくなり血の気も失せて真っ白になった顔のまま、手近にあった酒瓶――口こそ開いてはいるがまだ八割ほど残っている――を抱いて、ぎこちない歩みでオトの傍まで辿りつく。

 オトは酒瓶を毟り取るように手にしてそのまま直に瓶に口をつけ、喉を鳴らしてサイダーでも飲むように干してから瓶を畳の上に倒した。


「飲みかけ寄越しやがったな……まあいいさ、しばらく落ち着く。とりあえず水鳥戦の再開の前に説明したいこととよ、伺いたいことがちょっとあるのさ」


 時間を少しもらえるかいとの言葉に、いつの間にか工藤の隣に立っていたハチロウが問いを投げた。


「オト様。私からもお伺いしてもよろしいでしょうか」

「おう」

「本物ですか?」


 穏やかな口調に、隠し切れない曖昧な答えを拒絶する気配が滲んでいる聞き方だった。オトは片眉だけを跳ね上げて。


「少なくとも俺は本物だと聞いてる。証明はやり方が分かんねえからあれだ、端から酒持ってきてくれればいけるんじゃねえかな」


 いくら飲んでも酔えねえはずだぜとさらりと答えて、畳に転げたままになっていた酒盆を拾い上げる。傍らに立ったハチロウがいつの間にか手にしていた酒瓶を工藤に差し出す。


「は――あの、ハチロウさん、え」

「ちょうどいいや注いでくれよ新人さん、案山子は審判だしな」


 あっちの嬢ちゃんもそれどころじゃないようだしという視線の先を辿れば噛みつく寸前の獣じみた獰猛な目つきの小娘にぶち当たって、工藤はすぐさま目を背けた。

 ぎくしゃくとどうにか零さずに注ぎ終われば、不慣れなのも手伝って縁際ぎりぎりまで酒が波打つ。盆の様子にオトは眉一つ動かさず、そのまま口をつけて一息に呷る。規則正しく上下する喉を電灯に晒して、盛大に息をついて姿勢を戻す。

 見事に空になった盆を手に載せたまま、オトはぐいとハチロウの方を向いた。


「やせ我慢じゃねえって証明ができねえが、とりあえずはこんな具合だ。かけつけ一杯どころか一升だな」


 心なしかあの愛の告白まがいをする以前より元気そうな顔色で、オトは盃の底に残った雫を開けた口に垂らし込む。工藤は瓶を持ったまま、手元の瓶と隣りの中年オトを信じがたいものでも見るかのように交互に眺めては呆然としている。

 ハチロウはその光景をしばらく眺めてから口を開いた。


「試合が中断しておりますがご容赦ください。酒虫の説明をいたします。

 酒の虫、と書く通りのものです。ただ我々が常日頃目にする蚊や蝉なんぞの虫とは違い、どちらかと言えば精霊や妖物の類です。水を詰めた壺に入れればその水を美酒に造り替える程度の、害のない虫です」


 むしろ益虫でしょうかというハチロウの言葉にオトが数度頷いた。


「寄生虫みたいなもんだったりすんですか。さっきそこの色魔の口に潜ったけども」


 カガの問いかけに工藤の顔が更に白くなる。オトの口の端から零れた肉塊の姿を思い出したのだろう、心持ちオトから距離を放そうと試みてもやり切れず、酒瓶を持ったままの体が妙な具合に反っている。


「生物に寄生することもあります。何しろ酒精、妖鬼妖虫の類です。何かの拍子に人の胃の腑に棲むこともありますし、その記録伝承はいくつかあります」

「人に入るとどうなんです。人も酒に造り替わったりすんですかね」


 そうしたら一石二鳥じゃねえかと微かに喜色を含んだ声でカガが呟く。

ハチロウはゆるゆると首を振ってから、


「残念ながら人に入った場合は美酒も生みませんし、人間を酒に換えるような悪辣な真似もいたしませんが、」


 ハチロウが短く息を吸う。温度のない目にぎらりと照明を映り込ませて、張り上げずともいやに通る声で言った。


「腹に飼えば、何合何升何斗飲もうとも、その飼い主は酔うことなく酒の味を楽しむことができます」


 もう一度飛び掛かろうとしたエンをカガが突き倒して、カシラが一瞬だけ視線を手元の酒杯から上げて二人を掠め見た。オトに酒瓶を渡してから逃げる時機を完全に逸した工藤は縋るようにまだ中身の残る酒瓶を抱きしめて、必死で眼前の惨状に焦点を合わせないように虚しい努力をしている。

 オトだけがいやに涼やかな表情で真っ直ぐアカハナを見つめている。

 アカハナの目が一瞬だけ揺らぎ、すぐさま大水鳥干樽八蛇らしい、冷徹な無表情を張りつける。そのままオトの目を射竦めるように見返して、


「……随分な仕打ちじゃあありませんか。何てことをなさるんです、オト様」


 やり口が強盗タタキのそれでしょうよとたしなめるような柔和な声には一切の怒気は見えず、代わりのように傍に控えたままの小娘は双眸だけをぎらぎらとさせてオトの喉元を睨んでいる。


「随分な言われようだ、心外だよ。気に入ったのは嘘じゃねえのに」


 喉を数度撫でてから、穏やかとさえいっていいような声音でオトは続けた。


「そもそもこれは俺の取り分でよ、あんたもこうやって、あー……よっちゃんから掠め取ったんだろ。ちゃんと聞いたぜ血まみれになりながらよ」


 オトの言葉にアカハナが僅かに目を瞠る。紅のれた口元を歪めて、


「……十年来の仇討ちのつもりですか。あんなアル中のクズにつく子分がいるなんざ思ってもなかったんで、あれきり忘れてましたよ」

「そりゃいけねえ、長年の酔いが回ってんじゃねえのかハニー。そんで俺はよっちゃんの子分でも何でもねえ。実家うちにツケ貯め込むようなクソ常連の仇なんぞ誰が討つかよ」


 ツケの回収だよとうそぶいてから、オトは工藤から酒瓶を取り上げて手酌で注ぐ。その酒盆を一気に傾けて、空の底を翳して嗤った。


「さてお伺いはこっからだ。さっき案山子の兄ちゃんが説明してくれた通り、酒虫を腹に飼ってりゃ酒を飲んでも酔うことはねえ。俺が証明できてるかはともかく、盆の一口一升瓶の一本、酒の味こそそのままだが、ご覧の通りに俺は全く酔ってねえ」

「酔っ払いは大体酔ってないって言いますよねカシラ」


 迂闊なことを懲りずに口に出したエンを再びカガがひっ叩いた。

 オトは観客席からの野次など聞こえなかったように言葉を続ける。


「で、アカハナさん。少なくともあんた十年前のことは覚えていたな。底なしに酒が飲めるだけが取り柄の、毎日その日暮らしで行きつけの飯屋にもツケを溜め込むようなクズから口先使って巻き上げたことをよ」


 よっちゃんのこと覚えてたもんなというオトの言葉にアカハナの目が尖った。


「十年腹に入れてりゃ知ってるよな、手前がいくら飲んでも酔うことがないってことはよ。そうだろ?」

「知っていたとして、何か問題が?」

「いやあ大事なことだろう、端から勝負なんざ成立しないと分かっているのにさも公平なふりをして水鳥戦を続けてきたわけだ十年!」


 唐突に大音声を叩きつけてオトが平手で畳を打つ。びくりと工藤が跳ね上がろうとして、抱えたままの酒瓶の重さによろけた。


「飲んでも酔えねえっていうのが天然モンの体質だってなら構うこたねえ、そりゃあ天賦のなにかしらだ、そいつを生かして飲み比べでも水鳥戦でもいくらだって飲み倒してやりゃあいい」


 才があるやつが大暴れすんのは見てて気持ちがいいからなと言い切ってから、オトはもう一度調子でもとるようにどんと畳を突いた。


「だが手前の鯨飲底深は腹の中の虫の御利益じゃねえか。その辺の飲み屋の飲み比べだってそんな行儀の悪いいかさまはしねえだろうよ、ましてや大水鳥の干樽八蛇さんなら尚更だ」

「……いかさまだとしても見抜けない方が間抜けでしょう、そのくらいのことで駄々を捏ねるほど子供じゃあないでしょうに」

「見抜けなけりゃな。だから十年前のあんたを手本にしたんだよ。やったんだろ?」


 見抜かれといていうこっちゃねえやとオトが笑ったその口の端にちろりと肉鰭が零れて、拭うように掌で隠す。口元を手が一撫ですれば、冗談のように見事な犬歯がぎらりと光った。

 アカハナは冷然とした表情を崩さず、オトも挑むような笑みを浮かべたまま視線を逸らそうとはしない。

 口を開いたのはオトの方だった。


「……まだ試合は中断してる。俺がこの盃をあんたに返せば、水鳥戦は再開だ。そこの案山子が審判で、そこの嬢ちゃんが酒盆に注いであんたが干したら俺の番だ。簡単な勝負だ、酔って潰れた方が負けだろう。それだけが水鳥戦だ」


 ずいとオトが盃を突き出す。

 半眼の目は真っ直ぐアカハナを見て、厳かにすら聞こえるような声で問うた。


「どうだよ干樽八蛇アカハナ、酒虫を飲んだ俺とは勝負を続けちゃくれねえかい?」


 差し出された酒盆に電灯の光が歪んで映り鈍く閃いた。

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