皿の上にある笑顔

 手近な長机に、工藤と青年は向かい合って座る。すると無口な男が音もなく机の横に立ったかと思うと握り飯が山のように盛られた大皿と水の入ったコップ二つを机に置いて、そのまま足音一つ立てずにカウンターの向こうに戻っていった。

 その背中にありがとうございます頂きますと大声で礼を告げる青年につられて微かな声で工藤も続けるが、特に何かが返ってくるでもなく、青年の感謝の残響もすぐに消えた。

 何が起きているのか、何をしているのか。状況に置いていかれて、工藤は皿と青年を交互に見やる。青年はコップの半分を既に空にしながら、


「朝と夜はここに来ればメシが出んの。ほんとなら朝もうやってねえんだけど、今日はあんたがいるから特別」


 食器だけ返しておけばいいからと言って、そのまま躊躇なく握り飯を掴む。がぶがぶときっちり三口で食べ切ってから、青年はじっと工藤を見た。


「初めましてってやったっけ。俺昨日あんた見たけどあんた死んでなかった?」

「死んでは――なかったとは思いますけど、記憶がないです」

「やっぱし? じゃあ俺名乗った方がいい? エンっていうんだけど」

「エンさん。ありがとうございます。俺は工藤と言います」

「あ、聞いてたな俺思い出した今ので。兄貴が言ってたわ」


 カガさんの手伝いしてたんだってと言われて、工藤はその名を聞いた途端に飯が喉に詰まって異音を立てる。慌てて傍らの水を流し込んでから一息ついて、エンから視線をおもむろに逸らす。


「あの、バットの方ですよね、カガさん」

「そう。人相が悪い人。柄も悪い」

「事故物件にご一緒しました。手伝えたか、どうかは……」

「あそ。まあ役に立ったんじゃねえの? 一応ここ社員寮だし」

「ここどこなんですか」

「赤蔵荘。各務実業社カシラの持ち物だって聞いた。だからここにいたってことはあんたも社員扱いなんじゃね?」


 社員寮がある。どうやら食堂もある。そもそも目覚めたのは安物とはいえきちんとした寝具の上だった。カシラ及び各務実業社がどんなものかということは未だにほぼ分からないが、一切の心当たりなしに放り込まれた状況で引き当てた環境としては現状は相当に当たりの方だろうと考えて、工藤は掴んでいた握り飯をどうにか食べ切る。そのまま二つ目を齧りながら、早くも皿の半分を空にしているエンに問うた。


「社員かどうかはともかく、なんですけど。どうやって辿り着いたかをちょっと……覚えてなくって……」

「オトの兄貴が担いでたよ」

「担がれてたんですか」

「夜風に当たってたら兄貴が人担いで帰って来たからさ、何だろうってみたら顔色すげえ悪いんだもん。死体埋めるんなら手伝いますよって言ったら蹴られたけど」


 多分あのまま部屋に投げ込んだんだろうなと平然と言うエンの様子に、工藤は昨日の諸々を思い出す。通学電車を待つホームから転げ落ち、覚えも馴染もない異界で得体のしれない女に連れて行かれた先で柄の悪いチンピラカガに会い、訳も分からず放り込まれた事故物件では異様なものに顔の皮を剥がされかけ、そのバケモノじみたものを返り血を盛大に浴びながら殴り潰したカガの姿を見た。

 起こったことの全てが工藤にとっては理解ができないことばかりで、あの夜から地続きにこの朝――髪色の派手なチンピラエンと握り飯を食べながら団欒しているという状況――に到達できたのが信じられない。全部荒唐無稽な夢か何かだと言われた方が納得がいく。だが残念ながらきちんと握り飯の塩気もコップの水の温さも感じることができる以上、現実だと判断せざるを得ない。もしも望み通り夢だったとしても、これほどの現実感と明確な感覚があると共に覚める気配がないのだから、工藤にとっては意味のないことだ。手詰まりなのことに変わりがない。


「ソエダさんご馳走様でした!」


 突如張り上げられた大声に、工藤はびくりと身を硬くする。皿の上はいつの間にかきれいに空になっており、工藤がぼんやりとしている間にエンが平らげたのだと気付いて唖然とする。


「とりあえずさ、あんたのこと事務所に連れて来いってカシラから言われてんの。飯済んだから行くぞ」


 あんた一人じゃ道分かんねえだろと言って、エンはにっかりと笑う。屈託ないとさえ言える快活なその表情と物言いに、工藤はようやく安堵する。外見こそカガと大差ないチンピラじみた色合いと物腰に見え、おまけにあの不気味なカシラの手下――社員である以上は、エンも恐らく真っ当な人間ではないだろう。だが少なくともこの朝食の間、彼は一言の脅しも暴力も行使していない。やたらな胴間声と一言もなしに握り飯の殆どを食べ尽くしたのは問題だが、些細なことと目を瞑れる。

 とりあえず彼の指示に従おうと決め、工藤は頷いてみせる。どうせ拒否する理由も手段もない以上は工藤の意思など意味を持たないのだろうが、それでも最低限の納得ができたのは幸運だと思った。


「分かりました。一度、部屋に戻ってもいいですか」

「いっけど何すんの」

「せめて顔ぐらいは洗いたいんです。寝起きのままなので」


 エンは工藤の返答に少しだけ不思議そうな顔をしてから、


「じゃあ一旦部屋戻るか」


 皿片してくるわと言って、エンは勢いよく立ち上がる。もたついて機嫌を損ねまいと、工藤も慌てて椅子から立とうする。

 その瞬間、ごどんと鈍い音がする。微かな舌打ちが机の上から聞こえて、工藤は恐る恐るそれを見る。


 何の変哲もないありふれた食器。山盛りにされていた握り飯はすっかり平らげられて、白々とした大皿の上には米粒一つ残っていない。食堂の窓からは日射しが燦々と流れ込み、机の上にも夏の陽は容赦なく到達する。

 朝の光が降る、明るく白い大皿。その上にごろりとエンの首が転がっていた。


「い――」

「支えんの忘れたからさあ、これ……とりあえずさ、ちょっと固定するもんとかねえかな」


 そう言って笑うように細められた左目と目が合って、工藤は今更のように悲鳴を上げた。

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